4
空がうっすらと赤らんで来た頃、しばらくの沈黙をエルザイヌが破った。
すっと音もなく立ち上がったエルザイヌは椿を振り返り、その左手を差し出した。
「そろそろ帰ろう。ゼーレが痺れを切らしたみたいだ」
「え?」
椿はその差し出された手を借りることなく立ち上がった。
エルザイヌは小さく笑い、そして椿の背後に視線を移した。
つられるように椿も背後に視線を向けると、いつからいたのか、エルザイヌの黒い馬と土色の馬がもう一頭寄り添うようにそこにいた。
そしてその馬の横には、いつぞやエルザイヌの職務室にいた大きな男が、黙ってこちらを見つめていた。
「い、いつからいたの……」
「椿が『猫被りはキライ』と言った辺りぐらい」
椿はエルザイヌを目を丸くして見つめた。
気配もなくそっと現れたゼーレにもそうだが、そのゼーレに気付いたエルザイヌにも驚きだ。
椿は自分の注意力のなさだろうかと考えたが、恐らくそうではないだろうと思った。
おかしいのはこの二人だ。
「よくここにいるってわかったよね。完全に巻いたと思ってたけど」
「ゼーレには適わないんだ」
そう言ってエルザイヌはにこりと微笑み、ゼーレに小さく手を振った。
ゼーレはそれを受けて頭を垂れた。
エルザイヌが素直にゼーレに負けを認めているということは、それは信頼の証だろう。
椿はなぜだか、暖かい気持ちになったのだった。
〇〇*〇〇
帰りの馬は、それはそれはゆっくりと歩を進めた。
行きと同じようにエルザイヌの腕の中に収まっている椿だが、その心境はがらりと変わっていた。
エルザイヌに対する感情も、その周りの人間に対する感情も、そして黒姫という自分自身の立ち位置に関しても。
城に着く頃には、巻いた全ての男たちがエルザイヌを取り囲むように配備されていて、事の重大さを物語っていた。
エルザイヌは「すまなかったね」といつもの嘘笑顔で言い回ったおかげで、男たちから反論の声は上がらなかった。
「心にもないことをいけしゃあしゃあと……」
「これも仕事だ」
そんな会話が馬上でされていたなどと、誰も思いもしていないだろう。
エルザイヌたちを出迎えた大勢の人間の中に、スローレットとダッチェスの姿もあった。
その二人が馬上で和やかな雰囲気で会話をするエルザイヌと椿を見て、それはそれは目を丸くして見つめた。
二人もデート作戦がこれほどまでに上手くいくとは思っていなかったのだ。
いったい何があったのだろうと二人は顔を見合わせたが、答えが出てくるはずもない。
「こりゃ質問攻め決定だな」
「だね」
そんな二人の楽しげな会話とは裏腹に、城内のあるバルコニーでは、椿とエルザイヌを苦々しく睨み付ける男がいた。
「若造が……!私を苔にしおってからに!」
今にも地団駄を踏みそうな勢いである。
その様子を部屋の中で軽く微笑みを携えながら、バルコニーの男とそう年代が変わらなそうな男が見つめていた。
「気をお沈めくださいませ、シェンリル様。事は始まったばかりではありませんか」
「そうは言うが……。あの黒姫はなぜだか私を避けようとするのだぞ?」
「見たところ、今回の黒姫はまだまだお若い。私どものような中年の男には、あまり免疫がないのでしょう。なに、大丈夫です。言ったではありませんか、まだ始まったばかりだと」
「し、しかし……」
「信じてください、シェンリル様。私が間違ったことを言ったことがありましょうか?」
その男の一言で、シェンリルは渋々ながらも口を閉ざした。
いつもシェンリルの一番近くでその道を示していた人物だ。
今さらシェンリルが疑う訳がない。
そのことをこの男自身もよく理解していて、最後にその言葉で締めくくったのだ。
「理由はなんであれ、要は選ばせればいいだけの話なんですよ」
その男の呟きにも似た言葉は、シェンリルに届くことはなかった。
シェンリルはまた外のエルザイヌを睨み付けており、今度こそ地団駄を踏んだ。
「モビル。そなたに任せるぞ」
「お任せくださいませ」
黒い渦が大きくなりつつあることを、椿はまだ何も知らないでいた。
〇〇*〇〇
椿がシャワー室から出てくると、冷たい飲み物とデザートらしき物がテーブルに置かれていた。
随分と気のきいたことをする人がいるなと思いながら、椿はそのデザートを遠目に見つめる。
よくよく観察してみれば、それは一人分ではく、二人分用意されていることに気付いた。
そういえば、と椿は夕食時でのヒスとの会話を思い出した。
「夕食後にスローレット様がお話がしたいそうなのですが、よろしいですか?」
「夕食後?別に今でもいいのに」
「そういう訳にはまいりませんよ。お食事は黒姫様にとって大切な儀式の一つとも言われていますから」
「儀式ぃ?夕飯を食うことが儀式なわけ?」
「……精を付けるために重要なことです」
「ふーん。スローだけなんだ。ダッチェスは?」
「ダッチェス様は騎士団副団長であらせられますから、きっとお忙しいのでしょう」
スローが来ると聞いてヒスが用意してくれたのだろう。
とはいえ、スローに聞かれることは分かっていた。
椿はテーブルの上に置かれている丸い一口サイズの物を、手掴みで口の中に放り込んだ。
甘くもちもちとした食感が、椿の世界で言うドーナツに似ている。
「黒姫様ったらはしたないなぁ」
突然だったので椿はびくりと肩を揺らした。
声のした方を振り返ると、くすくすと笑みを振り撒きながら、スローレットが部屋に入ってくるところだった。
「の、ノックをしなさいよ、ノックを」
「ごめんごめん。ちょっと驚かせようと思って。でも逆に驚かされちゃったね」
十分驚かされたけど、と椿は心の中で毒づいた。
スローレットはゆったりとした動きで椿に近付き、「どうぞ」とソファーに座るよう促した。
「エルザ兄様と仲良くなれたんだね」
「仲良く」という言葉が正しいかは分からないが、椿は「まぁ……」と濁しつつも否定はしなかった。
実際に前まで感じていた嫌悪感のようなものは、きれいさっぱりなくなってしまった。
自分でも不思議な程に後腐れなく消えてしまったので、どうにも説明しにくいものがある。
しかしスローレットはその理由を問いただそうとはしなかったので、椿は心なしかほっとした。
「良かったね」
「良かった、のか……?」
エルザイヌと打ち解けられたことで、椿自身は幾分が重荷のような物が降りた気はするが、それが周りから見て良いか悪いかというのは椿には分からなかった。
どう良くてどう悪いのかも分からない。
まだそれ程、この国のことを理解できていないのだから仕方がないのだ。
「僕は良かったと思うよ。エルザ兄様と椿にとって」
「?」
椿は不思議そうに隣に腰を下ろしたスローレットに視線を送った。
スローレットは出されたお菓子に手を出すことなく、ただ見つめるだけで口を開いた。
「エルザ兄様って、なんでも卒なく完璧にこなせちゃうんだよね。勉強も乗馬も剣術も職務も、本当になんでも。弱点なんかないんじゃないかってぐらい」
なんとなくだが、椿にも納得できる節があった。
出会った当初はロボットのようだとまで感じていたのだ。
今日の会話でそうではないと気付けた訳だが。
「でもそれってすごいことだけど、悲しいことでもあるんだよ」
「悲しいこと?」
「うん。エルザ兄様は誰にも頼れなかったから、自分一人で完璧にするしかなかったんだと思う」
人が一人で生きていくのは難しいと言われている。
それは人には得意・不得意があるからというのも、理由の一つなのだろう。
あのエルザイヌのことだ。
不得意も難なく得意にできたのだろう、と椿は一瞬考えたが、すぐに違うと思った。
得意にしたのではなく、得意になったように見せ掛けたのではないか。
いくらエルザイヌが器用であったとしても、すべてを完璧にこなせるなど神様でも無理だ。
でも出来ないことも出来るようにしなければいけなかった。
自分は知らないけれど、エルザイヌは追い込まれていたのかもしれない。
そうして出来上がったのが、あの猫被りエルザイヌだったということだろう。
「だから、ありのままエルザ兄様に接してた椿に、ちょっと期待してた」
「ありのままって……。ただ当たり散らしてたようなもんなんだけど……」
「ううん。そうやってエルザ兄様に接する人、今までいなかったから」
スローレットはくすくすと笑い、椿の頭に手を置いた。
突然のスローレットの行動に椿はぎょっとし、体を強張らせた。
ただイヤという訳でもなかったので、突っぱねたりはしなかった。
「エルザ兄様と椿があんなに仲良くなって帰って来たから、びっくりしたよ。ダッチェスもすごく驚いてたよ。だから二人にとって、有意義な時間になったんだなぁって思ったし、仲良くなれて良かったねって思った」
「う、うん……」
「でもね、僕にとっては良かったって思わなかったんだよ」
「は?」
さっきまで散々「良かった」と連呼したのは、間違いなくスローレットである。
それがいきなり180度方向転換され、いよいよスローレットが何を言いたいのか分からなくなった。
「な、何言ってるか全然わかんないんだけど……」
スローレットは面白そうに椿を見つめ、椿の頭を撫でるのをやめた。
「見てて面白くなかった」
「はぁ?面白いも面白くないもないでしょ……」
「面白くなかったんだよ、本当に。つい昨日までは僕にしか心を開いてなかった椿が、いつの間にかダッチェスにもエルザ兄様にも普通になってるんだもん。ちょっと妬けちゃったのかな」
「や、やけ……?」
椿にはスローレットの言いたいことがまるで分からなかった。
分かりたくなかっただけなのかもしれない。
しかし次に続くスローレットの行動で、椿は嫌でも気付かされる羽目となるのだった。
「じゃあ、そろそろ帰るね。また明日、おやすみ黒姫様」
ちゅ
椿の額に押しあてられた柔らかい感覚。
それがなんであったのか椿が理解するのは、スローレットが完全に退室してからのことだった。
不覚にも顔は茹でダコのようだし、キスされた額は驚くほど熱を持っていた。
可愛い弟のようだと思っていたスローレットのことだが、考えを改めねばならない。
スローレットも男なのだ。
「あのくそガキ……」
誰もいない部屋でスローレットに暴言を吐くが、それはあまりにも弱々しかった。
確信犯だね、スローくん!!
やっぱエルザさんと兄弟らしーです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。