00.いつもの朝、森の居城にて
緑豊かな深い森の奥、その城は建っている。灰色の石造りで木々や植物に覆われた、大きな屋敷くらいの大きさの、城というには些か小さめの城。その中の一室では、朝から作業の音が響いていた。
「うん、これでよし」
太腿まである長い純白の髪に赤い瞳をした少女が、透き通った蛍光緑の液体の入った瓶を見て満足そうに頷く。
「お、できたかい?」
「うん、ばっちり」
「いやすまないね。慣れない料理なんかするものだから、朝から余計な手間をかけさせてしまった。やはり私に家事は向いていないよ」
「いいよこのくらい。ポーションなんて手間のうちに入らないし。それに久しぶりに作ると楽しいしね、初心に帰れるというかなんというか。それより、どうしてエルが料理なんてしようと思ったの?」
エルと呼ばれた、大きな丸い眼鏡を掛けた、肩口辺りまでの長さの薄緑の髪の少女は、料理の際に切ってしまった指先を見ながら答える。
「いやなに、私はいつも食事に洗濯、掃除などおよそ家事と呼べるものはすべてシオンに任せてしまっているだろう?それでたまには恩返しをと思ったのさ」
「恩返しねぇ……シオンも好きでやってることだし、あんまり気にしなくていいと思うけど。この前なんて、私が自分の作業服を洗濯して干してたのを見ただけであの子、すっごく悲しそうな顔してたんだから」
「まぁ、シオンにとって家事は趣味のようなものだということは私も重々承知しているのだがね。とはいえ、これといったお礼もできていないのが少し気になってしまってね……いやはやしかし、話は変わるがニアの錬金術は流石だね。あの短時間でこれほどの品質のポーションを作るとは」
エルは、渡された蛍光緑のポーションの入った瓶をしげしげと見ながら話す。それに対し、ニアと呼ばれた少女が照れくさそうに答える。
「もう、褒めたって何も出ないからね。それで、最終的に料理は出来たの?」
「いや、それが全くと言っていいほどできなくてね。知識というのは経験が伴って初めて生きるのだと改めて感じたところさ。いくら多くの知識を持っていたとしても、私一人では現状宝の持ち腐れと言っても過言ではないね。ニアのこの錬金術に関しても、私ではここまでのものを作るのは無理だろう。錬金薬や製法、素材に関しても常人以上の知識を持っていると自負してはいるのだがね。やはりその時々によって素材の状態や周囲の環境なども違うからね。その辺りが関係しているとは思うのだが……おっと、話が逸れてしまった。しかしまさか私があんなにも料理ができないとは思わなかった。ただ決まった材料で決まった手順を踏むだけだと思っていたのだが、なかなかどうして材料を切るだけで一苦労してしまったよ。どういう形に切ればいいのかは知っていたんだがね、案外うまくいかないものだ。経験というものがそれだけ作業に影響するということだね。今後は私も様々なことを経験していくべきかなと――」
「あー、はいはい。わかったから、早くその指治しちゃってよ」
ニアはうんざりとした表情で、エルの切れた指先を見ないように顔をそらしつつそう言った。
するとその様子を見て、エルは指先を差し出しながらニヤリと笑う。
「どうだい? 久々に私の血でも飲んでみるかい?」
「……駄目駄目。そんなことしたら、いよいよあの子がどうなっちゃうか分からないから」
少し言い淀んだあと、ニアは答えた。
「ははは。そう言いつつ迷っているじゃないか。大丈夫、少しくらいならバレないさ。シオンは今朝食の準備中のはずだからね」
「うっ……」
エルのその言葉を聞いて、ニアは指先に目が釘付けになる。興奮したように頬が染まり、ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえたとき、部屋にノックの音が響いた。
「ニア様、エル様。朝食のご用意ができました」
扉の外から響いた声に、ニアは慌てた様子で居住まいを正し扉を開ける。そこには、艶のあるストレートの黒髪を顎辺りの長さでまっすぐ切り揃えた、メイド服に身を包んだ少女が立っていた。メイド服はスカート部分が長く落ち着いたものだ。
「おはよう、シオン。すぐ行くね」
「おはようございます、ニア様……おや?」
「どうしたの?」
シオンと呼ばれた少女は、ニアの顔をじっと覗き込む。
「ニア様、少し頬が赤いようですが、お熱があるのでしょうか?」
「い、いや、なんともないよ」
「そうでしたか。しかしそれにしては……」
そこまで言うとシオンは、ハッとした様子でエルの方に顔を向ける。視線の先では、エルがポーションをかけた指先を拭いていた。
「ニア様、まさかエル様の血を?」
「いやいや、飲んでないよ!」
「ははは。そうだとも。未遂だよ、未遂」
「み、未遂……」
それを聞いたシオンは、ニアの方に向き直る。
「ニア様、私の血ではご満足頂けていないのでしょうか……?」
「もう。満足してないなんて、そんなわけないでしょ。シオンの血が一番私に合ってるんだから。」
「しかし、現に今エル様の血を飲もうとしていたと……」
「飲もうとはしてないよ!エルに無理矢理勧められてただけだから!」
「おいおい、無理矢理とは人聞きが悪いじゃないか。私はただ、今ならシオンも居ないし久々にどうかと唆しただけさ」
「唆した……?」
エルに対し、シオンがジトッとした目を向ける。剣呑な雰囲気になりそうなことを察知したニアは、慌てて「まぁまぁ」とリオを宥める。
「それより、今朝もシオンの血を用意してくれたんでしょ? いつもありがとう」
「礼などおやめください。ニア様のお役に立つのは私の喜びでございますので」
微笑を浮かべながら言ったシオンの様子に、ニアは安堵の表情を浮かべた。
「そうだとしても、感謝はしないとね。それじゃ、お腹も空いてるだろうし早く準備してダイニングにいこっか」
ニアがそう言うと、弛緩した空気に便乗するようにエルが言う。
「そうだね。先程からお腹が鳴りそうで参っていたところだ。いや、今更それを聞かれたところで恥ずかしがるような間柄でも無いのだがね」
茶化すように言うエルに対し、ニアは「何言ってるんだか」と若干の呆れを含んだ笑みを溢す。
「それじゃ、軽く片付けて向かうからシオンは先に行っちゃってて」
「かしこまりました」
ニアの言葉に対し、了解の意を示してダイニングに向かおうとしたシオンは、最後にエルの方を見る。
「ああ、エル様には後でお話がありますので、そのつもりで」
「んなっ」
シオンが出ていった扉に向かって「有耶無耶にはならなかったか……」と呟くエルの言葉に笑いながら、ニアは後片付けを進めていった。
片付けを終えたニアとエルがダイニングに入る。ダイニングの中央に位置する長テーブルは、既に席が4つ埋まっていた。それぞれに、赤毛をウルフカットにした長身の女性、猫のような耳の生えた白銀の髪の少女、エルフと呼ばれる耳の長い種族の金髪の女性、黒に近い深い藍色の髪に、こめかみから後ろに向かって伸びる長く白い角と、腰から尻尾の生えた少女が座っている。その傍にはシオンが控えていた。
「おはよう、みんな」
ニアが挨拶をすると、4人それぞれから挨拶が返ってくる。
「ああ、おはよう」
「おはよ!」
「おはよう、ニア、エル」
「おはようございます!ニアさま!エルさま!」
いつもと変わらないその光景に、ニアの口元が緩んだ。思わず溢れた笑みに、エルフの女性が反応する。
「どうしたの?朝からいいことでもあった?」
「や、なんだか嬉しくなっちゃって」
「ふふっ、なによそれ」
そう言いつつ、エルフの女性も笑う。気付けば、ダイニングにいる全員が笑顔を浮かべていた。
あたたかな雰囲気に包まれた中、藍の髪の少女が無邪気な笑顔で問う。
「ニアさま、今日は何をするんですか?」
「うーん、そうだね……今日は――」
緑豊かな深い森の奥、その城は建っている。吸血鬼の少女の錬金工房があり、少女とその家族が住む小さな城。その城では、朝から朗らかな雰囲気で明るい声が響いていた。