欲しがりません、勝つまでは 2話
連載について……
2023年中のどこかでは連載したいですが詳細未定です。
「う、恨み……?」
聞き返すルシルの声は、うわずり引き攣っていた。身に覚えがないから、ではない。むしろいくらあっても不思議はないからこその、いったい何の話でしょうか、という意味だ。彼女自身は欲しがらないことをモットーに振る舞っているけれど、父が何をしているかは分からないから。娘のために買い求めたドレスや宝石、その仕立てや加工に当たって、どこでどんな無理を通しているか知れたものではない。
(ウィルフレッド様の……というかグレンヴィル侯爵家の品を奪ってしまったとか? お抱えの職人を引き抜いたとか? 工場を買収したのかもしれないし……)
父がルシルのためにしでかしたことなら、彼女が恨まれるのは当然だ。でも、理由さえ分かれば償うこともできるかもしれない。娘のたっての願いなら、父は聞いてくれるかもしれないから。
(理由……理由を、聞かないと……!)
ウィルフレッドに触れられた頬が、燃えるように熱かった。茹ったように赤面してしまっているであろうことは恥ずかしいし、恨まれている相手にその理由を尋ねるのは怖いけれど。とにかく話をしなければ、と。ルシルは大きく息を吸った、のだけれど──
「やっぱり覚えていないんだね」
「覚えて……?」
ウィルフレッドの碧い目に浮かんだ怖い色が、一段と鋭さと険しさを増した気がして、ルシルの舌は凍ってしまった。と、そこへ、彼女がよく知る声が朗々と響いた。
「おや、ルシル。帰っていたのか」
玄関ホールに入ってきたのは、褐色の髪と目に、日焼けした肌を持つ紳士だった。仕立てが良い服を纏っている割に、体躯には貴族らしからぬ厚みと逞しさがある。そもそも眼差しも異国の太陽を思わせる激しさとぎらつきで、口さがないものには飢えた狼のようだと言われたりもする。けれどその目は機を見るに敏で、幾つもの綱渡りを成功させてきた商人の目でもあるのだ。──ルシルの父、キース・アスターだった。
「お、お父様……」
ウィルフレッドと見つめ合って顔を寄せていた状況を、どう言い訳するか。あるいは、彼にいったい何をしたのか、何を考えて婚約者を買うだなんて発想に至ったのか問い質すべきか。父に物申そうとすると、何を言っても取り合ってもらえなかった記憶の数々が渦巻いて、上手く言葉にできなくなってしまうのだけれど。
それでも言わなければ、と。ルシルが息を吸い込んだ瞬間──彼女の前をさっと影が過ぎった。ウィルフレッドが、素早く彼女から身体を剥がして父に向き直ったのだ。その動きの機敏なこと、父はもしかしたらふたりの異常に近い距離感に気付かなかったくらいかもしれない。
「ウィルフレッド君。寛いでいれば良かったのに」
「特注されたというシャンデリアが見たかったので。それに、ご令嬢に会えましたから」
ルシルがぱちぱちと瞬く間に、ウィルフレッドは父と和やかに語り合っている。先ほどまでと打って変わった穏やかな眼差しで、彼にちらりと長し目を寄こした。形の良い唇が、悪戯っぽく微笑む。
「僕との話が、もう噂になっていたそうですよ。それで喜んで飛んできてくれたそうです」
「え──」
確かにルシルは、招かれていた会から飛んで帰ってきた。でも、それは泥棒猫だなんて糾弾に驚いて困惑して逃げるように、だった。決して喜んだりはしていない。なのにウィルフレッドの表情は晴れやかでにこやかで──ルシル自身が自分の記憶を疑ってしまいそうになるほどだった。
(ううん、そんなことない! 確かに恨んでる、って……!)
さっきまであんなに怖い眼差しでルシルを貫いていたのに、どうして彼はもう笑っているのだろう。顔色ひとつ変えずに明らかな嘘を紡ぐことができるのだろう。信じられなくて訳が分からなくて、ルシルは虚しく口を開閉させるばかり。父への抗議なんて、すっかり頭から飛んでしまった。
「なんだ。驚く顔が見たかったのに」
娘がこの上なく驚いているというのに、まったく気付いていないらしい父は、言葉とは裏腹に満足そうに笑った。ウィルフレッドの嘘に、ころりと騙されてしまっているのだろうか。海千山千の、油断ならない事業家が? そんなことが、あるのだろうか。
「まあ良い。ひとり増えてもどうにかなるだろう。顔合わせの食事会と行こうじゃないか」
いつも通りの優しい笑みをルシルに向けると、父は屋敷の奥へとさっさと歩き出した。
* * *
父が選んだ客までは、大きく開いた窓から薔薇園を望むことができた。ルシルが惚れこんでしまったばかりに屋敷の運命を変えることになった花園は、持ち主に関わらず今日も美しく芳しい。室内にもそよぐ薫風は、料理の味を妨げないていどに華やぎを添えてくれている。もちろん、ルシルが楽しむことはできなかったけれど。
でも、とにかく。席に着いて父と向き合い、食前酒を気付けにしたことで、ルシルはどうにか口を開く勇気を振り絞ることができた。
「私……とても驚きましたのよ。だって、ウィルフレッド様はウェルズリー侯爵家のアナベル様と……!」
「だからこそ、だ。アナベル嬢は《薔薇の乙女》の有力候補だろう? 名家の令嬢というだけで支持者も多い──切り崩すためには、彼女の評判をどうにかしなければ」
カトラリーを操りながらの父の答えに、ルシルは納得と絶望を同時に味わった。娘を《薔薇の乙女》に、というのは父の悲願だ。単に貴族への嫌がらせだとかルシルへのプレゼントということではなくて、父の計画に必要な一手として仕込まれたのだとしたら。翻意を促すのはとても難しいことかもしれない。
(私……《薔薇の乙女》になれば終わると思って……)
輝かしいその役に選ばれれば、この国の若い娘として何もかもを勝ち取ったのと同じこと。父も、それ以上与えてくれようとはしなくなるかも、と思っていたのに。でも、恋人たちを引き裂いたという悪評を負って後ろ指をさされ続けるなんて、そんな人生は送りたくない。
「これでは、私の評判のほうが下がります! 私、先ほどは泥棒猫と言われたのですよ……!?」
「ひどいことを言う者がいたのですね」
同情と憤りを込めたウィルフレッドの相槌に、ルシルは目を見開いた。
(え……? でも、貴方が……?)
もちろん、彼は第一の被害者だ。でも、それならどうして一緒に父に抗議してくれないのだろう。というか──先ほどは彼こそがこの事態を仕組んだのだと聞いたような。その理由は聞けていないままだ。
(かえってアナベル様の有利になるように……? そんな、まさか)
ルシルの評判を落としたところで、その夫にならなければならないのでは意味がない。あまりにも捨て身の策だと思う。──では、彼の狙いは何なのだろう。と、ルシルが考えたところで、ウィルフレッドは彼女のほうを向いて微笑んだ。
「でも、説明していけば分かってもらえるでしょう。確かにアナベルとは友人ですが、恋愛感情ではなかった。まして婚約だなんて話は出ていなかった。僕たちが仲の良いところを見せていけば、きっと──」
曇りのない綺麗な笑顔がかえって怖くて、ルシルはひゃっ、と悲鳴を呑み込んだ。絶対に本心でないと分かっていることを聞いても安心なんてできないし、仲良くなんてできるはずがない。でも、父は満足そうに頷いている。ルシルが照れているとでも思ったのかもしれない。
「父君──グレンヴィル侯爵は良い選択をなさった。貴族だけに富や権力が集中する時代は間もなく終わるだろうから」
「同感です。生まれによって人生が決まるなど明らかに間違っている。意欲や才能によって成功の道が拓ける世界を作っていかなければ。──その第一歩になれるなら光栄です」
ウィルフレッドの熱意のこもった──ように聞こえる──言葉が追従なのか本音なのかどうかも、ルシルには分からなかった。ただ、父はこれで納得しているのだろうな、とぼんやりと思う。ウィルフレッドの本心でないかもしれないことも織り込んだ上で、方便でもこう言える貴族の青年なら、きっと父の気に入るはずだ。
退路がますます細く険しくなっていくのを悟りながら、ルシルはそっと溜息を呑み込んだ。出自に囚われず、才覚によって評価する──父たちの言葉はとても正しいと、思うけれど。
(私には意欲も才能もないのに……)
父に命じられるままに着飾って高慢に振る舞うルシルは、父が嫌う貴族令嬢そのものだ。それでいて伝統に裏付けられた誇りなんてものもなく、気品でも本物の令嬢には敵わない。それならルシルはいったい何なのだろう。卑しい、鼻持ちならない成り上がりもの。石ころにめっきをほどこしても金になる訳ではないのに。
(本を読みたいわ……)
自室に置いてある読みかけの小説が恋しかった。別に何の勉強になる訳でもない、甘い恋愛小説だ。でも、物語の中なら誤解は解けるし想いは伝わるし最後はみんな幸せになる。親しい友人もいないルシルにとっては妖精とか人魚以上に夢のようなおとぎ話だ。そんな物語の中では、ルシルは退治される悪役でしかないだろうけれど。……現実では、退場までにどれだけの非難と白眼視に耐えなければならないか、分からないのだけれど。
父とウィルフレッドの話が弾む一方で、ルシルの気持ちは沈んでいく。そして、口を挟む隙も見つけられないまま、デザートが供された。何を食べて何を呑んだのか、ルシルにはほとんど記憶がない。このまま、この席が終わってしまうのかと不安と焦りを覚えた時──父が、若者ふたりを交互に見ながら口を開いた。
「──ふたりで薔薇を見てきたらどうだね? ルシル、案内してあげなさい」
「……はい。お父様……」
ウィルフレッドと話す機会をまた得られたのは良かったのか、それとも怖いことなのか。どきどきと、嫌な鼓動を刻み始める心臓を抑えて、ルシルはドレスの裾を捌いて席を立った。
* * *
庭に下りると、ウィルフレッドは滑らかに腕を差し出してきた。エスコートしてくれるということらしい。父の目が届く訳でもないのに、紳士を演じる彼の本意はまたしても知れない。ルシルとしては彼に触れるのは怖いし、できるだけ距離を取りたいし、何より案内をするなら手が自由なほうが良いのでは、と思ったのだけれど──
「あちらに東屋があったよね。そこに行こうか」
差し出された腕に、ルシルがおずおずと手を添えた瞬間、ウィルフレッドは迷いなく歩き始めていた。その足取りの確かさ、庭園の配置を正確に言い当てた口振りに、ルシルは驚き、舌と足をもつれさせた。
「こ、ここに来たことがあるのですか……!?」
ただでさえずっと苦しかった胸に、嫌な予感がずきりとした痛みとして走った。
(まさか……!?)
ウィルフレッドの実家、グレンヴィル侯爵家が、この家の前の持ち主と仲良くしていたということなら、まだ良い。貴族同士、ありそうな話ではある。
「《朝焼け》、《ティターニア》、《白雪姫》──薔薇の品種も変わっていないね。嬉しいな」
でも、薔薇の品種を淀みなく挙げ、花や蕾に目を細める彼のこの言い方は。この薔薇園にとても馴染みがあるかのようだ。一度や二度、遊びに来たことがあるだけではこうはならない。発作に見舞われたかのように胸を抑えて立ち尽くすルシルに、ウィルフレッドは微笑みかける。父といた時には見せなかった、怖い笑みを浮かべた唇が、そっと囁く。
「私はここに住んでいたんだ、以前」
悲鳴を上げることさえできなかった。ルシルの手足から力が抜けて、崩れ落ちそうになるけれど、それも、ウィルフレッドの腕にしっかりと抱き留められてしまって。彼の腕の中に収まって──だから、ルシルは耳元に囁かれる言葉を聞くことしかできなかった。
「母は薔薇が好きでね。ずっと前に亡くなったけれど。君が遊びに来たほんの少し前に──あの時、私はまだ喪服を着ていたはずだけど。覚えて、いないんだ? あちこち案内してあげたのに?」
いまだ声も出せないルシルは、激しく首を振った。覚えていないし、そんなつもりではなかった、と言いたかった。誰かのものを奪う気なんてなかった。母君の形見の薔薇園だなんて知らなかった。薔薇園を一緒に巡った男の子も、知らない。ウィルフレッドの小さいころなら、さぞ可愛らしかっただろうに。どうして覚えていないなんてことがあるのだろう。でも、こんな彼が責める目をしているということは、きっと嘘ではないのだ。
「では、せっかくだから話をしようか。私が何を企んでいるか、気になっているんだろう?」
涙ぐみ始めたルシルを見下ろして、ウィルフレッドは表情を苦笑に変えたようだった。滲んだ視界でははっきりと見えないものの、優しく気遣う気配もあるような気がするのは──願望に過ぎないかもしれない。とにかく、彼の腕から力が緩むことはなく、ルシルはウィルフレッドに腰を抱かれたまま、東屋に連行されることになった。




