8
翌日、日も昇らない頃に一人でやすらぎ荘を飛び出した。
昨日の緋翠くんの様子がおかしかったからこれ以上負担をかけたくなかったのもひとつの理由だけど、何よりいてもたってもいられなかった。
私の中にあるはずのさゆちゃんとの思い出を取り戻したい。その一心で北に向けて足を速める。
寝不足の体は悲鳴をあげているけど、頭は動けと命じ続ける。
ドーパミンが出ている状態っていうのはこんな感じなのかな、なんて思いながら北へ北へと進んで行く。
昨晩、記憶を取り戻す目的を見つけた私は、眠れない夜を過ごした。高揚感が込み上げて、脳が休むことを忘れてしまった。
考えていたのはさゆちゃんのことばかり。天井の梁を目で追いかけてみたり、ゆっくりと流れる月を眺めてみたりしたけれど、気が紛れることはなかった。
すぐにでも外へ飛び出したい気持ちでいっぱいだった。向かう先が危険と不安に満ちた最北端の地でなければ、私は一人で夜の森へと駆け出していただろう。
はやる気持ちを抑え込んで、布団の中でこれまでに見た軌跡を辿った。
最初に見たのは細い獣道。森の中へと誘う一本の道だった。
木々が青々と茂っていて、空から落ちる木漏れ日が点々と照らす道。
あれは……そう、さゆちゃんとの最初の思い出の場所だ。
中学生の時のことだ。上手く友人が作れず、入学して半年が経っても友達一人居なかった私に声をかけてくれたのが転校生のさゆちゃんだった。
同じクラスで人一倍明るい太陽のような女の子。皆がその笑顔に照らされて自然と顔が綻ぶ。彼女が皆を支えてくれるように皆も彼女を支える。転校して間もなく、彼女の周りにはいつも人がいるようになっていた。
さゆちゃんはそういう不思議な雰囲気を纏った女の子だったんだ。
さゆちゃんと出会ってしばらくして、私は彼女に連れられてあの地を訪れた。
住宅街の裏手にそびえ立つ大きな山。大木が所狭しと並ぶ中にほっそりと抜けた小道。
さゆちゃんに手を引かれるまま、私たちは小道を進んだ。
なんだか雰囲気は怖いし、足場が悪くて転びそうだし、進んでも進んでも終わりが見えないしで私は不満を抱えていた。
だけど、その不満もあの景色を目の当たりにして吹き抜けた風と共にどこかへ飛んで行ってしまった。
私の目に飛び込んできたのは、どこまでも広がる桃色の花畑だった。
一面に広がるコスモスが私たちを歓迎するように揺れる。
周囲に並ぶ木々の緑と桃色の花弁のコントラストに目を奪われる。
私は声を出すことも出来ずにその場に立ち尽くしていた。
「素敵な場所でしょ?」
彼女は太陽のような笑顔でそう聞いた。
私は何度も頷いて、彼女の手をぎゅっと握る。
「お散歩してたら偶然見つけたんだ。みぃちゃんに見せてあげられてよかった」
彼女の言葉に私は首を傾げた。
どうして私に?
転校して間もない彼女には既に多くの友人がいた。
その中から私を選んだ理由がわからなかった。
偶然私だけが暇を持て余していたのか。或いは、私が最初だっただけで他の友達にも見せるつもりだったのかも。
素直じゃない私はそんな予想を立てていた。
けれど、さゆちゃんは両手でしっかりと私の手を握り締めて言った。
「みぃちゃんが最初の友達だったからだよ。みぃちゃんが私の言葉に耳を傾けてくれなかったら、私は友達がいないままひとりぼっちだったもん」
予想を思いっきり覆した彼女の言葉に困惑した。
彼女があまりに私のことを誤解していたからだ。
さゆちゃんが最初に話しかけたのが私だっただけで、きっと彼女は私と関わらなくてもたくさんの友達に囲まれる青春が待っていたはずだ。
友達がいなかったのは私の方で、感謝すべきは私だったんだから。
すぐにでも否定したかった。でも、彼女の笑顔があまりに眩しくて、私は言葉を飲み込んでしまった。
さゆちゃんが勝手に勘違いしたんだ。私のせいじゃない。
彼女が勝手に私を友達と呼ぶなら、私は彼女を利用すればいい。人付き合いが苦手な私にも友達がいるんだって証明できる材料にしてしまおう。
最初はそんな邪悪な感情を抱いていた。
でも、私の悪い感情はさゆちゃんとの時間を重ねる度に罪悪感へと変わっていた。
彼女の気持ちも言葉も笑顔も、全てが本物だって気付いたからだ。
ある日、私たちは学校の帰りに寄り道をしていた。
さゆちゃんと出会って数ヶ月がたった頃だったか。季節は冬へと移り、頬を撫でる冷風に身を震わせていた。
その頃の私たちは、私の塾の時間になるまで町の周辺を散歩するのが日課だった。
新しい感動を求めて。インスピレーションが沸き立つ景色を求めて。私の心が解放される場所を求めて。
その時間だけが私の自由なひと時で、彼女の隣が私が安心できる唯一の空間だった。
家とは反対の方向に向かって十分ほど歩いた。
町の中央を分断するように流れる川に沿って歩いていると、大きな橋に差し掛かった。
黒く長い髪を靡かせてこちらに手招きをするさゆちゃん。誘われるままについていく私。
橋の中央にたどり着いたところで、彼女は足を止めた。
彼女が伸ばした白い腕につられるように視線を送る。
その細い指の先に広がっていたのは、キラキラと揺れる水面だった。
澄んだ空気は太陽の光を遮ることなく水面に投射し、冷たい風に揺らされた水面に触れて乱反射する。
寂しさを漂わせる白い空気の中で、その景色だけが色づいて見えた。
まるで万華鏡を覗き込んだような幻想的な景色がそこにあったんだ。
「綺麗」「すごい」と語彙力を失くした言葉を口から漏らしながら、二人並んで景色を網膜に焼き付ける。
「また私たちだけの秘密の場所が増えたね」なんて笑う彼女に私も力いっぱい頷きを返す。
心に芽生えた罪悪感をひた隠しにして。
あの罪悪感は私の自尊心と共に生まれた副作用だ。
医者の父親と教師の母親との間に生まれた私は、その才覚を存分に受け継いでいた。
幼い頃から厳しい環境で育てられ、学校の勉強よりも進んだ教育を施されていた。
テストでは満点を取ることが当たり前。勉強だけでなく運動にも力を入れ、スポーツテストでも上位の成績を残した。
まさに文武両道を体現していたと自負している。
小学生まではそれでよかった。私が優秀だと両親は褒めてくれたし、学校でも頼られる存在であり続けたから。
私にとってはそれがすべてで、当然のことだと思っていた。
だけど、そんな私にも持っていないものがあった。
それが友人という存在だ。
頼られはするけど友達とは呼べない。両親の言いつけで遊びに行くことはできなかったし、テレビを見ることもなかったから話も合わせられない。皆がお小遣いや誕生日プレゼントで欲しいものを手に入れている中、私の手元にあったのは参考書や図鑑だけ。
小学生も高学年になると必要以上に私に話しかけてくる人も居なくなって、中学校に進学した頃には私は一人になっていた。
羨ましくはあった。でも、周囲を見下している自分もいた。
一人じゃ何もできないから友達をつくる。自分の能力じゃ勝負できないから友達の数で自分を誇示する。
友達が多い人なんてそんなものだと思っていた。
そうして生まれたのが私のちっぽけな自尊心。友達という逃げに走る人たちよりも優れているという勘違いだ。
そんな私もさゆちゃんという友達ができて、少しずつ変わった。
友達なんて作ろうとしなくてもできるんだという傲慢な飾りとして利用していたさゆちゃんとの時間を過ごす度に友達の大切さを知った。
もしもさゆちゃんが私のスペックを利用して自分を誇示するだけの人だったなら、私に変化が訪れることもなかったのかもしれない。
その変化が良かったことなのか、悪かったことなのか、今の私にはわからない。
それでも、閉じた世界にいた私に外の感動をもたらしてくれたのは間違いなく彼女の存在だ。
私に革命的な変化が訪れたのは……そう、中学生活二年目の夏のことだった。