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ぼくの物語  作者: 宇井
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ぼくの物語




 手が震えていた。どうしようもなく震えていた。僕はその震えを隠すために、拳をぎゅっと握った。目の前にいる岡本君が怖くてたまらなかった。恐怖にぼくの心は凍えてしまう。それでも、それでも、ぼくは進まないといけなかった。それでも、ぼくはやらなければいけなかった。どんなに怖くても、どんなに逃げ出したくても。

「やめろよ」

 声は震えていた。隠しようもなく、震えていた。

「なんだって?」

 岡本君がニヤニヤしている。岡本君に肩を組まれた吉田君はうつむきながらも、チラチラと僕を盗み見ていた。それはロボットのようにかくかくした動きで、変に目立った。二人を囲む、森君と井上君は岡本君の様子をうかがい、それから自信なさげにニヤニヤし始めた。

「やめろっていったんだ」

 今度は、震えてはいなかった。

「え? なにをやめろって?」

「岡本君がやってることだよ」

「だから、なに?」

「いじめ」

 いつもの昼のざわめきが消えた教室では、小声でもその言葉がすみずみまで届いてしまった。みんなが、息を潜めて、でも隠しきれない好奇心をもってぼくたちに注目していた。

「吉田君を殴るし、物を隠して、楽しんでる。これはいじめだよ」

「だったらなんなんだよ」

 吉田君を解放して、岡本君が一歩ぼくに近づいた。手を伸ばせば届く距離。つまり、殴られてしまう距離だ。ぼくは反射的に一歩さがりそうになったけど、踏みとどまった。早く逃げた方がいい、頭の中で警告音が鳴り響く。殴られ、ぼくがうずくまり、泣いている映像がそれと一緒に流れる。心臓がこの場から逃げようと、暴れ回り、痛みが走る。呼吸が浅く、息苦しい。ぼくはとんでもないことをやってしまったんじゃないかと泣きたくなった。

 岡本君のニヤニヤは消えていた。

「だ、だから、やめろっていってるんだ」

 自分で自分の首を絞めているのがわかった。だけど、止めようがなかった。坂道を転がる小石のように、ただ身を任せるしかなかった。

「は?」

「いじめをやめ……」

 胸になにかがぶつかった。なにがあったんだろう? 岡本君の顔が遠くなる。ジェットコースターにのっているみたいに落ちていく。気づけば、僕は床に倒れ込んでいた。岡本君がぼくを見下ろす。

「まじきもいんだよ。むかつくわ」

 倒れるぼくを蹴り上げる。何度も、何度も痛みなんか遠ざかるくらいに。みんながぼくを見て、みんながぼくを見ていない。時間が消えた。

 ようやくチャイムが鳴りだして、岡本君たちが離れていく。そのまま時間が止まってしまったかのようにぼくは動くことができなくなった。気が付くとぼくの目から涙がいくつもこぼれていた。ぼくに助けてもらった吉田君はぼくを置いて離れていく。

 ぼくは手のひらで涙をぬぐい、そのまま顔を覆いながら、自分の席に戻ったけれど、涙は止まることがなかった。それと一緒に鼻水と唾液があふれだし、手のひらがぐしょぐしょになった。小刻みに息を吸って、少しだけはいた。覆い尽くせない嗚咽が両手からもれているのがわかって、それを止めようと我慢すると、ちょっとのあいだはとまっても、すぐにこれまで以上に大きくなった音が、外にむかってにげだした。

 その痛みは胸の内側にあった。痛くて痛くて、それを癒そうと涙が流れているのかもしれない。だけど、あまりに痛すぎて、涙では癒せなかった。ぼくはひとり、その痛みに耐えていた。

 教室のドアが開く音が聞こえてきて、ぼくは小さく縮こまる。先生に気づかれて、みんなの前で「どうした?」って声をかけられたくなかった。そんなに恥ずかしくて、情けないことはない。

 だけど、死ぬほど恥ずかしいけど、死ぬほど情けないけど、気づいてほしいという気持ちが湧いてきて、それを抑えようとしてもどんどん大きくなっていった。ぼくは助けてほしかったんだ。先生にこの痛みから救ってくれる救世主になってほしかった。ぼくのとこに駆けつけてきて、なにも見えないこの暗闇からぼくを救い出し、「大丈夫?」って目をみて聞いてほしかった。その時のぼくの顔は、ぐしゃぐしゃで、ベタベタで、猿みたいにしわくちゃだと思う。それでも、きっとどこか満たされた顔をしていると思う。幸せを感じさせるようなそんな顔を。

 一度想像してしまうと、もうだめだった。痛みは強くなって、ぼくの泣く声は強くなった。

「今日は昨日の続きをするから。国語の教科書を出して60ページを開いて」

 一斉にパラパラとページがめくられる音が聞こえる。かき消されることのないぼくの泣き声が響く。

「作者は……」

 先生が話を続ける。自分が透明人間になったみたいだった。教室はいつもと変わらず、小声でぺちゃくちゃ話しをする声が聞こえ、鉛筆と紙がこすれる音が聞こえる。

ぼくは恐る恐る目を開けた。涙が光りをぼやけさせているのに、そんなことは感じさせないくらい光りは力強かった。ぼくは顔を上げた。ぼやけた先生がぼやけた黒板に、いみのわからない白い線を書いていた。先生が書く手を止め、ぼくらの方を見た。今書いたとこを手で指す。

「この問題がわかる人?」

 ぼくは目をぎゅっと閉じた。行き場を失い、押し出された涙が頬を伝う。目に入るもの全てがくっきりと見えた。先生の顔が見えた。先生がぼくに顔を向ける。目があった。心の中でつぶやいた。

「ぼくをみて」

 先生はみるみる顔を歪ませた。その目は汚いものを見た時のように嫌悪感でいっぱいだった。勘弁してよと言いたそうだった。先生はぼくから目をそらした。それから、違う子に目をむけ、笑顔になった。それは優しい笑顔だった。

「はい、阿部さん」

 涙はとまっていた。ぼくは気づいた。ぼくには優しくされる価値がないんだ。ぼくのことなんか先生はどうでもいい、それなのに気にかけてもらおうなんて、ぼくはなんて馬鹿だったんだろう。自分で自分を叩いてやりたかった。お前なんか、いてもいなくても、笑っていようと泣いていようと、どうでもいい。道端の雑草とおんなじだ。どうでもいいんだ。お母さんとお父さんを思えば、すぐわかるだろう。二人もぼくがどうなってもいいんだ。親からも見放されるぼくがなにを期待しているんだろう。

 ぼくはtシャツの胸の部分を使い、力を込め、顔をごしごしと拭いた。ぐちょぐちょは消えた。あとにはひりひりとした痛みと、つるりとすべる肌と、ぼくを押しつぶす圧倒的な悲しい気持ちが残った。


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