百寄夜暁
七月中旬、今年もまた日本は蒸し暑い夏を迎えていた。
正午を迎える前だが太陽はすっかり高い位置にある。鉄筋コンクリートで出来たビル群、アスファルトから立ち上る陽炎、都心のスクランブル交差点で信号待ちをする日傘を差す女性、額の汗を拭うビジネスマン、ハンディファンを首からぶら下げる若者……。地下鉄の駅の出入口はひっきりなしに都会人たちを呑み込み排出していく。
今もまた、黒いスーツをきた一人の中年の男が駅から出てきた。中肉中背のどこにでもいる平凡な容姿だ。全く不思議なことだが、男はまるで何も感じていないかのように強い日差しに目を細めることも暑さに眉を寄せることもしなかった。男はタクシー乗り場まで迷いなく歩いていき無表情のままタクシーに乗り込むと運転手に行先を告げた。
やがてタクシーはハイソサエティの人間御用達のホテルに到着した。男はクレジットカードで支払いを済ませると、先ほどと同じように涼しい顔をしてホテルに入っていった。
男はホテルのフロントから案内されるままにラウンジに足を運んだ。ラウンジにはすでに三〇人ほどが集まっていた。待機所として用意されているラウンジは豪華だが趣味が良い。だが待機している者たちは総じて異様な雰囲気を発していた。
皆、着ている服はまともだ。高級ホテルに相応しい上質なスーツや和装の訪問着である。しかしその場にいるほとんどの者が顔を見られないように面布をつけていた。中には真っ白な狐や日本では絶滅したはずの狼犬を従えていたり、腰に日本刀を差していたりする者もいる。明らかに普通ではない。
男はそんな人々にかまうことなく、顔の前で何かを振り払うように手を振った。すると、男の周りが霧のようにぼやけて中から三つの人影が現れた。幻術である。
中年の男だった人物はうりざね顔の青年に姿が変わっていた。こちらが本当の姿なのだろうか。羽織に袴という和装であるが、フォーマルになり過ぎないようにいくらかカジュアルダウンしている。念入りにコーディネートされた装いだ。
青年のすぐ横には妙齢の女性が並んでいる。耳の下で切りそろえられたショートカットが凛々しく映えている。めりはりのついた身体に寸分たがわずに沿ったパンツスーツ姿だ。スーツの生地は緑に光る鉄色で、耳元のイヤリングとヒールパンプスが深紅の差し色になっている。ランウェイを歩くモデルのようないで立ちだが、腰元に佩いた直刀がそうではないことを物語っている。
二人の背後には十代半ばの少女が立っていた。
腰までのつややかな黒髪を一つに結っている、目元がきつめの美少女だ。化粧をせずとも白い肌と赤い唇が若々しさを物語っていた。今はまだ幼いが、いずれは誰もが振り返るような美人になるだろうことがうかがえる。彼女はひざ丈の紺色のセーラ服を着ていた。
三人とも顔立ちがよく似ている。
女性の名前は小烏薫という。青年は薫の弟で名は凪、黒髪の美少女は末妹の吹雪だ。
吹雪はうんざりした顔でつゆ草色の扇子を仰いでいた。
「都内は暑くて嫌だわ。薫お姉様はよく毎日通えますね」
「慣れるまでが辛抱だよ。が、今年は暑すぎる気があるがね。向こうに飲み物が用意されてるから、そこで水分をとりなさい」
「そうするわ」
「私は挨拶を先に済ませてくる。凪、吹雪を頼むよ。くれぐれもトラブルに巻き込まれないように」
「わかっています」
薫は懐からイタチ顔のお面を取り出して顔に付けた。スーツの上着に膨れたところはなかったのに不思議なことだ。そして彼女は人混みにまぎれていった。
姉を見送った兄妹はラウンジに併設されたバーに向かった。凪は吹雪の後ろを歩いて周囲を警戒する。小烏家を継ぐのは姉であるが、それとは別に妹には格別に守りが必要とされる事情があった。
ここでは一時も気が抜けない。なぜなら、この集まりは『百寄夜暁』のものだからだ。
『百寄夜暁』とは、日本国内において起こる怪異の解決を図る術者集団である。由緒ある名門一族たちで構成されていて、人間の世界である『現』と妖の世界である『隠』の均衡を保つことを目的としている。
『百寄夜暁』に名を連ねる面々は、同僚であるが同時に競合相手でもある。良好な関係にある一族ばかりではないため、一瞬の隙が命取りになることもある。
今日は定期集会だ。小烏家は名実ともに一門の一族であるので、毎回出席している。普段は女当主である薫が一人で出席するのだが、今回は重要な招集だということで姉兄妹そろっての出席となった。
「おやおや、見ない顔がおられる」
兄妹がバーカウンターでソフトドリンクを飲んでいると、話しかけてくる者がいた。無難な灰色のスーツを着て顔に『へのへのもへじ』と書かれたお面をつけている。お面から覗いている頭部はスキンヘッドだ。
凪は優雅にグラスを下して話しかけてきた男と挨拶を交わした。
「小烏家の者です」
凪は必要最低限の名乗りだ。吹雪は我関せずとドリンクを飲み続けている。
「お初にお目にかかります、わたくしめは情報屋の多喜司でござりまする」
聞いたことが無い名前だ。有名なのだろうか? 凪は多喜司を観察した。生地は質の悪い物ではないが身体に合っていないので、おそらく有名一族や資産一家の出ではないだろう。そういう家の者は他人にどのように見られるのかを重要視していて、自分は業界の重鎮なのだと見た目で主張することに金をかけることを厭わない。
凪は普段こういう場に顔を出さないので疎くて困る。丁重に扱えばいいのか、ぞんざいに扱っていいのか。凪はちらりと妹を見た。
〈矢野多喜司、術者としては無名だけど、NKRC(日本怪異リサーチカンパニー)の社員さんよ。扱いと喋る内容には気を付けた方がいいわ。特大の尾ひれがついた噂話を流すから下品だって、お姉様はいつも文句を言ってる〉
〈そうか、助かる〉
二人が交わしたのは声を出さない思念での会話だ。術者の基本の技である。傍目から見たら会話をしているようには見えないし、盗み聞きされる心配もない。
どうせ会議の開始まで時間がある。姉もしばらくは帰ってこないだろう。凪は情報交換も兼ねて多喜司と世間話をすることにした。その横で吹雪はドリンクだけでなく軽食もオーダーしはじめた。今朝がた、家を出る前に朝食をしっかり食べていたはずだが……。さすがの成長期である。
凪と多喜司が、どこぞの家の何番目の子どもが能力を開花させたとか北の方の妖は力を増してきたとか、そういう話をしていると、凪たちのもとに小紋柄の訪問着を着た若い女性がやって来た。
名を下野千沙という。柔らかい色合いの茶に染めた髪を品よくシニョンにまとめている。降ろせば腰まであるだろう。全体的に落ち着きのある装いだ。空色の紬に鱗文様の帯、撫子色の帯締めが映える。爪も唇も同じ撫子色で塗られている。唯一頬だけが上気し濃い色をしていた。
「凪くん、久しぶりね」
親し気に声を掛ける下野に、凪は無言で会釈だけを返した。
「これはこれは、下野家の千沙嬢ではないか。今日はどういったご用件で……ははあ、目的は小烏氏ですね」
「イヤだわ、そんなに態度に出てしまっていたかしら。でも、許してくださいませね。婚約者ですもの。この人、こういうところにはあまり顔を出さないから今日会えて驚きましたわ。本当に嬉しい」
下野はそう言って控え目に笑うと、顎を引き上目づかいで凪を見つめた。頬が赤いのは凪を見つけたからだった。
多喜司はしたり顔で凪を見た。すべてわかっていると言わんばかりの顔つきだ。二十余年前に業界を賑わせた婚約話を思い出したのだろう。
「なるほど、それではこの小烏氏は、当主の弟君である凪殿ですか」
凪は内心でため息を吐いた。せっかく名乗らずにいたというのに名前がばれてしまったからだ。この業界では名前を知るということはとても深い意味を持つ。
「今でも小烏家と下野家は仲が良いというのは真実のようですね」
「ええ。我が家は三代も前から小烏家にお仕えしていますから当然ですわ。そうよね、凪くん?」
「下野家は我が一族と業務提携をしていますので、敵対はしておりませぬ」
深い結びつきを主張する下野に対してビジネスライクに凪は言った。しかし、そばで黙って聞いてた吹雪は我慢ならないとばかりに大人三人の間に割って入っていった。座っていたバーのスツールから立ち上がって下野に指を突きつけた。
「誰が婚約者ですって? お兄様とあなたの婚約はもうとっくに無かったものになってるでしょう。いつまでも未練がましくて見苦しいったらないわ。そもそも、主筋である小烏家の人間に向かって『凪くん』なんて不敬よ。身をわきまえなさい」
吹雪は下野を気に入っていないのだ。吹雪が強い言葉を投げかけると、下野は弱った顔をした。
「もちろん、家同士の繋がりとしては小烏家の方が立場が上だわ。それでもわたしと凪くんは幼馴染ですもの、親しく呼んではいけないことはないのよ」
まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調に吹雪は顔をしかめた。
「そして、婚約が白紙になっていることも承知しているわ。あんなことがあったのですもの、話が無くなるのは当然よ。でも、わたくしが凪くんを想うことは自由でしょう? わたくしは凪くんを元の姿に戻すことをあきらめていないし、元の姿に戻ったらもう一度婚約するつもりよ」
決意を目に映した下野の言葉に多喜司も反応する。
「いやはや若いのにご立派なものです。まこと、愛ですな。このような娘さんに慕われて、凪殿もまんざらでもないでしょう?」
うんざりして吹雪は凪を見た。
「お兄様、ガツンと言ってよ」
「前の婚約は両家の利益を考えたものでした。もし今また両家の結びつきを強くしたいのなら、姉が手を打ちましょう。一族に従する者として私はそれに従うのみです」
ため息を吐いて凪は無感情に言った。凪の意見としては『下野のことは好きでも嫌いでもない』といったところだ。
なおも言いつのろうとした吹雪の頭の中で声が響いた。薫の思念声だ。
〈吹雪、下野家には利用価値がある。機嫌を損ねないようにしなさい〉
〈でも――〉
〈吹雪、大人しくしないと今すぐ家に追い返すぞ。帰りに食べたいと言っていたパフェの話も無かったものになるが、それでもいいのか?〉
「ふん」
姉の脅しに吹雪は黙ったが、機嫌はより悪くなった。
場の雰囲気が悪くなったのを察した数人が好奇心を覗かせた視線を向け始めた。注目を集めてしまうまえに何とか納めなければと凪が口を開こうとすると、一人の少女が近づいてきた。凪はさらなるトラブルの気配を感じ取った。
「こんにちは、皆さん。あたし実来っていうの、よろしくね」
実来と名乗った少女の突然の乱入に四人とも困惑する。吹雪と同じ年頃のその子はなおも言い続けた。にっこりと笑う実来の瞳は青白く光っている。笑顔なのにどこか恐ろしさを感じさせる表情だった。
「揉めてるみたいだから教えてあげる。みんなが気になってるのは、小烏凪が誰と結婚するのか、でしょ? あたしちょうど知ってるんだ。小烏凪は、今日出会う女を貰い受けるんだよ」
「ちょっと、あなた何を適当なことを――」
「静かに、彼女は水晶の翁の庇護下の少女です。彼女の預言は必ず当たることで有名なんです」
吹雪は思わず声をあげたが多喜司にさえぎられた。凪は眉をひそめ、下野は色めき立った。下野は実来に一歩迫った。
「今日出会う女ということは、つまりわたしが凪くんと結ばれるということかしら?」
「下野千沙は小烏凪とは結婚しないよ。小烏凪の結婚相手は、今日初めて出会う女のことだよ。目印は……黒髪のショートヘア、だよ。うん、しっかり見えるよ」
実来は瞳をきらめかせて言った。実来の瞳の中では影が踊っている。少女はまさに今、未来を見ている際中なのだ。
実来の言葉に喜んだのは吹雪だ。
〈あらぁ、初めて(・・・)ですって。あなたのことじゃないみたいね?〉
吹雪が意地悪く下野に思念を飛ばすと、彼女は一瞬の間吹雪をきつく睨みつけた後、硬く心を閉ざした。こうされると吹雪がどれだけ思念を飛ばしても何も聞こえない。
多喜司は実来に問いかけた。
「予言はそれだけですか?」
「うん。どう? もめごとは解決した?」
余計に拗れたぞ、と凪は思った。多喜司と吹雪は面白そうにニヤついているが、下野は思いつめた顔をして実来を睨みつけている。と、そこへ老人が一人、杖をつきながら近寄ってきた。
「これ、実来! 勝手に他人様を占ってはいけないとあれほど言っているというに!」
老人の登場に、下野と多喜司は慌てて頭を下げた。
「水晶翁さま、ご無沙汰しておりますわ」
「翁殿、その後お加減はいかがでしょうか」
「うむ、千沙も多喜司も元気そうで何より。儂のこれはもう歳だよ。多少痛むが仕方がない」
水晶翁と呼ばれた老人は杖をついている。しばらく前から関節痛を患っているのだ。
彼は未来予知の能力を持っている年配の男性で、水晶の翁だとか呼ばれ敬われ親しまれている。彼と敵対している勢力はいない。その予知能力の特殊性ゆえに中立の立場を貫いているからだ。
儂のことより実来だ、と老人はずっと黙ったままでいる実来に声を掛けた。
「勝手に離れたかと思えばやってはいけないと言ったことをしおって。悪い子だぞ」
「ごめんなさい、おじいちゃん。でもあたし、本当にこれでもめ事が納まると思ったのよ」
けろりとした顔で実来が言った。全く反省の色が見えない。吹雪は面白いものを見るような顔で実来を見た。
「ねぇ実来さん、そういう予言、もっと他にないの?」
「そうね、他には――」
「いいや、予言はもうこれだけだ。みな、実来の予言は無視しなさい。何しろ未来は定まっておらず、絶えず変化し続ける」
老人は吹雪と実来の会話をさえぎった。その言葉を聞いて喰いついたのは下野だ。
「では、わたしが凪くんと結婚できる可能性もゼロではないということですわね?」
「そうなるな」
それを聞いて下野は満足そうに微笑んだ。まるで猫が遊び用のネズミを狩ったときのようだ。凪はそれを見て寒気を感じた。
「諦めなよ、下野千沙。翁はこう言ってるけど、小烏凪の結婚相手はもう決まっちゃってるも同じだもん」
「いいえ、わたし、諦めませんわ」
下野は凪を見て、男の表情が変わらないことに気が付くと傷ついた表情をした。
「今日はここで失礼させていただきますわ」
そう言って顔を俯かせてその場を離れた。
〈しおらしくしたって、どうせ予言の女を蹴散らすことしか考えてないわよ。あぁ嫌だ、お兄様、あんな人が義姉になるなんて吹雪は絶対に嫌よ〉
〈心配せずとも下野とは結婚しない。いい加減に静かにしなさい、吹雪〉
〈言質はとりましたからね〉
凪は頭の中から吹雪を追い出した。
「想い人と結ばれない若い美女ですか……いやぁよい小説になりそうだ」
多喜司が何事か考えをめぐらすように顎に手を当てた。実際、彼の頭の中では今後の印象操作のために、今の出来事が詳細に記録されているのだ。
「多喜司さんが書いてみたら? きっと面白い喜劇になると思うわ。大売れ間違いなしよ」
「わたくしめが書いたら出来が悪くなってしまいます。わたくしは尾ひれ背びれのついた魚を流すのがせいぜいですからね」
こうしちゃいられないとばかりに、多喜司は暇乞いをして人混みに消えていった。今聞いたばかりの凪に関する予言を、皆の間に広めに行くのだろう。
他人の予言を好き勝手にするなど品が無い、と凪は内心あきれた。これだから人間の多いところは嫌なのだ。
下野と多喜司が居なくなると、実来はさきほどまでとは打って変わって生き生きと話し始めた。
「ねぇねぇ、吹雪ちゃん。今日の会合が終わったら一緒にお話ししましょう。あたしたちとっても仲の良いお友達になるのよ」
「え? ちょ、ちょっと……」
吹雪の腕を取って身を寄せてくる実来に、吹雪は彼女にしては珍しいことにたじたじとなった。吹雪は周りを振り回すタイプで、振り回されることになれていないのだ。吹雪は前のめりになる実来から逃れようとのけぞり、スツールに座ることになった。少女は助けを求めて翁と兄を見た。
翁は頭が痛いとばかりに手を額に当てた。
「少しばかり時間をくれてやれ。それで実来も満足するだろうて。その後、付き合いを続けるかどうかは吹雪が決めなさい」
「わかりました」
実来は瞳を光らせて笑った。彼女の期待する未来が見えたのだ。吹雪ちゃんまた後でね、と言って実来は独りでふらふらとその場を離れて行ってしまった。
変な子だったわ、と吹雪は思った。あの子と仲良くなるだなんてとても想像できないけれど、一度くらいは遊んでやってもいいだろう。未来予知の能力を持つ術者と顔見知りになっておくのも悪くない。吹雪は強かに考えを巡らせるのだった。
トラブルと噂の種たちが去ったところで、ちょうど広間の扉の方で係の者が会合の参加者に呼びかける声が聞こえた。
「あぁ、ようやっと会合が始まるようだ」
「席に着くまでも長いし、着いてからも長いですが」
係の呼びかけを合図に、参加者たちは待合の場から会議をする部屋に移動し始めた。
ふいに吹雪がぴくりと反応した。そしてスツールからぴょんと降りると凪に言う。
「お姉様に呼ばれたわ。お兄様もよ」
「わかった。それでは水晶翁、御前失礼します」
「あぁ。また会議でな」
部屋を異動する凪と吹雪と入れ違いで翁の秘書がそばにやってくる。
「主君、参りましょうか」
「うむ」
秘書が歩く翁を支えようとした時、主の衣服に虫が付いていることに気が付いた。よく見ると、翁の袖を蜘蛛が這っている。
「主君、お袖に蜘蛛が」
「おや本当だ」
「私が捕りましょう」
「よいよい、これくらい自分で――あなや!」
翁が袖に手を伸ばした時だった。蜘蛛は素早い動きで翁の手を躱し、彼の皮膚を噛んだ。
「主君!」
「大事ない、騒ぐな。こやつ、小さいながらに噛みおったわ。逃がしてやろうと思うていたのに、驚いてつぶしてしまったではないか」
「なんという不届きものでしょう。主君、お手をお拭きします」
秘書が翁の手をとり、ハンカチで虫だった残骸と少量の血を拭った。
「妖の類でしょうか、蜘蛛が噛んでここまで血が出るだなんて」
「ふむ。おかしな未来は見えないが……。妖だとて、驚かせてしまっただけだろう。それより会議だ、今日は重要な議題だから、気をそらすわけにはいかん」
「わかりました」
そのしばらく後、百寄夜暁の定期集会は定刻通りに始まった。
議長を担当する術者が声を発した。
「今回の議題は、夏季繁忙期についての今年度の傾向と対策、及び担当区画の割り振りについてです。しかしその前に、卜占協会と未来予知者組合による合同の声明があります。今後我々の世界だけでなく現世にも影響する重要案件となるため、会議に先立ちまして時間を割くことになりました。二つの組織の代表として水晶の翁から説明があります」
水晶の翁が席から立ち上がり、朗々と響く声で話し始めた。凪は今日の会議が長引くことを予感した。
「我々未来を見る力を持つ者の多くが、ここ数か月にわたって同じ情景を捕捉し始めておる。東京近辺で非常に強力で恐ろしい妖が破壊の限りを尽くすというビジョンじゃ。幸い、事が起こるにはまだ数年の歳月がある。今から策を練れば被害を最小限に抑えることが出来るはず。今後、この問題に対処するために定期的に会合を開き、集まるようお願い申し上げる――」
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百寄夜暁の会議をしているホテルから少し離れた場所にあるビルの屋上で、安っぽい黒色のスーツを着た男が煙草を片手に佇んでいた。
男は空中から何かを手繰り寄せるような仕草をしている。手繰り寄せた先には何もない。男は煙草をふかした。
「俺の可愛い蟲がつぶされてしまったな。こっそり盗み聞きが出来るかと思ったのに……しかし、まぁ。いいさ、蟲は一匹だけじゃない」
そうつぶやいた男は、夏の陽炎に溶けるように消えてしまった。