喪失のマイトレーヤ
仏の首が焼き切れて飛んだ。
原因は、人型戦闘兵器が掌から放った熱線。
場所は天界・兜率天に聳え立つ巨大な宮殿の四十九階の間、数多の天人達の目前。時はといえば、なんと惨い事だろう。仏が五十六億七千万年の時を経て、世界を救済するため降臨した直後であった。
騒動の末、仏の胴体は宮殿の外へ落ち、首は最上階に残った。人型戦闘兵器も胴体を壊され、そばにいたシャラを巻き込み宮殿から落ちてしまう。
仏の降臨を誰よりも楽しみにしていたシャラは、防衛機能が発動し難攻不落と化した宮殿の最上階へ、胴体を運ぶ事を決めた。その際、首だけとなった人型戦闘兵器マイトレーヤを武器として連れていくと、彼に仏の胴体と虚ろな心が与えられた。
仏の胴体は階を進める度に首の元へと戻り、マイトレーヤは虚ろな兵器へ戻ってゆく。
シャラは初めこそマイトレーヤを憎んでいたが、心を持ち始めた彼へ次第に友情を感じてゆく。
最初に喉仏を失った。
元々の身体に無かったので、構わなかった。
それよりも、殺傷能力の高い左腕を取り戻したかった。
半分程身体を取り戻した頃、右腕が戻った。
その時に恐怖を感じた。左腕を取り戻したくないと思った。
君の小さな手の感触を、感じる事が出来なくなると気づいたんだ。
身体を取り戻す事は、獲得ではなく喪失だった。
◆ ◆ ◆ ◆
その日、四十九階建ての荘厳な宮殿の頂点を軸に、白鳥の群れが輝く翼と歓喜の歌声を渦巻かせていた。
七色の甘い霞が煌めきと鈴音を伴って宙を漂い、美しい天女達が羽衣の袖から天華を散らして滑空している。
天界・兜率天は有頂天の最中だった。
宮殿の最上階では、五十六億七千万年の修行を経た青年が、優美な蓮華座へとゆっくり歩を進めていた。
「とうとうこの時を迎えた」
彼が蓮華座へ座する時、救済仏となり全ての者が救われ始める――尊く輝かしいこの瞬間を待ちわびていた数多の天人達は、みな合掌し頬に涙を伝わせていた。
そんな群衆に、ひときわ小柄な者が紛れ込んでいた。
頭から法衣を被り、顔かたちは判らない。しかし、布の隙間から大粒の魚卵の様な赤い目玉を覗かせて、小さな薄桃色の手をチョンと合掌させている。
その正体は四尺ほどの真っ白な二十日鼠だ。
この鼠はコッソリと高貴な群衆に紛れ込み、この場の誰よりも仏の誕生を祝っていた。
仏がゆったりとした動きで蓮華座へ座った時には、赤い目からポロポロと大粒の涙を零し、
「弥勒様……」
と、慕わしそうに仏の名を囁いた。
すると、仏が鼠の方へ目を向けた。
鼠は慌てた。仏様は衣の中の自分の正体など、一目で見抜いてしまうだろう。もしかしたら、すでに見抜かれているかもしれない。
しかし座禅を組んだ仏は、鼠へ微かに微笑みかけてくれるではないか。
鼠の小さな胸の中は、幸せで今にもはちきれそう。
天人達はその様子を見て、コッソリと微笑している。彼らは鼠の侵入を知りつつ、容赦していたのだった。
一匹の鼠を喜ばせた後、仏は皆へ口を開いた。
皆がこれからもたらされる幸福に耳を澄ました。
その時だった。
シュン、と、凡庸な音を立てて、仏の背後に黒髪の少年が突如現れた。
見目は人間の十代後半辺りだろうか、整った顔には表情がない。特に目だ。目に一切感情の光が見えなかった。
身につけているものは簡素な襯衣と穿袴、そして腰回りに小ぶりの皮鞄のみ。どれも黒一色で、足は裸足であった。
少年は出現とほぼ同時に、手のひらから仏のうなじへと熱線を放った。
ドンッと音が響く。
それは熱線の放射音であり、首が蓮華座へ落ちる音であり、群衆の胸の内で起きた心理的な衝撃音でもあった。
少年は腕から細い煙を上げて、無表情でスタスタと移動する。向かう先は首と別れた仏の胴体。
胴体は未だ仄かに金色の光を宿していた。胸の下からは、ドクンドクンと鼓動の音が漏れている。
何が起ったのか受け止めきれない天人達の前で、少年は仏の胴体に手のひらを向け、熱線の照準を合わせた。
その躊躇いのなさ、その無礼さ、その果てしない罪深さに、ようやく天人達は我に返った。
「なんという事を! 皆で捕らえよ!」
しかし、平和な天界で平和を説いて過ごしていた彼らは、初めての暴力沙汰に右往左往だ。
対して少年の大立ち回りは神業で、洗練された動きは稲妻の様だった。彼に表情があったなら、少し笑っていたかもしれない。そのくらい天人は彼の敵ではなかった。
少年は更に、瞬時にして四肢を武器に変え、右手で熱線を放ち、左手を鋭い刃物に変え切りつける。左手は芸達者な様子で、錨のついた鋼鉄の縄で天井からぶら下がって見せたりもした。両足もやっかいだ。ふくらはぎには刃物、足先は槍や鉄槌になって天人達を薙ぎ払った。
「こやつ、人ではない。からくりだ!」
天人達は、少年におぞましさを感じた。
しかし、なんとか数の力で少年の両手両足を捕らえ、一人の天人が鼻息荒く少年の顔を覗き込む。
「このような事をしでかして……一体どこからやって来たのか」
『過去からです』
少年が答えた。奇妙に割れた声だった。
天人は少年が答えた事に眉を上げ、更に彼へ質問をした。
「何故こんな事を?」
『それについては、私の主人から伝言があります』
「主人?」
首をかしげる天人を余所に、少年は急に蓮っ葉な女の声で喋り出した。
『オン・マイタレイヤ・ソワカ! ハローハロー、ヤッホー、おはよう、こんにちは、こんばんは! ねぇねぇ、仏は死んだ? レーザービームは効くのかな!?』
「な、なんだ?」
天人は顔をしかめた。このような軽薄な口調で話しかけられた事は、初めてだった。
少年は女の声でペラペラとまくし立てる。無表情と感情的な声音の組み合わせが、非常に不気味だった。
『あのさぁ、世界救済が今から五十六億七千年後って馬鹿なの? もう国も星も滅茶苦茶なんですけど。今助けてよお!! 皆死んじゃったよおお! 未来のアンタ達だけ救われるとかズルいズルいズルい!! クソばかマザーファ●カーどもめ!!』
少年が拘束された両手の中指を突き立てる。
呆気にとられる天人達。
中指の意味はおろか、言葉の意味がほとんど分からない。
しかし、過去の狂人からの災いである事は理解できた。
そして少年に意志がなく、がらんどうなのだと分かった。
「憐れな……過去からやって来た操り人形か」
『一緒に絶望しよ!』
少年は音声を終えると、パカリと口を開けた。
白銀の尖った歯が上下に並ぶ中央に、舌の代わりに熱線を蓄えた筒が光っている。
「おのれ……!」
真正面から放たれた熱線に、顔を歪めた天人の首と胴が泣き別れた。
少年は天人達が怯んだところを突き飛ばし、自由になった右手を構える。
「や、やめろ!!」
熱線の放たれた先は、騒ぎに紛れ窓の外へ逃げようとしていた天女の群れだ。仏の首と身体を抱えていた彼女達は、あっけなく撃ち落されてゆく。首を抱いた天女は室内に転がり、数人で胴体を抱えた天女達は、一人だけ残ってなんとか窓の外へ逃げ出した。
しかし熱線の猛追からは逃れられず、仏の胴体を庇う様に抱いて地上へ落ちていった。
「なんと惨い!」
「許せぬ! この身が墜ちて鬼になろうとケダモノになろうと構わぬ!!」
「ともに天界から墜ちようぞ!!」
怒りが抑えられない天人が数十人、暴力を求め自ら理性を捨てて天界の階級を降りた。その姿は正に憤怒そのもの。美しく柔和な姿を醜悪な鬼や獣に変えて、彼らは少年へ殺到した。
赤い皮膚の醜く大きな手が、少年の胴体を叩き潰す。その凄まじい一撃に、少年の首が吹き飛んだ。
首は、今までの光景を震えて見ていた鼠の足下に転がってきた。
「ひゃあ!」
悲鳴を上げる鼠の足下で、首はカチカチと音を立てている。鼠が小さな耳を澄ます間にも、音はどんどん早くなっていく。
カチカチカチカチカチカチカチカチ……。
――――なに? なにかおかしい。
次に聞こえたのは、感情のない割れた声だった。
『サラーサ……イスナーン……ワーヒド……』
――――数? これは、秒読み……?
鼠の全身の毛が逆立った。この毛の逆立ち方は良くない。少年の首は今にも酷い災厄を起こすだろうという予感に震えた。
「駄目! 今すぐそれを止めて!!」
鼠は誰にも被害が及ばぬよう、少年の首を抱きかかえて叫んだ。
この首が何をするか見当もつかないが、最悪窓から飛び降りてしまおう。
そんな覚悟をした鼠に、思いがけない返事が返ってきた。
『仰せのままに。自爆装置の起動を停止します』
鼠は驚いて抱きかかえた首を見た。少年の無機質な目玉の奥が、鼠に焦点を当てているのが伺えた。その間にも、鬼神達が迫ってきた。
「そのからくりの首をよこせ!!」
『防戦します』
鼠の腕の中で少年が口を開け、赤鬼へ向かって熱線を放った。
「わああああッ!」
熱線の反動力は凄まじく、非力で小柄な鼠は勢いよく窓の外へ吹き飛ばされていく。四十九階から真っ逆さまだ。
『想定外でした』
少年の首が弁明していたが、鼠はそれどころではない。
「た、たすけて!」
『仰せのままに。歯を食いしばってください』
少年は口を開き、迫りくる地面へ先ほどよりも強い熱線を放つ。
「嘘でしょ? 無理だよ!」
窓へ吹き飛ばされた時と同じ圧から起る浮遊感に、鼠は意識を失った。
◆
沙羅の木に、芳しく黄色い花が咲き乱れていた。
その枝を懸命に登った。枝先には、天より落とされた起死回生の薬。
必死で腕を伸ばした。あと少し。あと少しで、花影で息絶えようとしているお釈迦様を救えるハズだった。
しかし、横から猫が飛び出し、戯れに襲って来たのだ。
折れた枝から無様に落ちる際に見えたのは、黄から変色した白い花が、お釈迦様へ降り注いでいる光景だった。
「お前のせいではないよ」
誰もがそう言ってくれた。
しかし、少なからず「役立たず」と、責める者もいた。
その中で一際声が大きいのは、他でもなく自分だった。
どんなに賢い言葉を貰っても、どんなに優しい言葉を貰っても、ちっとも救われない。
――――だから救済の仏様、僕は貴方様にお尋ねしたい事があります。どうしたら、どうしたらあの瞬間を償えますか?
みんなが救われた後、一番最後でいいから教えてください。
順番をちゃんと待ちますから。
それなのに。また――――
◆
「あとちょっただったのに!!」
鼠は自分の声で目を覚ました。
大きく息を吐いて辺りを見渡せば、全ての時が止まってしまったかの様に静かだった。
辺りにいる天人達、否、兜率天に何億とある建物の中の天人達は、宮殿の頂上を見つめ合掌したまま微動だにせず、石の様になってしまっていた。天女達もだ。
彼らへいくら話しかけても反応がなかったので、鼠は狼狽えた。
広大な敷地をあちこち走り回って誰か話せる者を探したが、無駄だった。
「みんな、がらんどうになっちゃった……」
鼠は地面に膝をつき、宮殿を見上げた。
「どうして」
鼠はスンスン鼻を鳴らし、零れ落ちてくる涙を小さな手で拭った。目の周りの白い毛は濡れそぼり、桃肌の小さな手はヒリヒリ痛んだ。
それから、自分も手を合わせた。
怒りも憎しみも悲しみも役立たずだ。
もう救われたいとも思えない。
どうか空っぽになる事をお赦しください。
心をがらんどうにして、楽になる事をお許しください。
――――あ、そっか。皆この気持ちなんだね……。
気づくと、また涙がポロリと零れた。
彼らと同じになろう。そう思って目を閉じたその時、「おおい」と、誰かの声が聞こえた。少し億劫な気持ちで声の方を見ると、風変わりな天人が辺りを見渡しながら歩いてくる。派手な柄物の衣を纏い、羽飾りのついたターバンを巻いた彼は、両腕で何か大きなものを大切そうに抱えていた。
彼は鼠に気づくと、嬉しそうに近寄ってきた。
「おー、話せる奴がいた! 良かったぁ~。コイツらメンタル弱すぎん?」
「……僕もこの方々に続こうとしていました」
「あ、そうなの? ま、止めないけどよ。その前にちょっと俺の話を聞いてから、今後を考えてくれまいか」
彼はそう言って、抱えていた大きなものをそっと地面に置いた。
それを見て、鼠は「あ!」と声を上げた。
「天女が、守る様に下敷きになってた」
「……弥勒様!!」
鼠は慌てて首のない胴体へ跪いた。天人はその側に膝をつき、力のある眼差しで言った。
「まだ鼓動を感じる。宮殿で御首が待っておられると思うのだ」
「……え、じゃ、じゃあ」
「仏は復活するかもしれない。だから俺は宮殿を登る。しかしあの宮殿は今や鬼神や獣の巣窟になっちまった。連れがいたら心強いのだが……どうだ」
鼠は胸に希望を取り戻しつつも、彼の言葉に怯んだ。
何故なら、宮殿は巨大で入り組んでいるのだ。その大きさは、鼠の足で最上階まで百日かかる程だ。
しかし、すぐに髭をピンとさせて頷いた。
「お手伝いさせてください」
「よし、一緒に行こう。俺はオムナーン。オムでいい。お前は悔恨の沙羅鼠だろ? 天界に鼠はそれっきゃいないからな」
「まぁ……名前がないので、そう呼ばれてはいます」
「じゃあシャラと呼ぼう。それからコイツは、マイトレーヤだ」
オムがおもむろにシャラの目の前に差し出したのは、あの少年の首だった。
髪を掴まれブランと垂らされながら、少年の首が「よろしくお願いします」と挨拶をしたので、鼠は尻餅を突いて驚いた。
「な、なんで……」
「拾ったんだ」
「ダメですよ、ソイツが事の元凶なんです!!」
「まぁ落ち着け。実はあの宮殿を設計建築したのは俺なんだが、趣……否、万が一の緊急時の為に防犯機能を付けまくってしまったのだ」
良いことじゃないか、と思ってシャラは首を傾げた。
「それがなにか?」
「今、宮殿は難攻不落と化してしまってな。入り口が厚い壁に塞がれてしまっている」
「……ええ!? そ、そんなのどうやって入るんですか!?」
「そこでコイツだよ。口から熱線を出してたろ? あれで壁を壊すんだ。怪物達もコイツで」
ドカーンッ!
と、口で言いながら、少年――マイトレーヤの首を突きつけてくる。
シャラはその威力を思い出して、毛を逆立てた。
「冗談でもコッチ向けないでください! ソイツは敵なんですよ!?」
オムは、マイトレーヤを自分の顔の高さまで持ち上げて「ふん」と笑った。
「からくりに敵も味方もない。モノは使いようって言うだろ?」
「でも、仏を傷つけたんです!」
「じゃあここで感情任せに壊すか? お身体を返せなくなるぞ」
「それは……それは……」
「ホレホレ、俺はお身体をお運びするから、シャラはコイツを持て」
シャラは顔をクシャクシャにして、マイトレーヤを渋々受け取った。
「……罰せられるべきだ」
「虚しいからやめとけ」
オムが面倒くさそうに言って、宮殿の方へ歩き出す。
シャラは額に皺を寄せて、マイトレーヤの顔を睨み付けた。その顔には、つるんと感情がない。
――――コイツは、どんな罰を与えても苦痛を感じない。魂がないから地獄にも落ちない。後悔もない。絶望も。がらんどうだから。
シャラは石像の様になってしまった天人達を振り返る。乾いた風が吹き抜けて、彼らの法衣を揺らしていた。
――――ホントは僕もそっちがいい。
強く心惹かれた時、マイトレーヤが声をかけてきた。
『行かないのですか?』
シャラはハッとして、話しかけてきたマイトレーヤを見た。マイトレーヤは、シャラを目玉だけで見上げている。
「彼らを見て何も思わない?」
「具体的な指示・質問にしか答える事が出来ません」
「ふん、そうだね。からくりだもの」
シャラは鼻で笑って見せたが、マイトレーヤには無意味だ。
なんの感情もない顔が、シャラには無性に腹が立つ。
コイツに心を持たせる事はできないだろうか?
せめて痛みを。
そう思った時、マイトレーヤの主人とやらの女の声が頭に響いた。
―――一緒に絶望しよ!
過去の狂人の叫びが、強烈に胸を締め付けた。
シャラは目を細め、目指す宮殿の方を見る。
翼を輝かせ囀る鳥や、鈴音の鳴る七色の甘い霞はもうどこにもない。
だけどシャラは、頭を一振りすると振り向かずに歩き出した。




