欲しがりません、勝つまでは
ルシル・アスターは嫌われている。成金の身で社交界に出入りしている上に、「わたくしお金持ちなので父が何でも買ってくれますの!」という顔をしているからである。
ルシル・アスターは欲しがらない。なぜなら彼女は満たされているから──では、ない。彼女は何よりも恐れていた。娘を溺愛する父が、金の暴力で人のものを奪うことを。
必死に嫌われ令嬢を演じていたルシルを、けれど身に覚えのない糾弾が襲う。
「婚約者までお金で買うのね! この泥棒猫!」
相思相愛の恋人がいる貴公子を、彼女が奪ったなんて。誤解を解かなければと焦るルシルに、当の「金で買われた婚約者」ことウィルフレッドは爽やかに嗤う。
「これは私が仕組んだことだ。私は貴女に恨みがある」
ルシルを窮地に陥る一方で、ウィルフレッドは表では完璧な婚約者を演じてくれるが……?
押しかけ婚約者に振り回されながら、嫌われ令嬢が「本当の願い」に向き合っていくお話です。
ルシル・アスターが姿を見せた瞬間、広間の令嬢たちがいっせいに彼女に注目した。矢のように鋭く氷のように冷たいたくさんの眼差しに貫かれた、と思ったのも一瞬のこと、令嬢たちはまたもいっせいにそっぽを向く。横目でルシルを睨みながら囁きかわす声は、口元を隠す扇でも遮ることができていない。というか、ルシルに聞かせるために絶妙な声量に調節しているのだろう。
「よくも恥ずかしげもなく人前に顔を出せたものですわね?」
「本当に。信じられないことですわ」
「これだから、貴族ではないお家の方は──」
ひそひそと、とげとげと、くすくすと。楽しそうに嫌悪感と侮蔑を剥き出しにする令嬢たちを前に、ルシルは思う。
(また、だわ……)
この手の聞こえる陰口に、彼女はぶっちゃけ慣れ切っていた。それは、悪意は胸に刺さらないでもないし、嫌われていると思えば辛くないことはないのだけれど。でも、いちいち傷ついていては身が持たない。
「わたくしのことで、何か?」
こういう時の対処法は、堂々と、にこやかにしているに限る。
「──いいえ、何も」
「ごきげんよう、ルシル様」
ほら、こうして挨拶すると、決まってドレスの裾をわさわさと揺らして列を乱す。面白いほどの狼狽えぶりだ。中には多少骨がある方もいるけれど。
「今日も……とても豪華な装いでいらっしゃいますわね?」
とても、に絶妙な抑揚を置いた令嬢の本音ははっきり聞こえている。今日も派手だな、と言いたいのだ。
確かにルシルの装いは豪華だ。栗色の髪に、ヘーゼル色の目という平民ど真ん中の容姿にもかかわらず、貴族の令嬢たちの誰よりも、金と手のかかったドレスを纏っている。大粒の宝石、金糸銀糸の細かな刺繍とレース、艶やかな絹の生地──昼の席には少々不釣り合いなほどの贅を凝らした装いを、悪趣味と呼ぶなら呼べば良い。
(でも、それが何だと言うの?)
ルシルの父、キース・アスターは確かに平民出身で、貴族の作法には疎い。でも、娘を社交界に認めさせたいと切望する父の思いを、どうして踏み躙ることができるだろう。
「ええ。父が、今日のために仕立ててくれました。わざわざ」
我が家はお金持ちですから? の意味を込めて、ルシルはにっこりと微笑む。彼女は常に最高のものを与えられて、満ち足りて幸せでなければならない。欲しいものなんて何ひとつないのだと、見せつけなければ。
(だって、そうしないと大変なことになるもの……!)
彼女が欲しがってしまった時に何が起きるのか──ルシルは、骨身に染みてよく知っていた。
* * *
父は、異国との交易で身を立てた。母とふたりで気候も言葉も文化も違う国に乗り込んで、モノや技術や人材を目敏く売り買いしてのし上がったのだとか。事業が軌道に乗る前に病に倒れてしまったけれど、貧しい時代を支えてくれた母は、ルシルの父にとっては女神にも等しい人だった。本来ならどんな貴婦人よりも華やかに装って、瀟洒なお屋敷で大勢の使用人にかしずかれるべき存在だった。それが叶わなかった分、父は金をつぎ込んでルシルを磨き上げることにした、らしい。
「たまたま貴族に生まれた連中が、なんだ! 自分の汗と才覚で稼いだ金のほうが偉いに決まってる。金があれば何でもできる。血筋も伝統もクソくらえ。そんなものがなくても母さんは誰より綺麗で優しかったからな!」
たぶん、成功する過程で貴族相手に嫌な思いもしたのだろう。なかなかに過激な父の思想は子育てにも遺憾なく発揮された。
父が彼女に買ってくれたのは──道を歩いていて目を止めた、服やお菓子やお花。すれ違っていた子が抱いていたお人形。父が差し出した金貨に、母親は目を瞠り、その子は泣きそうに顔を歪めていた。
ある令嬢のドレスが可愛い、と呟けば、同じ意匠でより上質のものがすぐさま仕立てられた。ルシルがパーティでほめそやされる一方で、その令嬢がそのドレスを着ることは二度となかった。
父娘して、どれだけの敵意と反感を買ったのかは考えたくない。……その時点でも十分ルシルは居たたまれなかったし、人のものを奪ってしまうことへの嫌悪と忌避感感は深く心に刻まれた。
そして、何よりも決定的だったのは──父に連れられて、どこかの貴族のお屋敷を訪ねた時のことだ。
父たちが商談をしている間、ルシルは庭で遊ばせてもらった。初夏のころで、赤や白や黄色の薔薇が咲き乱れていた。アーチに蔓を這わせたもの、形良く剪定した枝に、大輪を咲かせたもの。色も形も様々な薔薇の花はルシルを魅了した。ひとつひとつに顔を近づけて花びらを数えたり香りを楽しんだりすると飽きるということがなかった。
夕焼けが薔薇を染めるころになって迎えに姿を見せた父に、ルシルは飛びついた。
「あのね、パパ──お父様! お庭がとても素敵だったの。薔薇がたくさん咲いていてね、良い香りで、とても綺麗で──」
「そうか、良かった」
そのころには、ルシルは社交界を意識した躾と教育を始められていた。だから、少々はしたない振る舞いだったかもしれない。でも、父は笑顔で娘の頭を撫でてくれた。娘が喜ぶのが嬉しい、という優しい人なのだ。その点は、ルシルも疑ったことはない。
「ルシルはこんなお屋敷に住みたいかい?」
「うん!」
大好きな父に聞かれたから、ルシルは迷うことなく頷いた。もちろん、もしもの話でしかなかった。妖精と遊びたいとか人魚と泳ぎたいとか、そんなことと同じこと。こうだったら良いなあ、という夢物語。ルシルはそのつもりだった、のだけれど。
大変なことになったと気付いたのは、それから一ヶ月ほど経ってからだった。やけに上機嫌の父が、ルシルにおめかしをさせて馬車に乗せた。馬車が止まると、父は彼女をエスコートして、得意げに言ったものだ。
「今日からここがお家だ。嬉しいだろう?」
先日遊んだ薔薇園が瑞々しく輝いているのを目の当たりにして、ルシルは初めて気が遠くなる、という感覚を味わった。貴族の令嬢がよくやるやつだ。実は演技の場合も多いというけれど、あの時の彼女は本気で意識を失ったし、目覚めたらすべてが夢だったらと、切に願った。
でも、目覚めても現実は変わらなかった。
天蓋付きのベッドが鎮座する彼女の新しい寝室からは、芳しい薔薇園が実によく見えた。そのベッドも、崩れ落ちた彼女を受け止めた絨毯も、そもそも薔薇園を擁するお屋敷そのものが、一ヶ月前まではどこかの貴族の財産だったはずだ。あの薔薇園の維持に、もとの持ち主はどれだけ心を砕いていたことだろう。それを、ルシルの何気ないひと言が奪い取ってしまったのだ。
父の財力も、貴族への対抗心も──娘への愛情も。ルシルの想像をはるかに超えていた。どんなに高価でも貴重でも、もとの持ち主にとってかけがえのないものでも、父にとっては関係なかった。もっと早く気付いているべきだったのに、彼女は口を滑らせてしまったのだ。
だからルシルは欲しがることを止めた。与えられたもので満足することに決めた。他人のものを奪ってしまうくらいなら、何も望んだりしない、と。
* * *
という訳で、ルシル・アスターは今日も頑張って成金令嬢を演じている。
「見事なサファイアでしょう? 色と粒を揃えるのに、父は苦心したそうですわ」
彼女の細い首を飾る、深く美しい宝石の色も煌めきも、ルシルの心を慰めてはくれない。顔だけは、鏡の前で必死に練習した高慢な笑みを保てているはずだけど。心の中では、ルシルは常に泣いて喚いて転がり回っている。
(絶対に感じが悪いわ、また嫌われているわ!)
でも、令嬢たちと仲良くしたい、だなんて考えてはいけない。考えていると、思わせてもいけない。
(お金で人の心を買うのだけは、ダメよ)
友達が欲しい、と言ったら父は買ってくれてしまいそうだから。困窮した貴族の令嬢でも、立場が似ている裕福な商家の令嬢でも、ルシルと一緒にいて良いことなんてないだろう。
「新興のお家は、何もかも新しく調えなければなりませんものね」
こんな侮蔑の眼差しを、一緒に浴びることになってしまうのだから。
「わたくしどもは、代々受け継いだ宝石を身につけるものですから」
「倹約できることに、祖先に感謝しておりますわ」
先祖伝来の宝石なんて、できればルシルに聞かせないで欲しい。すごいですね、とでも相槌を打ったら最後、父は遠回しなおねだりだと解釈するに違いないから。そうならないためには──
「わたくし、新興の家で良かったですわ。百年前の装飾品は、きっと流行遅れでしょう?」
場の空気が一段と冷え、令嬢たちの視線がいっそう険しくなるのを感じながら。ルシルは顔で笑って心で泣いていた。
(もう少しの我慢よ……《薔薇の乙女》に選ばれればパパもきっと落ち着くわ……!)
夏の女神の象徴である《薔薇の乙女》は、未婚の貴族令嬢から選ばれる名誉な役目。様々な儀式で主役を務めて称賛と注目を集める、その年の社交界の花。初めての平民の《薔薇の乙女》となれば、父の気も収まる──人のものを奪ってまで娘に買い与えようとはしなくなるのではないだろうか。たぶん、きっと。そうであって欲しい。
(《薔薇の乙女》にさえ、なれば!)
この居心地の悪さも心苦しさも、きっと終わる。顔と名前を──悪名かもしれない──売るために、名目のよく分からない茶会に出席しなくても、陰口を聞くために社交に励まなくて良くなる。あの薔薇園を元の持ち主に返すよう言っても、父は機嫌を損ねないはず。
その一心が、ルシルを支えていた。
「──お金でも何もかも手に入れようというのね。この、泥棒猫……!」
と、ひとりの令嬢が進み出て、ルシルを間近に睨んだ。その視線の強さと敵意の激しさには驚くけれど、不本意極まりない糾弾だった。
「泥棒……?」
鼻持ちならない成金と呼ばれるのは、仕方ない。でも、今日の彼女の装いは、父が自身の才覚で築いた財産で仕立てたもの。断じて、盗んだものではない。でも、彼女の反応は、なぜかその令嬢の怒りに火を注いだようだった。
「惚けないで!」
惚けてなんかいなかった。でも、誰もそう思ってくれていない。糾弾の声を上げた令嬢だけでなく、その場の誰もが冷ややかな怒りに目を燃やしているのに、ルシルはやっと気付いた。いつもの陰口ではなかった──根拠があってのこと、だったのだろうか。
「グレンヴィル侯爵家のウィルフレッド様のことよ! ウェルズリー侯爵令嬢のアナベル様と相思相愛でいらっしゃったのに! 貴女のお父様が引き裂いたのよ! 婚約者までお金で買うのね!?」
「……え?」
そんなこと、聞いていないし望んでいない。人のものを奪うのも、人の心を買おうとするのもいけないことだ。父がそんなことをしないように、必死に心を砕いてきたのに。嫌われても蔑まれても、何も欲しがらずに。
(どうして……?)
口に出して問うこともできないまま、ルシルは数年振りの失神を経験した。
* * *
体調不良を口実に、挨拶もそこそこにルシルは茶会から辞した。彼女の不在を悲しむ人は誰もいないから、ごく滑らかにことは運んだ。
馬車に飛び乗って、揺られて。今も薔薇が咲き誇る自宅に向かいながら、ルシルの頭の中では幾つもの名前と顔が入り交ざっては浮き沈みする。
ウェルズリー侯爵令嬢アナベル──会ったことはある。ルシルにも礼儀正しく接してくれる、清楚な美貌の方。仲良くなんてできないけど、密かに憧れてさえいた。驕らず慈悲深く愛らしく、誰にも親しまれる、ルシルがこうありたいと願うような令嬢だから。
グレンヴィル侯爵子息ウィルフレッド──名前くらいは、知っている。ちらりと見たこともある。主にアナベルの隣にいた、金髪碧眼の貴公子だ。王子様とお姫様のようで似合いのふたりだ、とぼんやりと思ったような。
(でも、誰にも言ってない! 見てもない!)
いまだにおかしな鼓動を刻む胸を抑えながら、ルシルは必死に記憶を探る。ふたりが羨ましい、とか。まして、ウィルフレッドが気になる、とか。思ったことさえないはずだ。だって、余所の恋人たちを引き裂いてしまわないよう、殿方を直視しないようにしていたのだから! でも、それでは父はいったい何をどう勘違いしたのだろう。娘に婚約者を買ってあげよう、なんて思いついたのだろう。
とにかく、父を問い質さなければ──その一心で屋敷に駆け込んだルシルは、玄関ホールに佇む、見知らぬ長身の人影に迎えられた。シャンデリアを見上げていたらしいその人は、ルシルの衣擦れの音に振り替えると、にこりと微笑んだ。
「ごきげんよう、アスター嬢。お邪魔させていただいています。今日もお綺麗ですね?」
魅力的な笑顔のはずだった。でも、今のルシルにとって彼の顔は恐怖でしかなかった。
「ウィルフレッド、様……?」
だって、彼女が金で買ったと聞かされたばかりの貴公子が、目の前にいるのだから!
「これから、父君から正式にお話があるはずだったんですが──」
喘いだきり、凍りついたように佇む彼女に軽く首を傾げて、ウィルフレッドはこちらへと近づいてくる。これまで遠目に窺うばかりだから知らなかったけれど、ルシルよりも頭ひとつ分以上背が高い彼が迫ると、相当な威圧感だ。殿方というのはこういうものなのか、それとも罪悪感ゆえにルシルが縮こまる思いだからだろうか。罪悪感──そう、この方は愛する女性と別れさせられたはずなのに。どうして微笑んでいるのだろう。
「そのご様子だと、どこかで聞き付けられたようですね」
どうしてルシルの頬に手を添えて、心配そうにのぞき込んだりするのだろう。サファイアめいた碧い目に吸い込まれそうになって、ルシルは慌てて首を振って逃れようとした。
「こ、これは……誤解です! 私、貴方のことは何も──」
「でしょうね。私が噂を流したので」
さらりと告げられたことの衝撃に固まってしまって、叶わなかったけれど。目を見開いた彼女にさらに笑みを深めて、ウィルフレッドは続ける。
「父君のお人柄と、貴女の振舞いを見ていれば分かります。父君は貴族がお嫌いで、しかも財力を誇示する機会を常に欲している。でも、貴女は口実を与えないように必死でいらっしゃる。違いますか?」
違わない。でも、頬に触れられているせいで、ルシルは首を縦にも横にも振れない。初めてだった。父以外の殿方がこんなに間近にいるのも。彼女の演技に気付かれたのも、内心を見透かされたのも。何もかも初めてだから──怖い。
「だから──アナベルから私を奪う、という考えは、父君のお気に召すと思ったんですよね。予想が当たったようで、本当に良かった」
「ど……して。なん、で、そんな──」
ようやく口を動かすことを思い出すと、ウィルフレッドは笑顔のままでぐいと顔を近づけた。彼の碧い目は笑っていない気がして、なお怖い。身体を竦ませるルシルの唇を、甘い香りの吐息がくすぐった。
「ルシル・アスター。私は貴女に恨みがあるからだ」




