猫で大家の根古宮さんと毎日食事をすることになりました
修理不能な設備不良でアパートを追い出された井ノ瀬章は、不動産業者の紹介でボロアパートにやってきた。
そこで出会ったのは、アパートの大家で、人間ほどの大きさで直立する白猫『根古宮音己』だった。
猫に対してむっつりメガネな井ノ瀬は見とれてしまうが、引っ越し作業の業者は、大家は猫ではないという。
本当に猫なのかを確認するために、井ノ瀬は根古宮の部屋に挨拶という名の突撃をする。
そこで見たのは、まぎれもない、大きな猫が丸まって寝ている姿だった。
ばれてしまったことに困惑する根古宮に対し井ノ瀬は「黙っている代わりに一日一回もふらせてほしい」と提案する。
これに対して根古宮は「その代わりに一日一回、一緒に食事をしてほしい」と逆提案してきた。
両親が亡くなり、ひとりでの食事がさみしいのだという。
猫?×ネコスキーの奇妙な生活は種族も性別も超える?
井ノ瀬章は二階建てのアパートを見上げ、中指でメガネのブリッジを押しあげた。
周りを畑に囲まれた、むしろ畑の中にポツンとアパートがある。そんな立地だ。
不動産業者に頼んで紹介してもらった目の前のアパートは、築何年なんだろうとつぶやきたくなるほど、古式あふれる遺跡のようだった。
「自転車で通勤できる範囲ではここしか空きがないとはいえ……」
時節はまだ寒が残る四月の中旬。今まで住んでいたアパートが修理不可能な漏水によって急遽取り壊しとなり強制退去となった井ノ瀬は、季節以上の冷え冷えとしたものを胸に感じていた。
「春だしさ、住めば都になるよ……たぶん」
さぞかし風通しが良いだろうなと思われる外壁の隙間で、猫も自由に出入りができそうだ。
二階には住みたくないなと素人でも感じる屋根材の傷み具合で、猫が歩いても穴が空きそうだ。
洗濯機を置くためか廊下には排水口がボコッと飛び出していて、猫でも躓きそうだ。
一階二階にそれぞれ二部屋の全四部屋のうち井ノ瀬の部屋は一階。角部屋といえば聞こえはいいが、全部屋角部屋だ。
「昭和の建物だこれー」
不安だらけで小さくため息をついたその時、隣の部屋のドアが開いた。
「ほかの住人は、大家さんと若い女性ひとりだけって不動産が……」
井ノ瀬は絶句した。
ドアを開けて出てきたのは、井ノ瀬よりちょっと背が低い、羊羹色で袖なしワンピース姿の、もふっとした真っ白な毛並みの、直立した猫だった。
ピンとたった耳。金の瞳と青い瞳のオッドアイ。愛嬌満点の顔。よくブラッシングされたつやつやなもふもふ。腰あたりから延びる、身長の半分くらいはありそうな、艶めかしく揺れる長いしっぽ。
ネコ・ワールド・オブ・ザ・イヤーを総取りできる素材だ。
「神だ、神がそこにぐぅ」
井ノ瀬は両手で今にも止まりそうな心臓を押さえた。
井ノ瀬章は二十九歳独身猫派だ。猫教原理主義者といってもよい。猫と和解せよといわれなくとも秒で和解する、過酷なブートキャンプを生き残った精鋭ネコスキーだ。
彼女よりも猫を優先しては振られ、友人たちに説教をくらう程度には重症だった。
そんな井ノ瀬の前に現れた猫神。彼は無意識に拝みそうになっていた。
「あら、新しく来た、井ノ瀬さんですか?」
井ノ瀬がひざを折ろうとしたときにその白き猫が声をかけてきた。クラリネットのような優しいコントラルトな声色に井ノ瀬は卒倒しかけたが「メス、いや、女性?」とそこで踏ん張った。
ずり落ちそうになっている眼鏡を押し上げ、だらしなく垂れ下がりそうなほほにムチ打ち、井ノ瀬はさわやかにほほ笑んだ。
「え、あ、そう、そうです。今日からお世話になります、井ノ瀬章といいます」
「このアパートの大家で根古宮音己です。久しぶりに新しい人が入ってくれて、嬉しいです」
根古宮と名乗った真っ白な猫は目を細めて、微笑み返してくる。
――うぐぅ。
井ノ瀬の心臓は限界を超えて止まりそうだった。
「ちょっと買いものに行ってくるので、改めてご挨拶に伺いますにゃん」
「……にゃん?」
「うふふ」
根古宮は気持ちよさそうに尻尾を揺らしながらアパートの陰に消えていった。
「……いい。しっぽ、いい。とてもいい……しゅるっと指に絡ませてしっぽの先をもにゅもにゅしたい……魂が抜けるくらい気持ちがいいんだろうな……」
ぁぁぁあんな立派で太いしっぽ、さわりたいほおずりしたいマフラーにしたいあれもこれもしたい。
井ノ瀬は神々しいまでの光景を脳内の欲望に浸して、指をワキワキさせている。
ブオンと胃に響く低いエンジン音。ボボボボと不気味に唸るアイドリング。ガオンとひと吠えすると、アパートの陰からメタリックブルーの小さな車が出てきた。
ツーシーターの軽自動車。運転席にはサングラスをかけた真っ白な猫。井ノ瀬のそばを通る時、小さく手を振ってきた。見るからに柔らかそうな肌色の肉球が目の前を通過してゆく。
「サ、サングラスにゃんこ……つきたてお餅な肉球……ここは桃源郷か……桃源郷なのか」
どすっと地面に膝をついた井ノ瀬は、車が見えなくなるまで呆然としていたが。
「ハッ、しまったぁぁ、なんで写真を撮らなかったオレェェェ!」
井ノ瀬は頭を抱えて絶叫した。
井ノ瀬は落ち着かず、頭をかきむしっていた。
引っ越し業者が来て部屋に荷物を入れている間も根古宮は帰ってこない。買い物にしては長い。そろそろ日も傾いてくる。
洗濯機を設置しこれでおしまいというときに、野太い排気音を轟かせた軽自動車が返ってきた。
ワンピースを着た大きな白猫は買い物袋を腕に抱き「引っ越し作業ご苦労様です」と声をかけて、部屋に入っていく。
――猫だ、やっぱり猫だ。
根古宮が入ったドアをチラチラを見ている井ノ瀬に、引っ越し業者の男性が声をかけてきた。
「あの大家さん、かわいいっすよねー。建物が古いから部屋が埋まらないのが惜しいんすよー。埋まれば仕事で来れるんすけどー」
「かわいいですよねー、特にあのしっぽが」
「しっぽ? やだなーそんなもんあるわけないじゃないっすかー」
業者の彼は片付けながらそう笑う。
井ノ瀬は訝しんだ。
――こやつ、あのような素晴らしいしっぽが見えないと申すか?
「まだ若いのに、両親が亡くなられてこのアパートを継いだって話っす」
「へぇ、若いんだ」
「そんなの見てわかるじゃないっすかー。たしか二十五歳とか、それくらいだったっすよ」
「うん?」
――見てわかる?
猫スキーな自分ですら見た目で年齢はわからないのに、彼はわかるという。井ノ瀬は引っ掛かりを感じた。
「大家さんて、猫ですよね?」
「猫じゃないっすよ、根古宮さんっすよ。名前は似てるっすけどね。っと、これで作業終了なんで、書類にサインお願いしまっす」
「あ、あぁお疲れ様です。ありがとうございました」
井ノ瀬がささっとサインをすると、業者はトラックで帰っていった。
「猫じゃないって……じゃあ俺が見たあれは、なんだったワケ?」
――これは、確かめないと。
ネコスキーとしては譲れない一線である。
井ノ瀬は、意を決したように隣の部屋を見つめた。




