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第一話

 ――――何事も無難が一番でしょ、愛想笑いはお手の物。私はいつだってそうやって生きてきた。 




 ここはどこだろう? 


 眼前に広がるのは砂利、じゃり、


 ジャリッ


 冷たい石が肌に触れる感覚がして、手元で砂利が音を立てた。

 どうやら倒れていたらしい。身を起こし、前方を見ると、やはり砂利が広がっている。遥か先まで延々と

 続く砂利の中に、二本の鉄の線が見えた。それもずっと先まで伸びている。ハッと気づく。線路だ!


(なぜ私はこんなところにいるのだろう?)


「大丈夫ですか?」


 呆然としていると、頭上から男の声が聞こえてきた。


 スーツ姿のサラリーマン風の男が、こちらをじっと見つめている。彼は手を差し伸べることもなく、ただのんびりと眺めているだけだった。大丈夫というより私は状況が掴めていない。


 ふと、周囲を見渡す。すると、遠くから電車が近づいてくるのが視界に入った。瞬間、心臓が激しく鼓動し、全身に緊迫感が走る。 



 ――――――死 



 心臓が喉元まで跳ね上がり、頭の中が真っ白になる。全身を駆け巡るのは、死の恐怖。


 その瞬間―――――― 


(こんな死に方は)


「いやだ―――――――!!!!」


 私の身長は153センチで、平均よりやや低い。ホームの床がちょうど目の高さにある。さらに今日は分厚い生地の重いロングスカートを履いていて、動きにくい格好だが、そんなことは気にしていられなかった。


 私はすぐ横のホームに両手をつき、力いっぱい飛び上がった。胸がホームの床に届き、全身の力を振り絞ってなんとか這い上がることができた。その瞬間はまるで一瞬の出来事のように感じられた。驚くべき飛躍力と瞬発力を発揮した自分を、心の中で称えた。まさに、火事場の馬鹿力とはこのことだろう。


(助かった……)


 程なくして、電車は反対側のホームに到着した。私が落ちた側には、もともと電車が来る予定などなかったのだ。ホッと胸を撫で下ろし、安堵の息をついた。


 もう一度辺りを見渡す。誰も私が線路に落ちたことに気づいていない。皆、電車に向かって列を作り、乗り降りしているだけだった。それもそのはず、私が落ちたのは駅の端の線路で、電車を待つ人々は反対側を向いていたからだ。わざわざ後ろのホームを気にする人など、ほとんどいないだろう。


 騒ぎにならなかったことにホッとする反面、線路に落ちるという大事故が起きたのに誰にも気づかれず、一人で慌てふためいていたという虚しさがないまぜになる。まあ、気づいた人は一人いたけれど。私は横に立つスーツ姿の男を横目で見た。


 遠くから制服を着た女子高生がこちらに向かって走り寄ってきた。


「すみません! もしかして、私のカバンが当たったせいで落ちちゃいましたか?」


 女子高生は心底申し訳なさそうに、焦りながら言った。私は、なぜ自分が線路にいたのかを思い出そうとした。


(あぁ、そういえばあの時ホームの端を歩いていた、誰かとぶつかったような気もする)


 私が何か言おうと口を開きかけた時――――――


「大丈夫、気分が悪かっただけですよね?」


 答えたのは、最初に私に声をかけたスーツ姿の男だった。


(お前が答えるんかい!!)


 心の中で突っ込みをかましてしまう。

 確かにあの時は気分が悪かった。それで、電車の待ち列をさけて、ホームの端を歩いていたのだ。そうだ、思い出した、気分が悪くなって椅子に座って休もうとしていたんだ。


「あ、そうです。気分が悪くなって落ちちゃったみたいです。ぶつかったかは覚えていないんですけど、大丈夫ですよ」


 何事も無難が一番。こんなに申し訳なさそうに誤ってくる女子高生をこれ以上攻めたくはない。 


「本当に? もしぶつかっていたのならすみませんでした!」


「大丈夫ですよ」


 私は下手糞な愛想笑いを浮かべて、気にしていないことを伝えた。女子高生は一礼し、申し訳なさそうな顔をしながら私から離れていった。


「良い子だなぁ」と悠長に考えていたが、ふと耳に付けていたイヤフォンがなくなっていることに気づいた。周りを見回しても、どこにも見当たらない。まさか線路に落としたのかと思い、下を見下ろしてみるが、それらしいものは見当たらない。


「今日はほんとについてない」

 ふと、一人ごちた。


「これですか? 落ちていましたよ」


 横からにゅっと男の手が差し出された。その手にはイヤフォンが置かれている。特徴的な色だから、自分のものだとすぐに分かった。先ほどのスーツ姿の男が拾ってくれていたようだ。


「あ、これです! ありがとうございます」


「怪我していませんか? 少し休んだ方が良いと思いますよ」


 確かに怪我をしているかもしれないし、もともと気分が悪くて休もうとしていたのだ。男に言われたからというわけではないが、私はホームのベンチに腰を下ろした。すると、なぜか男も隣に座った。心配しているのだろうか?


 膝に痛みを感じた。隣にいる男の存在が少し気になったが、スカートの裾を膝上までたくし上げ、膝の状態を確認する。血は出ていないが、全体的に赤くなっている。打ち身だろうか。手の平には痛々しい出血があり、少しズキズキするが、他に痛みは感じなかった。あんなに高いところから落ちて、頭を打たなかったのは不幸中の幸いだろう。


 しばらく座っていると、膝の痛みが次第に増してきた。落ちた直後はそれほど痛みを感じなかったのに、今はズキズキとひどく痛む。このまま出勤するのは難しそうだ。私は職場の上司に連絡し、線路に落ちたことと、その影響で少し遅れる旨を伝えた。


「ついてなかったですねぇ、怪我までしてしまって」


 横から悠長な声が聞こえてきた。この男いつまで側にいるつもりなのだろうか……


「そうですね。でも、怪我も大したことなさそうだし、電車も反対側のホームに来ましたね。私、電車に轢かれるかと思って慌てちゃいました。ほんと、無事で良かったです」


 愛想笑いはお手の物。私は男に早く立ち去ってほしいと思いながらも、無難にその場をやり過ごすために適度に合わせる。


「身体が痛いなら病院まで送りましょうか?」


「…………」


 一瞬思考が停止した。しかし、すぐに再起動する。いやいや、見知らぬ男に世話を焼いてもらうほどの大怪我ではない。大の大人だ、タクシーを捕まえて病院くらい自分で行ける。


「いえ、大丈夫です。そこまで痛みはないですし、もし痛みがひどくなる様だったらその時は病院に行きますね」


 嘘だ、本当は結構痛い。私は痛む身体に鞭を打ちながらも、これ以上見知らぬ男との気まずい会話を続けたくなくて、その場を去ることにした。


「私、そろそろ行きますね。職場には連絡したけど、あまり遅れるのも良くないですから」


 会釈しながら、得意の下手糞な愛想笑いを浮かべた。


「そうですか。痛むようなら本当に治療を受けた方がいいですよ」


 どうにもおせっかいな男だ。それでも、心配してくれているのだから、あまり悪く思うのもよくないだろう。



『残念でしたね。あちらに落ちていれば、こんな痛み感じずに済んだのに』



 去り際のあの言葉。あれはどういう意味だったのだろうか。まるで私が死んでいればよかったと言わんばかりの……




 結局、職場に行く前に病院に立ち寄ることにした。思った以上に痛みがひどくなっていたからだ。診察の結果、骨には異常はなく、強い打撲と切創だと言われた。打撲した膝はしばらく安静にしておくようにとのことだった。


 失敗談も時が過ぎれば笑い話。


 上司や職場の人たちは、私が線路に落ちたと話すと、怪我の具合をひどく心配してくれた。それでも、電車が反対側に来たことや、焦って慌ててホームによじ登った話を冗談めかして伝えると、同僚たちは心配しつつも最後には笑いながら「まったく、まこちゃんは本当にうっかり屋だね」と言って笑い飛ばしてくれた。


 その場を和ませる話題を提供できてホッと一安心。心配されすぎても「大丈夫です」としか返せない。笑い話に変えて話題を終わらせるのが一番だ。


 今日の出来事を思い出しながら、いつものイヤフォンを耳に付けて音楽を聴きながら電車を待つ。怪我をしているからと、繁忙期にもかかわらず上司が早めに帰宅を促してくれた。結局、職場の人たちはなんだかんだ言っても良い人たちばかりだ。給料が特別良いわけではないが、親切な人たちに囲まれて働ける無難な職場。私は、恵まれているのだろう。


 私の好きな歌手のいつもの歌を聴きながら電車を待つ。ふと前を見ると、今朝のスーツ姿の男が反対側のホームに立ってこちらをじっと見つめていた。偶然だろうか……


 私は軽く会釈をしてはにかんだ。いつものホームで、いつもの音楽を聴きながら。


 お腹がキュッと縮むような感覚がした。目の前が白く霞んでいく。「まずい」と思った。

 電車はもうすぐそこまで来ているけれど、どこかで休んだ方が良いかもしれない。そう考え、ベンチに向かって歩き出そうとした―――――――


 ドンッ!!


 身体が宙に浮く。デジャヴのような感覚。まるでドラマ、スローモーションのように、全てがゆっくりと進んでいく。霞みがかった視界の目前に、大きな電車の車体が迫った。







 電車の轟音が耳をつんざいた。その瞬間、視界が真っ白に染まった。


 耳の奥で何かがつぶれる音がした。


 遠くで男がほっそりと笑っていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうごさざいました。

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