2話『崩れ去る日常、終わりを迎える世界』
世界的パンデミックによる恐慌、科学文明の完全否定。
その一投は奇しくも予見なく人々の視界に映った。
盲目に揺れた灰色の情景。赤く黒く、そして臭い。天上は赤い雲が首都を包み、地上は赤い海が空を見上げた。
犠牲者19億6000万人。この数字が明らかになるのは遥か先の未来でのこと。
この日この一夜にして、人類は文明崩壊への道を直進した。
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何が起きたのか、全くもって分からない。分からな過ぎてその現実から目を背けたくなるほどに恐怖が全身を襲っている。
印象に残っていたのは少女の泣き声だったか。いや、少年の唸り声だったか。
ただそれは、子供のする表情では無かった。
まるで、そうだな……。──大腸を引きずり出された時の様な顔だ。
「なぁ、これは悪い夢なんだよな……? そうだよなレスターさん!?」
「……」
俺の肩を掴み揺らす男は、この城の使用人の一人。庭園の庭師を担う冷静な男。
そんな彼は今、震えた手で俺の肩を握り、目の前でスプラッターのように跳ね上がる血飛沫を青ざめた顔で見ている。
「は、ははは。ははっ、はははっ……。夢にしちゃあ、冗談が過ぎる……!」
「……」
死んだ子供の腹から今度は臓器を掴み取り、力加減の分からない顔で躊躇いもなく握り潰し、自分の腕ごと口へ運ぶ。
──食事、だとでもいうのか。
目の前でそれらをしているのは、──彼の娘だ。
「あ、が、が……ぁ……」
「シェリーッ! 何をしてるんだ……!?」
足を前に向け、周りの目がこちらへ向くのと同時に再び下がる。
近づきたくても近づけない。奴らの圏内に入れば何をされるかわからないこともあって、足がすくみ動けないのだろう。
それでも彼は勇気を振り絞って自らの娘へと近寄る。そして必死に肩を揺らす。
「シェリー、しっかりしろシェリー……!!」
彼の呼びかけも虚しく、シェリーに反応はない。ぼーっとしているような、まるで眼中にないかのような、そんな目をしている。
そのシェリーの傍らでは同じく人間の死体を漁って食しているように見えるもう一人の少女がいた。
それは他の者達と同様、まるで人間としての理性を失った動物のような表情。おぞましく醜く吐き気が移るような姿。その少女からは同じ人としての感性が全くと言っていいほどなかった。
「……」
俺はその少女を呆然と見つめる。ただ立ち尽くしたままその少女が行っている異常な行動から目を離すことなく見続ける。
別に小さな女の子が好きというわけではない。そういう行為に対して興奮するような特殊性癖があるわけでもない。
それが俺の娘でなければ、今すぐにでもここから逃げていただろう。
冷徹な目をしている。何も考えていない野生のような、理性を失った動物の目だ。それが今の彼女から感じ取れる最大限の情報量。
腐臭も汚臭も感じないほど俺の感覚は途切れていた。ただ壁に寄りかかって脱力したようにその光景を目に焼き付ける。
人は本当の絶望を知った時に笑いが出るなんて言うが、この時の俺はまるで感情を失った機械のように無表情をしていた。
後悔も怒りも何も感じない、この時は本当にただ何も感じない機械のようだった。
そんな俺の耳にくぐもった声が聞こえてくる。
「おい、おい! レスター! あの子はあんたの娘だろ! 早くしないと取り返しのつかないことに──」
必死に呼びかけてくる声に俺は一切の反応を示さず、ただ漠然と娘を見ていた。
男も声が届いていないのを知っていながら何度も何度も呼びかける、指先一つすら動いていない俺に正気へ戻るよう叫び続ける。
そんな男の真横からスッと近づいてきた少女。小さな口から血を垂らし、飢餓を求める鼻息を出して男の首元に近づいてくる。
「……シェリー?」
二人の目が合った瞬間には、もう遅かった。
「ぐぁあ"あ"あ"あ"あ"──ッ!?」
首元へ勢いよく飛びつき美味な食事を頬張るがごとく首の肉を噛みちぎる、躊躇いもなく噛み砕く。
飢餓状態を前にして美味な食事を提供された野生動物のように、中毒になってクスリを求める廃人のように、その少女は"人の肉を頬張る"という行為に尋常じゃない力を注いでいた。
ぐちゃり、ぐちゃりと聞いたこともない咀嚼音を響かせ俺の脳内に鮮明に焼き付けさせる。
瞳孔がこれ以上ないほど開いてまともじゃないことを示唆していて、自分が今食している人物が父親だということなど一切知らない顔だ。いや、そもそも自分が今何をしているのかすら分かっていないだろう。
異常で狂気で、果てしないほど人間性が壊れている。
そしてそれをただ見ている俺もまた、壊れてしまったのかもしれない。
「ぁがッ、ぐふッ……レスター……ッ……レス、ター…………」
知人が抵抗も出来ず自分の娘に噛み殺されているのを漠然と見ている。
もう助からないと知っていながら、これ以上見たくないと思いながら、それでも俺はその光景から目を離すことはなかった。
手は伸ばさず、息も上げず、声も出さず、足も動かさず。何もせずに馬鹿みたいに凝視する。
「あがッ、がぁ……ァ、……ューっ…………ェリ……」
男は這いずる様に血塗れの手を伸ばし、途切れるような声を発して最後まで自分の娘を抱きしめる。だが非情にも少女は正気に戻る様子が無かった。
頭がガクッと落ち、抱きしめていた腕が力なく少女の背中から離れていく。
「ぁ、ぅう……? おと、さ……?」
そこで初めて少女、シェリーの意識が戻る。彼女は目の前に広がる惨劇を見て、一瞬で事を理解する。
理解してしまった。
「あ、ああ、おとうさ……おとうさ、ん」
次に彼女の目に映るのは自身の手に付着する真っ赤な液体と父親の体の一部。
そして足元に転がっている頭部のない胴体部分、そして傍らに視線を向けるとそこには見覚えのある顔があった。
それは紛れもない、自身の親の顔だった。
「あは、あははっ……はは……」
乾いた笑い声を出しながらも、その表情は笑っていない。
ただ空虚な目をして、現実逃避するように天井を見つめている。
シェリーの精神は完全に壊れ果てていた。
俺はその光景を映画でも見ているかのように呆気に囚われ傍観する。視界から外れ部屋全体を見渡せば壁は一面紅色の血で染め上げられており、まるで絵の具で塗りつぶされたかのような光景だ。
笑えない、欠片も笑えない。どうしてこうなったのか、どうしてそうなったのか。
情報は、伝達は、対策は、原因は──?
市民は、護衛は、防衛機関は、国は、政府は──?
分からない、何も分からない。分からないまま俺達は死を迫られている。
外からも悲鳴が聞こえる。生き残った人々が絶叫を上げて泣いているのが分かる。しかしそれもすぐに止むだろう。俺達と同じように、どうせここで死ぬ。
「メア、リー……」
俺は狂い果てたシェリーの隣にいた自分の娘であるメアリーに声を掛ける。それがこの場での自殺行為であると分かり切っていながら。
最愛の娘、人生の宝。だがその表情は先程の狂犬的な行動を見せたシェリーを酷似している。
何もかもを失った気がした。俺の目は光を失いつつあった。
「──大丈夫だよ、パパ」
「……っ!!」
メアリーから発せられたその一言に、盲目に落ちかけていた意識が俄然と覚醒する。
その言葉で全てを悟った。その言葉で、それ以上の問答を封じた。
メアリーを、自分の娘を天才の素質を持った自慢の子で良かったと心から安堵し、そんな我が子にこんな思いをさせてしまっている自分に信じられないほどの怒りを感じた。
だがここで全てを台無しにしてはいけない、心の奥底ではどこまでも冷静でいなければならない。
だから、今の俺に出来る事を為すために噴き出しそうな怒気の感情を全力で押し殺した。
ただ一言、必要だと思う言葉だけを伝えればいい。ただ一言、全てを納得させる返答でいい。
どこまでも深く深呼吸をして息を整える、彼女の目に最後まで出来る父親であったと格好つけるために、どこまでも冷静な自分を装う。
そして、慈愛を乗せたこれ以上ない笑顔で自分の娘へと向き合った。
「……愛してるよ、メアリー」
炎が上がり火の粉がチリチリと焦燥を掻き立てる王室の前で、俺はどこまでも日常に近い笑いを見せた。平凡で貴族には向かなくて、どこか安堵するとよく言われた自慢の笑顔を娘に見せた。
──そしてゆっくりと背中を見せ、全力で逃げた。振り返らず、一直線に。
後ろからは愛する娘の押し殺した涙声が微かに聞こえてくる。だが俺は振り返らなかった。
今まで声を押し殺していたおかげで気づいていなかった奴らも、俺の足音を聞いて一斉に襲い掛かってくる。
奴らとは、つまるところ『元人間』だ。あるいは"ゾンビ"とでも言い換えた方がいいだろうか。
正気を失った目をした者から、首の取れた者、顔色を保った腕の無い者。視界に映っていたのは生易しいゾンビという固定概念に当てはまる存在じゃない。操り人形か、魂の無くなった人間だ。
俺にそれらを殺す勇気は無かった。殺傷経験が乏しい俺に、そんな行為はムリだった。
それでも、奴らを跳ねのけて逃げ延びるには十分な距離は保てているだろう。
だが俺は飛び出した後になって、やってしまったと心の底から後悔した。
愛する娘に、生き延びて欲しいはずのメアリーに、我が身可愛さで「大丈夫」という言葉に希望を見出してしまった。
助けなければいけない存在なのに、置いて行ってしまった。
自分の命を優先してしまった。
助かりたいという欲求に甘えてしまった。
奴らを殺せないと決めつけてしまった。
自分を一番に考えてしまった。
彼女の希望に縋ってしまった。
跳ねのけられる恐怖に慄いてしまった。
変われるはずの今を見逃してしまった。
過去の自分を引きずり出してしまった。
救えたはずの命を見捨ててしまった。
渦巻く、渦巻く。焦がれた景色を黒塗りされるように、お前の生きてきた人生は無意味だったと踏みにじられるように。
罪悪感で心臓が潰れそうになる。前に進む足が枷によって引きづられる。
殺せないからこうなった。殺す勇気が無かったからこうなった。
助けられる命も、助けるべき選択も。全部、全部失った。
明らかに大丈夫じゃない状況下で、それでも正気を保っていた娘の言葉に自分では気づけない何かがあるのだと可能性を受け入れてしまった。
本当なら彼女の意志を無視してでも助けるべき状況下で、俺はその手綱を手放したのだ。
「何が愛してるだ、本当に愛してるなら助けるべきだろうがッ……」
追われながらもなんとか得物を探そうと辺りを詮索する、だが手が震える。
何でもいい、鈍器でも銃器でもなんでもいい。早く引き返して娘を助ける、助けなきゃいけない。
だがその行為が人を傷つけ殺すという連鎖に結び付けると同時に、手の震えは止まらなくなり体は信じられないほどの拒否反応を起こす。
「クソッ、クソッ……!! なんで、なんで言うこと聞かねぇんだ……頼む、頼むよ……娘の為なんだ、引き金を引くだけで助けられるんだ。人を殺すだけで娘を助けられるんだ!! なんで、なんで──おえぇえぇッ……!?」
意志とは裏腹にこみ上げてくる異様なまでの気持ち悪さに思わず嘔吐する。
後ろからは考える時間すら許さないとばかりに正気を失った人間達が追ってくる。
そして逃げれば逃げるほど城からの距離は離れていき、メアリーを助けるという目的とは遠ざかってしまった。
幸か不幸か、辺りにはろくな武器は落ちておらず、鉄パイプや鈍器系のものは熱によってとても持てるような状態じゃなかった。
そこからもひたすら追われ逃げ続ける状態。娘の為に生きるのか、自分の為に娘を助けるのか、思考は果てなく巡るだけで結論には到達しない。
やがて城を飛び出し街の外まで逃げ込み、銃を持っているであろう店を片っ端から訪れた。
本当は心のどこかで逃げ道を用意する自分に酷く吐き気を催しながら。
「…………」
──ようやく見つけたハンドガンを手に決意を決めたのは、城が燃え崩れ崩落した段階でだった。
我ながら遅すぎた決断に失笑し、遠目で見える城の風景に今から戻る気力すら失われる。
それでも行かねばと城の中に足を運んだが、そこには死体と灰だけでメアリーと思わしき人物はいなかった。
本音を言えばメアリーが死んだとは思っていない、あの子は優秀で誰よりも頭がいい。きっとどうにかして生きているだろう。
だがそうじゃない。人として、父親として助けるべき必然の命を見捨てたこと。決してしてはならないことをしてしまった自分に、これ以上の怒りはなかった。
こんな状況ですら、恐怖や拒否といった感情が未だ自分の中で巡り続ける。
逃げたい、助かりたいよりも殺したくないという慈悲にも似た気色悪い感情。
「いい加減にしろ……」
そこで初めて、自分の中で何かが切れる音がした。
這いずり回っていた偽善的思想に終止符が打たれ、弾け飛びそうなほどの痛みが左脳に響いた。
街中の影で漠然と突っ立っているその姿を恰好の獲物と捉えてか、後方から騒音に紛れて足音を消し襲い掛かってくる老婆。
その額を容赦なく銃弾が貫通する。
「あぁ……やっと震えが止まった」
ふと口に出した言葉は、よろけて倒れそうになる老婆の頭蓋骨に二発三発と撃ち込んだ後だった。
鼻から垂れてくる血を拭き取りもせず、ハンドガンを素早くリロードして視界に入る正気を失った人間達に次々と銃弾を埋め込んでいく。
「はは……やれば、できるじゃねぇか……俺……」
似つかわしくない表情で喉を鳴らし、その笑みも行動も自分の中で勝手に完結する。
胃の中のものを吐きだしそうになるが、怒りと狂気でそれらを押さえつけた。
そこから外に向けた言葉は、混沌を生み出した何者かに対する宣戦布告。
車の影に隠れながら、俺は一人静かに呟いた。
「なぁ……聞こえてるかクソ野郎共、俺は決めたぞ。……テメェらを皆殺しにして、その死体を集めて核爆弾で木端微塵にしてやるよ。更地になったテメェらの墓の上で飯食って一晩中踊り明かしてションベンしてやる」
傭兵時代の口の悪さが止まらず世界に放たれる。
現状何が起こっているのか、誰が敵なのか、これからどうなるのか、全てが不明瞭だ。
しかし一つだけ言えることは、この現状を引き起こした存在は絶対に許されない。
「……鏖殺だ、この災害を引き起こした奴が視界に入ったら一人残さず鏖殺してやる。メアリーも生きている限り必ず救う。ああ決めた、今決めた。俺を敵に回したことを後悔させてやる。絶対に、絶対にだ……!」
自分に訴えかけるように、戦意を上げて鼓舞するように。誰よりも力強く拳を握りしめて宣言する。
今、この時だけは誰よりも復讐に燃える人間になろう。その為ならどんな手を使ってでも構わない。
この現状を引き起こしたクソ野郎に地獄を見せるためならば、悪魔に魂を売ってもいい。
「誰が何のためにやったのかしらねぇけどな……人を玩具みてぇにゾンビ化して、無差別に人を追い回し殺し尽くしてやりたい放題やって、それで許されると思ってんのか、裁く相手がいないと思ってんのか」
この世界に人をゾンビ化させる可能性のある病原体などない。仮にそれが奇跡的結合によって自然的に産まれたとして、これほどまでに一斉に発症することなどありえない。
明らかに意図的に仕組まれた事態であるのは明白、そしてその相手は間違いなく人類史に残る何らかの禁忌を犯している。
背後から爆発音や僅かな銃声が鳴り響く中、車の影から立ち上がって目の前の死屍累々を突き進む。
ただ一人、その目に宿った緋色の霧は誰よりも鮮烈に燃え上がっていた。
「──人類をバカにするのもいい加減にしろよ」