莉々 一
莉々はその日、母が焼くベーコンと目玉焼きとトーストの香ばしい匂いで目を覚めした。
「莉々ー、早く起きなさい」
母がキッチンから声を掛ける。莉々はタオルケットを剥ぐとむくりとベッドから起き上がった。窓のカーテンはすでに開けられていて、眩しいほどの朝日が莉々の部屋に差し込んでいる。
莉々はベッドから降りると洗面所に向かった。蛇口から出る冷たい水が、熱帯夜で火照った顔に気持ちいい。タオルで水気を取って鏡を見た。まん丸とした目が莉々を見返している。瞳は明るい色をしている。赤茶色のもつれたねこっ毛がハート形の顔を囲っている。莉々はヘアブラシを手に取って丁寧に髪を梳かし始めた。寝癖がついていないことを確認して、最後に額に出来たニキビを睨みつけた。顔のあちこちに出来るニキビは思春期の莉々の悩みの種だった。母のようなすべらかな白い頬に憧れがあった。
莉々と母は似ていない親子だ。色素の薄い莉々の髪に対して、母の髪は黒々と青く光り、肌も抜けるように白い。母は背が高く足長で全体的にほっそりとしているが、莉々はどちらかというと身長は低い方で骨がしっかりしているタイプだ。母が言うには莉々は父親似らしい。
莉々が顔を洗ってる間に目玉焼きの黄身はちょうどいい焼き具合になって、サラダの盛られたお皿に届けられる。そして食パンがプッポアップトースターからバシュっと頭を出す頃合いに、洗面所を出た莉々は冷蔵庫からマーガリンを取り出して席に着くのだ。
母と二人でニュースを見ながら朝食を食べつつ、その日の予定を話したり家事分担の確認をしたりする。何年も続いている二人だけの生活だ。
莉々は父親を知らない。何度か母に聞いたことはあるけれど、『母を助けてくれた人』『莉々に似ている』ということ以外は何もわからない。
彼女は莉々の父親のこととなると途端に口を重たくするのだった。自分の苗字でもある鶴原が母の生来の苗字であると知っているので、自然と莉々は母と父親は結婚しなかったのだと理解していた。
「今日も暑いわね。まあでも、もうすぐ夏休みだから当たり前よね」
テレビ画面の向こう側でお天気お姉さんが読み上げる今日の気温聞きながら母が言う。そしてふと莉々の顔を見て、眉根をギュッと寄せた。
「莉々、なんだか顔色が悪いわ。いつもは元気なのに、珍しいわね」
「そうかな」
正直になると、莉々はベッドにいた時からどうにも体調が良くなかった。なんとなくだるくてお腹が痛い気がしていた。抗いようのない眠気もあった。けれども熱があるわけでも頭痛がするわけでもないので、朝は普段通りに過ごして学校に行こうと思っていた。
「学校休む? テストはもう終わったんでしょ?」
「テストは終わったけど、部活が始まるもん。せっかく再開するのに休みたくないから学校には行く」
「そう。じゃあ、具合が悪くなったら保健室に行ってね。一人で帰れそうになかったら何時でもいいから電話しなさい。ママの仕事は気にしなくていいから」
「うん。でも、心配しなくても大丈夫だよ。昨日の夜、マキちゃんと部活の子たちとラインしてて寝るのが遅くなっちゃっただけだよ」
「もう……今晩はちゃんと早くに寝るのよ」
「わかってる」
それ以上母が娘の夜更かしを咎めることはなかった。そもそも、母が莉々を怒る事は滅多に無い。
幼い頃はそれなりに叱られていた記憶はあるが、小学校に入学して聞き分けが良くなってからは母が大声を出すことはなくなった。代わりに、莉々が今にも壊れてしまうのではないかというように心配症になってしまった。大きな怪我をしたことが無く、風邪も病気も滅多に罹らない健康そのものの娘の何を心配しているのだろうかと、莉々はいつも不思議に思う。
今日だって、少し体調は悪いものの、莉々は母ほどに心配していない。テストが終わったから授業は短縮日程になる。午前中には教室から解放されて部室で気ままに休みながら過ごせるのだ。そしてその部活動も夕方には終わる。
朝食を食べ終わって一息ついていた時、母は洗濯機を回しながら会話し続けた。
「誕生日のプレゼント決まった? テーマパークのチケットがどうのこうのって言ってたっけ」
「あーそれね、昨日はそれを話してたの。夏休み、マキちゃんの調子が良かったらテーマパークに行こうかって話になってたの、でも夏だからやめておいた方がいいんじゃないかって。元気な子でも熱中症になっちゃうかもしれないから」
「そうね。ママもテーマパークは秋か冬の方が良いと思うわ」
「でしょ。結局、夏休みは普通に近所で遊ぼうってことになったよ。だからプレゼントはチケットはやめて、シューズがいいなって」
「やっぱりね! 莉々はランニングシューズを欲しがるんじゃないかって思ってたんだ」
母はにこにこして手を叩いた。
「プレゼント、すぐに用意するから……あら、もうこんな時間。莉々、急がないと遅刻するわよ」
「あ、うん!」
莉々はあわてて身支度を整えると、学校の指定鞄である紺色のリュックを背負って玄関を開けた。
「いってきます!」
いってらっしゃい、気を付けてね、という母の声を背に莉々は学校へ向かった。