好きな子の流す涙はバカ美味い
「血が飲めなければ、涙を飲めば良いじゃないですか」
血液アレルギーの吸血鬼である俺に言い放った澪羅のとんでも理論。だがその一言は、それまで苦痛でしかなかった食事を至福の一時に変えた。
聞けば澪羅は大病院の院長の一人娘らしく、身の危険に晒されることも少なくないそうで。
「従者として私を守ってくれるのであれば、衣食住を提供してあげます」
「喜んで」
以降俺は澪羅のクラスメイトになった。澪羅の家に住み、澪羅に買ってもらった服を着て、そして澪羅の流す涙を飲む。
「では今から泣きますので、抱きしめてください」
それが親から愛を受けたことのない澪羅が泣くためのトリガーだった。
澪羅の涙の味はまるで最高級のチョコのような甘さで──俺はある日感情によって変わるものだと知る。
普段の甘さは一体何の感情なのか。他により美味しい感情の涙はあるのか。
これは二人が涙によって主従関係を結びながら、両片想いを育む物語。
「餌の時間ですよ、尊人君」
四時間目が終わって喧騒に溢れた教室に冷水をぶっかける一言。クラスメイトはとんでもない目でこちらに視線を向ける。
……居心地めっちゃ悪い。ぴえん。
「あの、菊月澪羅さん……いつものこととはいえ流石にもうちょっとオブラートに包んでもらえたりは……」
「従者のくせに口答えするんですか?」
「うっす……」
ピシャリとシャットアウトされて黙るしかなくなる俺。せっかくの銀髪イケメン君が半泣きだよ? 普通じゃ人気者間違いなしのこの容姿なのにクラスじゃ浮いてるのは澪羅のせいだからね?
そしてそんな俺以上に浮き倒してる澪羅はそんな視線など毛程も意に介しておらず、楚々とした所作でカバンの中から水色の弁当袋を取り出していた。
文武両道、才色兼備、眉目秀麗。彼女を表す言葉はどれも“完璧”であることを保証する。
家柄は勿論、容姿に関しても男女の性差を超えて息を飲ませる黄金比。腰まで届く赤みがかった茶髪を大きめのリボンとレースであしらわれたバレッタでハーフアップに結い、大きく丸いあどけなさを残した目はしかし鋭い。スタイルこそ低い身長が目立つが、出るところは出て引っ込むところは引っ込む完璧っぷり。
……そんな存在だからこそ、餌だの従者だの言われると当然悪目立ちするわけで。
「ね、ねえ浮島君!? 本当に菊月さんとは付き合ってないんだよね!?」
「まだあたし達に可能性はある!?」
「浮島君がマゾなんだったらそういうのも勉強するから!」
「人聞き悪すぎない!?」
絶世の美少女に飼い犬のように扱われるイケメン(俺基準)。こんなんだから友達出来ないんだろうなぁ……今も男子の目線えぐい怖いし……。
……この状況も見た目も、説明しようと思えば一言で出来るというか、何なら転入初日に言った気もするんだけど……。
「そうだ浮島君! 浮島君って確か吸血鬼だったよね!? 昨日私レバー食べてきたんだけど飲ませてあげる!!!」
「抜け駆けずるい! あたしだって最近白米を大豆に変えてるし!!!」
「けっ! オレは血飲まれないために太陽光浴びながらにんにく食ってきたからな浮島!」
「前も言ったけど俺血は飲まないから。あと別に日光もにんにくも吸血鬼の弱点じゃないよ」
これも自己紹介の時に言わなかったっけ……。まあ良いけど……。
「尊人君」
そんな中、澪羅が口を開いた途端教室が静まりかえる。まるで神楽鈴のように透き通った声は聞く者全てを圧倒した。
「私はあとどれ程待てば良いのでしょうか」
「行きます! マジすんません!」
「よろしい」
言い終わる間もなく澪羅は教室を出ていく。今度は誰も口を挟む訳ではないようで、誰かが唾を飲む音が聞こえる程静寂に包まれていた。
……うちの澪羅がすみません、なんて言ったら多方面から怒られそうだな。勿論澪羅にも。
俺は遅れてご主人様の後を追うのだった。
◇
僅かにカビ臭さが鼻をつく旧校舎、その屋上前の踊り場。俺と澪羅がお昼ご飯を食べるいつもの場所だ。この時間は丁度太陽が新校舎に隠れて薄暗くなり、何だか秘密基地のようなワクワクを感じる。
レースの入ったハンカチを几帳面に広げ腰を下ろす澪羅と対称的に、俺は地べたにあぐらをかいた。
「……なあ澪羅、やっぱ現地集合にしない? 変な噂されるし、何なら最近男子に本当に付き合ってないのか問い詰められてめんどいんだけど」
「変な噂ならもう立ってますよ。裏では被虐趣味以外に女を泣かせるクズとも言われてますし」
「は!? マジ!?」
「覚えはあるくせに」
「いやまあ……でもさあ……」
いくら身体能力に優れた吸血鬼と言えどメンタルはその限りじゃないんだ。どちらかと言うと豆腐寄りまである。
項垂れる俺を尻目に、澪羅は「それに」と続ける。
「私は貴方のご主人様ですよ? 私が良いと言ったら良いんです」
「まあそうだけどさぁ……」
「私と貴方はあくまで主従関係です。分を弁えるように」
「ういーっす……」
「次また同じようなことを言えば血を飲ませますから」
「わかったわかった! もう言わないって!」
背筋に寒気を覚えながら両手を挙げて降伏のポーズをとる。
転入初日、俺は『血を飲まない』と言ったが、厳密にはニュアンスが異なる。
俺は血を飲めない。それは好みだとか哲学だとかそういった問題ではなく、ただ単に体質によるもの。
「吸血鬼なのに血液アレルギーなんて、文字通り神様に捨てられた存在ですね」
「そもそも実の両親にすら捨てられてるしなぁ。取捨選択される側の苦悩に満ちた日々だよ、本当」
「取捨選択する側の苦悩もあるんですけどね。折角拾ってあげたんですから私に尽くしてください」
「……大病院の院長の一人娘ってのも難儀なもんだ」
吸血鬼の膂力を以て澪羅を守り、代わりに衣食住を提供してもらう。
衣は言わずもがな、住は澪羅が住む大豪邸の一室をあてがってもらい、そして食。
飢餓に陥ってはのたうち回りながら血を啜る俺を救ってくれた、澪羅が見つけた血に頼らない新しい食事方法。
「それでは時間も限られてることですし、尊人君」
「……毎度思うんだけど、本当に良いんだよな?」
「早くしてください。誰かに見られたらどうするんですか?」
「つっても噂は流れてるんだよなぁ……、んしょ」
澪羅の正面に移動し、硝子細工を扱うように──俺は彼女を丁寧に抱きしめた。
腕の中が女子特有の柔らかさと小動物のような温もりで満たされる。基本的に毎日食事時の昼と夜に二回こうするが、何度やっても慣れない。
付き合ってもないどころか友達ですらない、ただの主従関係。まして従者側である俺からのハグなんて、澪羅にとっちゃ屈辱とも言える状況だろう。
「……もっと強く」
言われた通り抱きしめる力を強める。伝わる感触や熱が一層実感を増す。
澪羅は恵まれた環境に生まれた。だが親に関してはその限りではなく、意図の有無は定かではないが、少なくとも澪羅は両親から愛を受けたとは微塵も感じていなかった。
詩的に言うならば、彼女は愛情にその身で触れたことがない。
だからこそこうして抱きしめられると、澪羅は比喩ではなく本当に涙を流してしまうくらい、それがたとえ嫌っている俺相手であっても感情が昂ってしまう。
上半身を離して澪羅の顔を見ると、静かに流れる雫が轍を作っていた。
「良いか?」
「……ええ」
形式的な確認を済ませると、俺はまるでキスをするかのように優しく──澪羅の目尻に口をつけた。
澪羅曰く、俺の血液アレルギーは赤血球によるものかもしれないらしい。より具体的に言うと吸血鬼は赤血球ではなく血しょうの成分から栄養を得ている可能性があるとのこと。
であれば同じ血しょうから作られる涙なら、あるいは代用も可能かもしれない。
……死にかけていた俺にそう提案し、結果俺は世界一嫌いだった食事の時間を至福のものに変えてもらった。
嫌われてこそいるが、澪羅には感謝してもしきれない。
「……役得もあるしなぁ」
「変なことを言ってないで早く飲んでください。……んっ」
口にした涙から伝わってくるのは最高級のチョコを一欠片に凝縮したような甘さ。触れた舌から脳髄まで突き抜けるような甘露は一生こうしていたいと思わせるようで。
時間も忘れ涙を飲み続けると、暫くした頃にようやく澪羅の涙が止まったことに気付いた。
抱きしめたまま口を離すと、澪羅は耳まで赤くしていた。
「今日もめちゃくちゃ美味かった。聞き飽きたかもしんないけど、今日のも凄い甘くて……」
「や、やめてください! まるで私が糖尿病みたいな言い方をするのは!」
「……そういや他の人ってどんな味するんだろう」
「は? 貴方はあくまで私の従者ですよね? そんなの許すはずが……ぐすっ……!」
「えっ何でこのタイミングで泣くの!? てか勿体ないな!」
「ちょっ尊人君!?」
俺は一滴も零すまいと急いで目尻に舌を這わせる。すっかりこの甘さの虜になっていた。
──しかし感じた味は甘味ではなく、まるで酸味の強いグレープフルーツをギリギリ食べられるくらいに調整したような味だった。
涙が止まったことを確認すると、抱擁しながらではあるが、努めて冷静に異常を説明する。
「……なあ澪羅。大発見だ」
「……今度は何ですか?」
「涙の味が違うんだよ! さっきは甘かったのに今のは上等な柑橘類みたいにちょっと酸っぱかったというか! これ何でだろう!?」
本当に何でだ!? 今までこんなことなかったよな!? ただ美味いだけじゃなく味変なんてオプションまで付いてたのか!?
「なあ澪羅! もし良かったらもうちょっと泣いてくんない!? 色々試してみようぜ!」
「……女を泣かせるクズ」
「い、いやそれはまた別の話じゃない!? 俺はあくまで原因を知りたいだけっていうかさ……!」
「……味の違い。私の体調によるものであればこの短期間に変化するのは不自然。だとしたら尊人君……? でも摂取しているものは変わらず私の涙だけのはず……」
俺はよく澪羅に好奇心を見せすぎるのは控えるべきだと忠告されるが、それに関しては澪羅だって同じ、むしろ俺以上にすら感じる。
まして澪羅はずば抜けて頭の回転が早い。こうなればもう俺が考える時間なんて無駄でしかないだろう。
今回も思考の処理を終えるまでに掛かった時間は僅か五秒。一体どんな理由なのかと、俺は密かに目を輝かせて待っていた。
「……原因の推測は着きました」
「おお!」
「気になりますか?」
「おお!!!」
「わかりました。言いません」
「おぁ!?」
何で!? 何の嫌がらせ!? 実は本当はわかってないとかじゃないよな!?
「ちなみに言っておきますが、本当にわかっていますからね。言わない理由はあくまで私がそうしたいからです」
「答えはお預けか……。……はぁ、もう少しで良いから俺のことを好きになってくれたらなぁ……」
「なりません」
澪羅は短く答えると、それ以上話すことはないと言いたいのか、持参した弁当箱を開けた。小さくいただきますをした後はもう澪羅に何かを話す様子はない。
「……んじゃ俺行くわ……。今日もご馳走様……」
超絶ローテンションになった俺だがやはり澪羅が興味を示すことはなかった。
……味変の理由、結局何だったんだろうなぁ……。
◇
私、菊月澪羅は肩を落としてその場を後にした浮島尊人を踊り場で眺めながら、何となく彼について考える。
彼はどこか掴めない性格の持ち主だ。壮絶な生い立ちからは想像出来ない普通然とした価値観を持っていて、それでいて普通の人とは違う選択肢を躊躇いもなく取れてしまう。
衣食住を提供する代わりに付きっきりでボディーガードをする。そんな提案にノータイムで乗ってくるなんて、どこかネジが外れてるとしか思えない。
「……私にタメ口で話してくる同年代も初めてだったし」
最初こそみんなも、なんて生ぬるい幻想は存在しない。ここら一帯での菊月家という名前は誰もが知る権威そのもののようなもので、元は大地主であったこともあり小さい頃から『菊月家に粗相をしてはダメ』だと教えこまれる。
そんな環境において、彼が特別かどうかと問われれば、まあ間違いなく特別なんだろう。
「……変なのに絡まれると絶対に助けに来てくれるし」
ボディーガードだから当然と言えばそうなのだが、やはり吸血鬼なだけあって一介の不良程度じゃ相手にならない。
その姿が格好良いかどうか、まあ不本意ながら格好良いと感じなくもない。
「……抱きしめる時も凄い優しくしてくれるし」
当時はおろか今も抱きしめられる時は緊張する。そんな私を意識的か無意識か、従者にしては大きな感情で抱きしめてきている気がする。というか絶対にそう。私のことを好きじゃないとあんなに優しく出来ない。断言出来る。そうじゃないと嫌だし。
……いや別に私が好きなわけじゃないけど? ただ私にとって特別な存在で格好良い時もあってクソデカ感情で優しくしてくる従者ってだけだけど?
誰に向けてか私は心の中で猛弁解しながら、尊人君の足音がなくなったことを確認して、思考をまとめるために独りごちる。
「……涙の味の変化は恐らく感情によるもの。普段のチョコの甘さは異性としての好意で、さっきの柑橘系の酸味は……多分嫉妬」
状況証拠に鑑みれば、まず間違いなくそれが答えなはず。だけどそれを認めてしまうとすれば……。
「……私が尊人君のことを……?」
べ、別に現状私に与えられている恋人としての選択肢の中でただ一番条件が良いだけだから。というか尊人君はいつもキツく当たってくる私のことなんか絶対好きじゃないし。
……改めてそう考えたら泣いてしまいそう。何これ凄い辛い。
今の涙の味は何味なんだろう。“悲しい”ならイメージは最低品質のゴーヤ辺りかな。こんなの最悪の涙だ。
……人間の私は塩味しか感じない。滲む視界を手で拭いながら、私は残ったお弁当を食べ進めた。
◇
俺は肩透かしを食らったせいかやけにゆっくり階段を降り、行くと言った手前恥ずかしいが澪羅に何かあってはまずいので、一階の踊り場に腰を下ろしていた。
ここなら俺の面子を保ちつつ澪羅に何かあればすぐに駆けつけられる。まして普段は人なんて居ない場所だ、物音がすれば一発でわかる。
……まあ、だから。なんだ。当然澪羅の独り言だって、吸血鬼の聴力を持っていれば当然一言一句耳に入ってくるわけで。
「……異性としての好意、嫉妬。感情によって味が変わる、ねぇ……」
あの澪羅が俺のことをそんな風に思ってる? いやねーだろ。だって俺のことを従者としか思ってないようなヤツだぞ? さっきのだって澪羅くらいなら俺に聞かれていることを考慮していないとも思えない。
……それとも、そこまで頭が回らないくらいテンパってるとか……?
「ンなわけねーだろバカが……」
仮にもしそうだったら俺は何を思うだろう。流した涙は何味になるんだろうか。
自分の涙を飲んだことはないが、味の予想は割と簡単についた。
「……ぜぇぇぇったいチョコ味だろうなぁ……俺澪羅のこと死ぬ程好きだし……」
どうせ人間には聴こえない。そうタカを括った呟きは思ったよりも廊下に響いて、俺は無駄に冷や汗をかいたのだった。




