未来への希望の汽笛~東日本大震災と心のふるさと~
崩れ落ちた線路を目の当たりにして私は言葉を失った。涙も出なかった。思考回路停止。何秒か後、今ここにあるのは現実であるとわかった。映画やドラマのワンシーンではなく、本当に起こった事だと。生まれ育ったその土地はめちゃくちゃで、瓦礫が散乱していた。それを掘り起こしているブルトーザー。緑が美しく色に溢れていた活き活きとした景色は一変、灰色で土埃に覆われ低い空の下で沈んでいた。山を見上げると私の家が悲劇の中、奇跡的に存在していた。山肌に刺さった白いトラックがその位置まで海面が迫ったことを表している。NHKの朝のテレビ小説「あまちゃん」を観ていた方には伝わると思うが、地震が来た時に、駅長とユイちゃんが、さんてつの車内からトンネル越しに見た光景にあった家。正にその家がポツンと居た、我が家。嬉しさと悲しさと当然と思う気持ち。我が家は残るに決まっている。先祖が、三陸大津波の教訓の元にこの土地にこだわった、と父から口酸っぱく聞かされていたもの。小学生時分の私は、学校近くの平地に家を建てて欲しかったが、もしそうなっていたら家は津波に流されていただろう。間違いなく。
3月11日の2.3日前にも軽い地震があり、「またか」と母は思ったという。津波警報が出ても少し海面が上昇する位だろうと高を括っていたらしい。沿岸部に住む人間には誰にとっても、地震と津波はセットである。生まれた時から頭に叩き込まれている。が、実際に津波の経験がある人はごく少数だ。祖母が生前、明治29年の三陸大津波の話をしてくれたが、その時生きていた人はお亡くなりの方がほとんどだろう。津波の後の砂浜には、着物などの宝がいっぱい落ちていたそうだ。野生化した馬もそこかしこに走り回っていたという。2011年3月11日はそんな大惨事になるとは思いもせず、のんびりリビングから海を眺めていた。最初の津波の予報は6m。いまいちピンと来ない。しかし、予測できない事態に備えて非常時用に出来るだけ多くのお米を炊飯ジャーに満タンに炊いたらしい。高台にある自宅に大勢の人が避難してくるかも知れないためだ。黙って見物している訳にはいかない。後日、避難所から戻り見てみると黄色くカピカピになって残っていたらしいが。津波警報が出ているのだ。少しでも高い所に避難しようと、母は家の裏山を上った。
山にずんずん上って一息吐くと、父の姿が見えない事に気付いた。父の姿を求め、母は力の限り「父さーん」と叫んだ。普段は喧嘩ばかりでも、津波からは守りたかったらしい。父は近所に住む避難しない方々を説得し、誘導していた。体験したこともない巨大な津波。そんなもの経験したこともなく、津波警報が発令された今でさえ、本当に避難する必要があるのか怪しいものだ。この時点になっても、自分の身のすぐそばに迫り来る恐怖を想像出来なかったのだ。やっとの思いで、頑固でマイペースな隣人を何人か引き連れ、父は山にやってきた。この行動があったからこそ、近所から犠牲者が出ずに済んだ。キャンプで使った、ランタンやブルーシートを用意して、海を眺めていたら、スーッと一度波が引き海低が見えた。そしてすぐに、とてつもない大きな波が島越の街を飲み込んだ。あっという間のスピードで波は海岸から遠い松前地区までぐんぐん進んだ。どんどん大きくどす黒くその姿を変えながら。その時、避難した方の家族は「自分の父親は避難せず、流されただろう」と思っていたらしい。避難所で再会したときは泣いて喜んだ。
山の中腹で雪が降る中、寒さに震るえ肩を寄せ合っていた。その時間2.3時間か。あたりはほんのり薄暗くなってきた。すると自衛隊員がやって来た。「村のバスを用意しているから、そこまで歩きましょう。自分が誘導します。」津波の後の瓦礫の上を真っ暗な中、電灯の灯だけをたよりに、ぬかるみの中を無我夢中で歩を進めた。ここに水溜りがあるよ、とか釘が出ているよ、と皆で注意しあいながら。ただ一つ残された希望を信じて。そして、やっとの思いで村の用意したバスに乗り込んだ。バスで避難所に着くと、家族を待ちわびる人でごった返していた。バスが着く度に、再会出来た歓喜と、家族に会えなかった人の落胆の溜息。母は避難所に向かう時、自宅が存在するのに何故、避難所に行かなければならないか不思議だっだそうだ。ライフラインが無くなり島越の街は壊滅、という状態にあることが解っていなかったのだ。我が家だけが残っても生活は成り立たない。見慣れた日常は跡形もなく、さんてつの線路でさえもボロボロに崩れ落ちてしまったという現実に直面出来ずにいた。
津波から、命からがら逃げた私の家族は村の山側にある、母の実家に身を寄せていた。6世帯同居、大家族で自由はなかっただろう。でも避難所よりはずっと良かったはずだ。私は、盛岡市在住のいとこ家族と車で田野畑の母の実家へ向かった。水とバスタオルと食糧を届けた。この時、妹と抱き合ってわんわん泣いた。無事で良かった、生きていて良かった、と。その時の気持ちは決して忘れられない。東京の親戚は新幹線が使えず、三沢空港経由で物資を届けてくれた。感謝・感謝である。
その日夜には、盛岡市に戻り翌日からいつも通りの日常を送った。被災地を思うと、後ろめたさをかんじながら。とは言っても、岩手県庁の前の駐車場には自衛隊の車両がずらりと停まっていた。その姿は実に物々しく、事態の深刻さを物語っていた。県庁から沿岸の被災地へひっきりなしに出動していた。県庁の隣の岩手県公会堂は、自衛隊の災害対策本部になっていて絶えず自衛官が行きかっていた。国道106号線を沿岸部へ向かう車両を見るたびに、祈るような気持ちでいた。よろしくお願いします、頑張ってください、と。
空にはヘリコプター。ガソリン不足により、いつも通勤に使っている路線バスも不通。仕方なく、片道30分の職場へ往復歩いた。徒歩圏内で良かったと思った。スーパーも品薄状態。でも購入出来るだけ、沿岸部より幸せなのだ。大きいふわふわのパンにかぶり付きたい!とか、小分けの納豆を買いたい!とかよく思ったものだ。流通が滞っているのか、容器やビニールの原料がないのか。
食べたい物を食べ、熱いお風呂に入る。普通の毎日を送れることが幸せで、日常こそが尊い。同じ県でも2時間車を走らせると、着るものも食べるものもない。「被災3県」と一言で纏められると、違和感を感じていた。自分の役割りを淡々とこなし、無力さを思い知らされていた。人は大自然を前にすると何も出来なくてただ呆然と立ち尽くすのみだ。
ここに一枚の写真がある。私と妹二人と愛犬と4人で船に腰掛けて、楽しそうに穏やかに微笑んでいる。カメラの自動撮影機能を使ったものだ。24.5年前だと予測する。私は当時、東京で仕事をしていたのでお盆の帰省時だと思う。快晴だ。空気が澄み切っているのが写真からも伝わって来る。一番暑い時期を過ぎているのだろう。青いパーカーを羽織っている。そして、スニーカーと黒のキャップ。山も海もカモメも何も知らない。自分の身に何が起こるのか知らずに平和に澄ましている。島越漁協、島越番屋、堤防…電柱さえ愛おしい。その時、特に周りに注意を払わなかったけれど、今となっては非常に貴重な一枚である。
2018年12月29日
私は仕事納めをし、盛岡駅から宮古駅へと向かう106急行に乗り込む。盛岡駅で買った手土産と共に。宮古駅から、三陸鉄道でカルボナード島越駅へ。その日のうちに島越の実家に帰れるのだ。震災直後の、106バスも不通だった頃を考えると夢のようだと、ウキウキしながらさんてつに乗り込む。目的地はもうすぐだ。
車内は、いつも通り空いていてほとんど貸切状態。暖かくて、島越に近づいた安心感からか、ついウトウトしてしまった。「次はカルボナード島越、しまのこし~」車内アナウンスが流れた。荷物を持ち、切符を確認。忘れ物がないように。さんてつを降りたら、階段を下り、白い壁と水色の屋根のカルボナード島越駅の駅舎の横を通る。そんな光景が、頭の中には描かれていた。あったはずの街並み。駅舎、駐車場、堤防、その奥には夜の深い藍色の太平洋。すぐにハッと我に帰り、可笑しくてたまらなくなった。何年も以前に、全て失ったではないか。7年も前に流されて、今は新しい駅舎が建っているというのに。津波の後に、残ったのは階段5・6段と宮沢賢治の碑。雨にも負けず、津波にも負けなかったのだ。そこは今では復興公園になっている。自分を馬鹿だと思いながらも、涙を呑んで笑えた。
私が小学生の頃は、天気がいい日の体育の時間は海水浴に出かけたものだ。家からお昼ご飯のおにぎりを持参して。3.4時間目は海水浴で、家から持参したおにぎりを食べて解散。それがとても楽しくて、その日は学校に遊びに行くような気分で登校した。今日はピクニック、るんるん。台風の後の、波が高い日は格別。何しろ体が上下に揺れ、凪の日には味わえないスリルがあった。海上に浮かぶ、飛び込み台から飛び降りたり、潜ったり。繋いであるロープの、貝や海藻を採って遊んだりもした。
このころは、天候が良いと外遊びがほとんどで美しい鮮やかなピンク色のはまなすの花が咲き誇っていた。その脇に、カモメの死骸がありウジがわいていた光景は忘れ得ない。自然の節理。防波堤の上から砂浜に飛び降りて、度胸試しもしたものだ。その頃の、島越の子供達は皆、自然が遊び場だったのだ。
愛犬イーストが、散歩に行こうとねだる。「クゥーン、クゥーン。行こうよ、行こうよ」私は、リードを付け替えて町内を一周する。砂浜でモグラを咥え、戦利品自慢をするイースト。「どう?凄いでしょ?!」と言った感じだ。ギャーッと、驚いて飛び上がる私。それでも見せつけるイースト。車も乗り入れ出来、釣り人も多く訪れる開けた堤防ではリードを外し、自由に走らせた。もちろん、人がいなければの話だが。そして、黎明館という漁村センターの外の水道をお借りしてホースで水をたっぷり飲ませて短い旅は終わる。アスファルトの上を、犬が走る爪の音が澄み切った空気に響き渡っていた。散歩をする私達は観光船に乗っていかないかと、声を掛けられた事もある。犬を抱いて、と。乗客がいないま運行するのは空しいらしい。それだけ平和でのどかだったのだ。
1984年4月1日
三陸鉄道開通。私は、青いピアニカをホームで吹き鳴らし一番列車を迎えた。島越小学校の鼓笛隊が、演奏を披露した。自分の町に汽車が通る。三陸鉄道がやってくる。誇らしい気持ちと、ウキウキとワクワクが入り混じる。これに乗れば、どこへでも行ける。世界中どこへでも。線路は日本中に繋がっている。人々は皆ニコニコ顔で熱狂の中、喜びに溢れている。さんてつ沿線の人々は自分の鉄道という意識が強い。私は、何人かに訝しそうに訊かれた事がある。何故、鉄道なのか?バスでも良いではないか?と。その問いに、明確な答えを即座に返すことが出来ず、質問した相手は納得いかなかったようだが。さんてつの運転手さんは、乗客が走って来るのが見えると発車せずに待っていてくれる。それが日常であり、特別なことでは無かった。今になると、どんなに有難く貴重な事だったかが身に染みる。そんな良心的な鉄道は、全国でもあまりお目にかかれまい。お蔭で高校に3年間通えて、宮古市内の皮膚科にも行けた。登校前、凪の海面はキラキラと鏡のように光っていたものだ。行ってきます!と、両親と愛犬と、ピカピカの毎朝生まれたばかりのようにこの上なく美しい海に、元気よく挨拶していた。
三陸鉄道が開通した夏は、大勢の観光客で賑わった。砂浜が見えない程、人や車が溢れた。普段の夏とは違う人種がたくさん訪れて、私は少しソワソワしたものだ。そうだ!これを夏休みの自由研究の題材にしよう、と思った。母と、カルボナード島越駅の前の駐車場で、県外ナンバーの比率を調査したのだ。宮城、青森、やはり東北が多い。練馬、所沢、首都圏もちらほら。びっくりの神戸、大阪。なぜ西日本からここを選んで来てくれたのかと思い感謝の気持ちが湧いて来る。驚愕の福岡、佐賀。九州からどういうルートで来たのか当時の私には、もはや謎であった。全てさんてつ開業効果。母と、ナンバープレートを読み上げて、メモって行く。それを模造紙に棒グラフで表示した。夏休みが終わると教室の後ろの壁に張り出した。我ながら、なかなかいい出来だったと思う。
朝10時に砂浜のポールに白旗が昇ると、私はお気に入りのオレンジ色の水着を着て、家から走って海に飛び込む。準備運動は、走りながらするのだ。近所の人々は皆顔馴染みで、そんな姿を気にも留めない。いつも通り、朝収穫した昆布を干している。そのままジャッポーン!と少し冷たい海に飛び込んだ。島越の海水は、真夏の暑い日でもヒヤリとするのだ。真夏のじりじりとした太陽に照らされ、熱くなった砂浜で火傷しそうになっていた足の裏が一気に冷えて気持ちいい。12時に赤旗がポールに昇るとそのまま家に帰り、水着を脱いで一応干して昼食。1時に白旗になると、生乾きの水着を着て海へ直行。また、ジャッポーン!と飛び込む。海水は冷たく澄み切っている。4時に赤旗が昇り、今日も一日完泳。カルボナード島越駅構内の売店で、ソフトクリームを買うのがルーティーンだった。ある夏の日々の、甘い甘い大切な思い出。生ぬるい空気の中、ソフトクリームを食べながら、アスファルトからユラユラ立ち上る陽炎を眺めながら家路へ急いだ。
ドドドドドッ。船外機の音を響かせ、父が雲丹漁から戻って来る。夏の朝の風物詩。小学生の私は、祖母と母と妹と家族総出で浜迎え。海は凪。岸壁に道具置場があり、そこが我が家の陣地。登校前にその場で採れたてほやほやの朝食を食べるのだ。持参したホカホカ雑穀ごはんの上にかぜを山盛り。かぜの殻を割り、海水ですすぎながら内臓をピンセットで取り除いて貰い、スプーンでツルンとすくいそのまま頂く。夏と海の味である。見物していた観光客にも、よく振る舞ったものだ。全員が大感激した。島越の小学生のほとんどは、この日指先を紫色に染めていた。かぜの殻から付く独特の赤紫色だ。手を洗ってもなかなか落ちない。なんともいえない特有の匂いもした。この匂いのトラウマでカゼが苦手な友人がいたっけ。身がプリプリで新鮮なカゼを殻から頂く。この上なく贅沢な思い出である。
2011年3月11日14時46分。
揺れを感じた。ん!?長い、どんどん激しくなる。盛岡市内で仕事をしていた私は、スマートフォンのニュースを観る。ざわざわして、各々が情報を仕入れようとスマホを手にしている。いつものよくある地震と、様子が明らかに違う。只ならぬ雰囲気。緊張感が漂っていた。津波?どうせまた海面が2.3㎝上昇するくらいだろう。画面に、宮古市内の様子が映し出される。市内が水に浸かっている。宮古市役所が波にのまれている。高校生活で見慣れた風景。何が起こっているのか理解出来ない。間もなく停電になった。会社のパソコンも使えず、仕事にならないので終業。
帰途に着くが、通勤用に使っている路線バスは不通。仕方なく歩く。自宅そばの交差点では信号も消え、警官が交通整備をしていた。「渡りまーす!」と手を挙げて、横断歩道を歩く。夜ごはんはどうしよう。。。そうだ、近所のコンビニに寄ろうと思いつく。コンビ二の店内は、人で溢れていた。必死の思いで、スナック菓子を購入出来た。お腹に入ればなんでも良かった。店員さんは、懐中電灯と電卓で対応してくれた。この頃の私はお菓子の買い置きをしないようにしていた。非常時の食糧は蓄えて置くべきなのだと痛感した。マンションの自分の部屋に帰っても、気になるのは津波の事だった。相変わらず停電していて、テレビは観られず、スマホのワンセグで、情報収集した。電池はみるみる無くなっていった。この時期の盛岡市はまだまだ寒く、ダウンジャケットを着たままである。卓上コンロとカセットボンベ、インスタント・ラーメンがあったのを思い出し作って食べた。島越の実家が気になりつつ、何も出来る事はないので、そのまま就寝した。メイクも落とさずこたつにすっぽり入り、充電しておいていたウォークマンで音楽を聴きながら、不安と一緒に丸まって寝た。
翌日、スマートフォンの電源を恐る恐る入れると、家族は全員無事とのメールを確認した。そして、そのまま電源は落ちた。メールの文を信じるしかないのである。ほっとしたが、やはり、顔を見るまでは心から安心はできない。食糧を仕入れなければと思い立ち、近所のドラッグストアに出向いた。ここでもやはりレジは使えず、電卓で対応してくれていた。お店を開けてくれて、本当に有難かった。その帰り道、友達がお父さんと車で様子を見に来てくれた。安心して緊張の糸が緩み、涙が溢れた。そのまま車でお蕎麦屋さんに連れて行ってくれ、美味しい温かい蕎麦を御馳走してくれた。一生忘れる事の出来ない、世界一の蕎麦だった。友達のマンションでお風呂も頂き、私が住んでいる地区でライフラインが復旧していることを確認した。自室に帰り、テレビを点けると、見た事もない光景が映っていた。出演者は皆黒い衣装で、笑顔はない。ただ淡々と、事実のみを伝えていた。それまで各地の惨状を知る術もなく、ここまで酷いとは思わなかった。酷いという言葉では表せない、表すべきではないと思える程の惨状。津波は想像よりもはるかに広範囲で原発にも被害があり、メルトダウンが起こっていた。東日本はめちゃくちゃで、日本はもう立ち上がれないのではないかと思った。私は、3月19日に名古屋であるコンサートのチケットを買っていて、飛行機・ホテルの予約もしていた。お気楽なもので、楽しみで仕方なかったが諦めるしかない。Wショックで、幽霊のように生気のない一週間を過ごした。私はコンサートには行けなかったが、NE-YOは日本に多大な支援をしてくれた。色々な俳優、歌手からの義援金や募金、有名人だけでなく一般の方も、世界中の国からたくさんの愛を頂いて復興出来た。心から感謝する。本当に本当に、ありがとうございました。
改めて愛が一番大事だと痛感出来た。
震災後、何度も何度も文章を書こうと試みた。しかし、書きたいことがあり過ぎて涙が出てくる。ただセンチメンタルなだけの、回顧録になってしまう。いつかは書きたい。忘れてしまわぬよう、書き留めて置かなければ。決して忘れない島越の思い出と、震災の記録を。胸の奥深くの湧き上がるマグマを感じながらも、どこから手を付けてよいかわからずに月日は流れた。
ある日の夕方のニュースで、陸前高田の女性が震災時の事を語っていた。彼女は、津波の記憶を思い出すとあの日・あの時に戻ってしまうと涙ぐんでいた。そうなのだ、誰しもが言葉に出来ない辛い想いを抱えて生きているのだ。震災について語るとき、涙が流れない日はきっと来ないだろう。私は書かなければならない。私にしか書けない。そうしないと必ず後悔する。書くことが絶対必要だ。使命感、という言葉が一番ピッタリくる。
2020年7月23日現在、新型コロナの感染者が岩手県はゼロ人である。検査数が少ないとか色々言われているが、結果感染者がいないのだ。世界的にも注目されているらしいが、震災で大きな被害を出し、新型コロナの感染者0。世界のバランスか、不思議な巡りあわせか。岩手県人は危機管理能力が高いのだ。震災を乗り越え、命に対する考えが180度変化し、自分の身は自分で守るという意識が、真面目に行動に反映されているのだと思う。素晴らしいではないか。
2019年2月1日。
私は渋谷にいた。「復興の道しるべ」と題された映画を観るためだ。震災で、壊滅的な被害を受けた三陸鉄道・カルボナード島越駅の線路を防潮堤も兼ねた強靭な線路へと作り直してくれた東急建設さんのお招きだ。会場は渋谷ストリーム、最新の施設だ。出席者は震災当時のさんてつの社長・望月さんや東急建設のお偉い方々。恐縮しながらも、スーツを着て来て良かった、と思った。足元はブーツで失礼したが。
線路を、作り直すというよりも一から作り替えてくれた。何よりも強く、そして迅速に。私は、線路建設中の3年間をほとんど知らない。お盆と正月に眺めたくらいだ。島越に住む両親は毎日、進捗状況を見守っていた。例えるなら、生まれたての孫の成長を見守る祖父母か。日々、振動や騒音に耐えていたのだから完成時の感激はひとしおだっただろう。なにしろ、自宅の庭のようなものなのだ。さんてつの汽笛が母のタイムテーブルで、時計代わりみたいだ。朝の一番列車は起床の合図であり、十一時台の汽笛がお昼ご飯の支度に取り掛かる合図、一時台の汽車には旗振りに出、六時で家のカーテンを閉めて一日終了。朝一番の汽車は、我が家のカーテンが閉まっていると運転手さんが控えめに汽笛を鳴らしてくれるらしい。勝手に優しさを感じているようだ。
映画は、素晴らしすぎて観終わってから感動でじーんとしてしまった。後から、スタンディングオベーションすべきだったと少し後悔した。新しい線路と駅舎。これから新章の幕開けだ。
2014年4月6日。
三陸鉄道「通称・さんてつ」全線開通。さんてつが帰ってくる!
私は、盛岡市から田野畑村島越の実家に帰省した。夜の移動にもかかわらず、家にはマスコミの姿があった。面倒くさいなぁと、感じつつ、復興のシンボルであるさんてつに協力できるならば、何でもしようと思い直した。津波の被害を受けなかった、島越駅付近の唯一の家。一軒残った宿命である。天啓といったら、いささかおおげさかしら。
翌日は、早朝から物凄いマスコミの数だった。その雑音と、見知らぬ人の声に起こされた。我が家はお手製の看板と、手旗でさんてつをお出迎え。看板には、父の力強い毛筆で「祝・全線開通」と書かれておりその周りは紙で作った花で飾られている。手作り感満載で、愛情たっぷりである。その看板をベランダに掲げ、手旗を持ち一番列車を迎えた。ボーッと汽笛が鳴って、さんてつが姿を現す。私は感激の涙を堪えた。母は泣いた。予想通り。絶対泣くと思っていた。さんてつが不通だった期間も、汽笛の幻聴を聴いていた母だもの。想いの重さが違う。カシャカシャカシャと、カメラのシャッターが切られる。記者会見みたいだと思ってしまった。泣くシーンを撮り逃がすまいと必死である。
近隣の住民は、大漁旗を振り駅周辺は笑顔で溢れていた。あまちゃんの車掌・杉本哲太さんと、荒川良々さんもさんてつに乗車して盛り上げてくれた。田野畑駅では、多大な支援を頂いたクエート国の大使と、天使のスマイルのピンクスーツ・藤原紀香さんが下車。宮古駅から乗車し、さんてつの旅を楽しんでくれたのだ。世界中の人々が祝ってくれているように感じた。さんてつが、この活気と笑顔を未来へ運んでくれると心から信じている。
2020年7月23日 海の日に、海への大きな愛を込めて。




