莉々 四
男は莉々を横抱きに抱えて空を移動していた。まるで見えない足場があるように時おり空を踏んでは跳ね、ゆったり弧を描くように進んでいく。
しばらくそうして移動した後、どうやって知ったのか莉々と母の住むマンションまでやってきた。男はベランダに降り立ち、カラカラと音の鳴る窓を開けて室内に入った。
室内には莉々の母である鶴原がいた。憔悴しきった表情を驚きに変え、ベランダから入って来た男を警戒した。鶴原は男の腕の中にいる我が子を見て、目の色を変えた。
「莉々!! あなた誰!! 一体その子に何をしたの……!?」
「落ち着け、私は妖怪退治屋だ。道すがら、この子が妖に襲われていたところに居合わせた。大丈夫、生きている。妖はすでに退治した」
「そんな、妖に襲われただなんて……その子には守りの術が掛けてあるのに……。助けていただいたことには感謝します。でも、その子を早く返してください、さぁ!」
鶴原は莉々に向かって手を伸ばした。しかし、男はその腕から莉々を庇って遠ざける。
「それは出来ない。貴女は妖だ」
「ただの妖じゃないわ……私はその子の母よ……」
「ならば離れてくれ」
鶴原はカッと目を見開き、腕を広げて伸びあがった。その影に一瞬、人ならざるモノの姿がちらついた。
「私はその子の母よ! その子は私の物ッ!!」
「母だと言うのなら気をしっかり持て」
男が莉々を片手で抱き直し、空いた方の手を鶴原に向けた。すると鶴原は怯えて後ずさり、みるみるうちに顔を青くさせた。
「子を喰らおうとする母がいるものか。そんなものは母ではない、毒婦だ」
男がさらに手を突きつけた。手のひらの中の物を見て鶴原はうろたえている。
「よく見ろ。お前が何者なのか、よく見て確かめろ」
「あぁ……あぁ……」
男が手に持っていたのは鏡だった。鶴原は鏡に映った自分を見て怯えていたのだ。広げた腕を下ろし、身体を縮こまらせた鶴原にはもう莉々を奪おうとする意志は見えなかった。
鶴原が正気を取り戻したのを見て男は手を下ろした。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい……私は近づかない方がいい……お願い、その子を私に近づけないで」
鶴原は手で顔を覆ってすすり泣いた。男は鶴原が落ちくのを待って問いかけた。
「貴女はこの子の身内か」
「……はい。赤子の頃からこの手で育ててきました。あぁ莉々、妖に狙われたなんて可哀そうに……。どうぞこちらに、莉々をソファに寝かせてやってください」
男は言われたとおりに莉々をリビングのソファに下ろした。莉々は目を覚ますこともなくくたりとしている。男は座面に畳まれていたタオルケットを手に取り、広げて莉々にかけてやった。
鶴原はそれをただ見ているだけだ。男は鶴原に向き直った。
「なぜ妖が人の子と暮らしているんだ。それに、こんなに妖に狙われやすい子を無防備にさせているだなんて信じられない。退治屋として見過ごせない」
「私は、私は……何から話せばいいか。話せることと話せないことがあるのです」
鶴原は言い淀んだ。
「私は鶴原と名乗って人の世界で暮らしていますが、本来は鶴の妖です。莉々は、私がお世話になった人間の術者の子どもです。母親はお産で、父親は妖退治で死んでしまいました。私は父親の方に恩があったので、彼の最後の願いとして莉々を引き取って育ててきました。人の世界で暮らしているのも莉々のためです」
「莉々は父親の体質を受け継いでいて、妖に狙われやすいということが胎児の頃からわかっていました。母親はそれを憂いて、莉々が大人になるまでの間、妖から守るための術を掛けました。古くからある守りの術です」
「何が切っ掛けで術が解けるか、具体的なことは私は知りませんでした。大人になったら解ける、ということは知っていましたが、それが人の世の法律で成人と扱われる年齢を示すのか、あるいは術者として何か能力を示すことなのかまでは教えられていなかったんです。でも、今わかりました。その子から血の臭いがする。莉々は初潮を迎えたんだわ」
初潮を迎えたことで成人と扱われる。古い術ならばそれも不思議ではない。昔は成人とみなされる年齢が現代よりずっと若かった。
「この子の血肉がこれほど強力だなんて思ってもみませんでした。今まで全く匂わなかったんです。大人になって封印が解かれたとしても、香りは微々たるもので大した脅威にはならないと思っていた……惹かれてやってくる妖も小物ばかりだろうから、私が守ってやれば済む程度だと……」
「この子は香りで妖を惹きつけるだけでなく、見鬼の能力もある。それもとてもよく見えている」
「きっと母親の血でしょう。母親は見鬼に優れた術者でした」
「そういうことか……妖は己を知覚する人間に惹かれる。だからこれほどなまでに妖を惹きつけるのだろう」
男は鶴原の話を聞いて納得した。類稀なる血筋がこの子どもを危険にさらしたのだ。
鶴原は俯いて力なくつぶやいた。
「私はもう側に居られません。この子の全てが、妖である私を狂わせてしまう……」
「待て、あなたが側を離れると言うのなら、この子はどうなるんだ」
「……知り合いの人間の方に引き取ってもらいます。人の世界で弁護士をやっている男性で、人に紛れて暮らす妖の世話をしている方です。彼が面倒を見られないというのなら、母親の生家である矢野家に引き取られることになるでしょう」
親としてそれはあまりにも無責任ではないか、と男は言いそうになったが口をつぐんだ。実際、この鶴の妖が莉々の側に居続けることは不可能であるとわかっていた。
鶴原は部屋を横切りキッチンカウンターに近寄った。カウンターには飲みかけのコーヒーやメモ帳の他に、電話が置いてあった。鶴原は受話器を取って迷いなく番号を押していく。
「もし、夜分遅くに申し訳ありません、佐藤さんはまだいらっしゃいますか――」
鶴原が電話を掛けているのを視界の隅に収めつつ、男は莉々の周りに結界を張り始めた。
部屋の壁や扉に護符を貼り、莉々の眠るソファを取り囲むように五本のろうそくを等間隔に置くとそれぞれに火を付けていった。ライターなどの道具は使わずに指先でつつくだけで火が付いた。男自身も蝋燭の内側に入りひざまずくと静かに深呼吸をした。
今は夜中だ。朝日が上るまでこの結界を保たなければならない。その間、一時も休むことなく守護の呪文を唱え続ける必要がある。集中力と体力が求められる。それほど堅固な結界を張らなければ妖たちからこの少女を守ることは出来ないだろう。
すでに、莉々が襲われた場所からここまで来る間にも数匹の妖に狙われた。
このマンションの部屋周辺は鶴原の縄張りになっているようで、すぐには他の妖たちも侵入してくる様子はない。だが、鶴原よりも強い妖が莉々の匂いをかぎつけたら話は別だ。縄張りの主を恐れることなく莉々を狙ってくるだろう。そして、男の見立て通りなら、鶴原はさほど強い力を持つ妖ではない。他の妖がやってくるまでは時間の問題だと思われた。
朝日が上るまでの間、この少女の香りを結界の中に封じ周りから見えなくする。男は術者としても妖怪退治屋としても優れているが難しい仕事になる。
面倒ごとに引き込まれたな、と男は苦々しく思った。面倒ごとは大嫌いだ。
それでもやらなければならない、と男は思う。男は眠る少女を見た。何も知らずに襲われた哀れな子ども。妖から逃げようと見ず知らずの男の背中に縋った無力な子。封印が解けたとは言え未だ大人には程遠い姿だ。
母親はこの少女の世話を放棄して逃げると言う。この少女を見捨てることは男には出来ない。男は息を深く吸った後、指を複雑な形に組んで守護の呪文を唱え始めた。
電話を終えた鶴原が男を振り返った。
「連絡が取れました。莉々の世話を頼むことが出来ました」
男は鶴原の言葉を聞いて頷いた。呪文を唱えるのを止めることはないからだ。
「朝方に、佐藤という人間の男性が来るでしょう。それまで、莉々のことを守ってくださいますか」
そのために今呪文を唱えているのだ。男は再び頷いた。
鶴原は男が莉々を守ってくれることに安堵した。ベランダに向かいつつ、さらに話を続ける。
「見ず知らずのあなたにこんなことを頼むのも良くないのかもしれません。けれど、妖の私がそばにいるよりはマシでしょう。退治屋だと言うあなたを信じます。どうか莉々のことを頼みます。あとのことは佐藤と話し合ってください。私はもう行きます」
鶴原はそう言うと、カラカラと窓を開けて外に出た。最後にもう一度、ソファで眠る莉々を見た。自分の頬に流れた一筋の涙を拭うと、鶴原は妖の姿に変化する。そして大きく翼を広げて飛び立った。空に浮かんだ鶴は、その後は振り返ることなく北の彼方へと消えていった。もう二度と帰ることのない巣に、飛べない雛を残して。