さよなら始まりの街
ヤドヤド亭の一番安い部屋に泊まって翌日。
俺は小林が起きてくるのを待って、飲食店の方でパンをかじっていた。
ちなみに、その一晩は異世界転生幻想をすべてぶち壊すような劣悪な体験だった。
トイレはくみ取り式でえげつない悪臭だった。
気温がそれなりにあるのでアルコール混じりの排泄物が発酵してこの世の物とは思えない匂いだった。
というか、くみ取り式だけマシだったと思うべきだろう。
トイレなどと言う文明的な物がなくそこらの地面に排泄するのが当たり前というのがありえそうな世界だ、この異世界は。
そして、そのトイレの隣……いや、トイレなどと言うカタカナを使うのも何か違う気がする存在、やはりここは便所というのがニュアンス的にもぴったりだ。
そして、その便所の隣が俺の部屋であり、扉を閉めても隙間があるので当然そのえげつない匂いが部屋に侵入してくる。
今の俺の衣類と荷物にはそのえげつない匂いが染みついているに違いない。
あの呪いのせいで女の子と旅ができる状態ではないが、ある意味よかったかもしれない。
美少女にこの匂いを嗅がれて「臭い」とか言われたらトラウマ級の黒歴史になるに違いない。
そういえば、あのトイレットペーパー代わりの変な草は最悪だった。
ささくれ立っていて肌触り最悪で、その上あまり拭き取った気がしない。
まさかトイレだけでこんな最悪な気分になるとは思わなかった。
今思えば、あのトイレットペーパーという奴は神が我々人類に与えた至高の秘宝であったに違いない。
ああ、はやくトイレットペーパーのある世界に帰りたい。
そして、隣が便所なものだから、寝ようとしていると遮音性皆無な便所からすべての音が生々しく聞こえてくる。
文字で表現するならブリュブ……いや、よそう。
そして、酒を飲み過ぎた男が吐く音に、踏ん張りながらうめく野太いうめき声。
さらには、機密性が悪くて隙間風が吹き抜けていくし、毛布は変なシミがついていてやっぱり臭いし、敷き布団はスカスカで底付きがして腰が痛いし、とても疲れがとれた気がしない。
さらにはさらには、泥酔したおっさんが部屋を間違って入ってきて勢いよく布団に横たわろうとして潰されたりして、あぁ、もぉ。
「ふわ~あ、よく寝れたかー?」
小林があくびをしながら現れた。
「寝れるわけないだろ!? お前、分かっててそっちの部屋を取ったな!」
そう、小林も安い部屋を取ったが便所の隣は慎重に避けたのだ。
「まぁまぁ、怒るな。これが通過儀礼という奴だ」
「ざけんな! 俺は清潔好きな日本人なんだぞ! 耐えられるかこんなの!」
「大丈夫だ。二週間ぐらいでなれるって」
「なれたくねぇ……」
小林も俺の向かいに座って、とてもまずそうにパンをかじり始める。
人がこんなにまずそうな顔をして飯を食べるところは初めて見る気がする。
周りを見ても「いやぁ、おいしいなぁ」なんて顔をしている奴は一人も居ない。
まぁ、パンの話はどうでもいい。
改めて、小林を見た。
俺と同じぐらいの年齢の普通の日本人のようだが、随分とこの世界には慣れているようだ。
「んー、そういえば、お前っていつここに来たんだ? 年齢俺と同じくらいだろ?」
「あぁ。高2だ。ここに来たのは三ヶ月くらい前かな」
「同じ学年だな……。でも、三ヶ月!? 三ヶ月もこのクソな異世界に!? でも逆に三ヶ月とは思えない溶け込み方だな。やっぱり、他の街にも行ったのか?」
すると小林は首を振った。
「まさか。一応体育会系だからそこそこ体力はあるけど、お前みたいに魔王を倒さないといけないわけじゃないんだから、そんな無駄なことしねーよ」
「そういや、BL展開だっけ……」
さらにパンがまずくなった。
「あぁ、この街の中で男の娘を探しつつ、そこらの動物を狩って日銭を稼いでいるだけだ」
「その言葉を聞くと変態の中の変態としか聞こえないな」
「あのな……俺だってつらいんだぜ……」
小林の顔がさらにまずそうになる。
もはやすっぱいパンを食べる拷問を受けているみたいに見える。
「まぁ、いいじゃないか、お前は男の娘を見つけてBL展開をすればその腐女子な女神も満足して帰れるんだろ。問題は俺だよ。どうやって魔王を倒せばいいんだよ。ってか、確かに俺の呪いで男の娘は探せるかもしれないけど、見つかったらそれでお前は目的達成で日本に帰っちまうんだろ? ちょっと不公平じゃないか?」
「ん~そいつは考えていなかったな。たしかにな~、そりゃ不義理ってもんだ。まぁ、お前にしばらく協力するよ」
「そうしてもらわなきゃ困る。で、俺も日銭を稼がないといけないんだが……」
「まて、お前ここに飛んでくるときどういう荷物を持ってきた?」
「実はあんまりちゃんと見てないんだが……まぁあの銀髪野郎のことだ、たいしたものはないだろうが」
手持ちの鞄を開けてみる。
・ぼろ布
・ぼろ布
・ぼろ布
・ぼろ布
「……酷くないか?」
「あぁ、これは酷いな……。たしかにぼろ布はタオル代わりとかいろいろ使うけど、一束いくらの安物だぞ」
さらに物を取り出していく。
・風呂敷
・わらじ
「わらじ!? おい、世界観どうなってる!?」
机の下をのぞき込むと小林は革靴を履いている。
自分はトラックに轢かれたときに履いていたスポーツシューズのままだ。
服装はぼろ服にチェンジしたが、靴だけはそのままだったようだ。
なんと適当な。
「江戸時代のイメージだな」
小林が無感動に突っ込む。
「わらじ……わらじなぁ」
「別にその靴のままでいいと思うぞ。動きやすいし。俺は途中で穴が空いたから仕方なくここの革靴を履いているだけだ。正直、この世界の革靴なんてあんまり履き心地良くないぜ」
「うーん、風呂敷とわらじねぇ」
さらに鞄の中から物を取り出す。
・財布
「あ、これ俺が持っていた財布だ。中身は……」
日本円がそのまま入っていた。
「おいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃ!?!?!? 何考えとんじゃ、あの腐れ銀髪は!? あ!? もしかしてこの世界は日本円が流通して……」
「そんなわけないだろ」
「おいいいいいぃぃぃぃ!! んじゃなにか、俺の全財産はぼろ布と風呂敷とわらじだけか!?」
「みたいだな。気の毒に」
「ふっざけんなぁ!!!」
チートなし・魔法なし・レベルアップなし・スキルなし・あらゆるポイントなし・wikipediaなし・奴隷なし・50才以下の女性は接近禁止・所持金ゼロスタート。
あまりに酷すぎる。
騒いでいると、となりで不機嫌そうにスープをすすっていたおっさんににらまれたので、音量を下げる。
「いや、ひどくない……?」
「たしかにお前の担当者は酷いな……。あの腐れ女神ですら多少の金を持たせてくれたぞ」
小林がげんなりした顔で、またまずそうにスープをすする。
恐ろしいことにスープまでまずいのだ。
「なぁ、小林、金貸してくれ……」
「分かってるよ。今更そんなけちくさいこといわねぇよ」
「ありがたい。日本に帰ったら恩返しを……あれ、どこの人? 東京?」
「いや、群馬だ」
「群馬!? あの暴力が支配するグンマー……」
「やめろ。そのネタはもう飽きている」
小林がひらひらと手を振った。
きっとネットでグンマーネタを見る度に、「またかよ」とうんざりしてたんだろう。
「で、桃山は?」
「栃木なんだけど」
言うて、自分も地方民である。
「栃木か……。ま、一応隣の県だな。うーん」
小林はそう言っただけで黙り込んだ。
隣県とは言え、お互いにお互いの土地について知識がないので、全く話が広がらない。
「お互いローカルだな。なんとなくこういう所に来るのは都市圏の人間だと思ったんだけど」
「俺もだ」
「……話を変えよう。よし、とりあえず俺も日銭を稼がないとな。冒険者ギルドはどこにあるんだ?」
すると小林は首をかしげた。
「ギルド? そんなもの、聞いたことないぞ」
ちょっと待ってくれ。
それは異世界転生モノで致命的すぎる!!
「え゛え゛!? 異世界ってのはだいたい冒険者ギルドがあるものなんじゃないの!?」
「だって俺は見たことないぞ」
「んじゃ、どうやって仕事受けてるんだよ!?」
「普通に街の掲示板に求人があるから、そこから行ってる」
「おい、ちょっと待て。なんかそれって……ただの日雇いの労働じゃないか?」
「あぁ」
小林が全く否定せずに頷く。
いや、否定してくれよ。
「ま、まぁ、日雇いだろうがなんだろうが、とにかくモンスター退治な。とりあえず、俺はスライム……」
と思いついたが、どうせこの世界のことだ、スライムですら強かったりしそうだ。
無難に行くべきだろう。
「うん、俺は安全を見て薬草採集から始めようと思う。これなら安全だし、異世界転生モノなら定番だろう」
すると小林はまた首をかしげた。
「薬草採集? そんな仕事ないと思うぞ。ってか、お前、薬草で体力回復とかないぞこの世界」
「はぁっ!? じゃあ、どうやって怪我したときに回復するんだよ!?」
「そりゃ医者にかかるしかないけど、どうも信用ならないんだよなぁ。中世レベルの遅れた医療って感じだから、俺は絶対にかからないね」
「じゃ、じゃあ、魔物に襲われて怪我したらどうするんだよ!?」
「だから怪我しないようにするしかないだろ。しょうがないんだよ、そういう世界なんだよ、ここは」
「おいおいおいおいおい!!! おいいいいいいいいい!!」
チートなし・魔法なし・レベルアップなし・スキルなし・あらゆるポイントなし・wikipediaなし・奴隷なし・50才以下の女性は接近禁止・所持金ゼロスタート・回復手段なし。
「じゃ、じゃあ、お前は最初はどうやって日銭を稼いでたんだ? まさか最初から魔物を倒してたわけじゃないだろ!?」
「あぁ。芋掘りをしてた」
「芋掘り!?」
「この辺り、農家が多くてな。収穫期になると日雇いの求人が結構出るんだ」
「いや、芋掘りって……」
異世界に来て芋掘りをして日雇い労働とかめっちゃ夢がないんですけど。
しかも、かわいい女の子もいないし。
「い、芋掘りは止めよう。ここは異世界だぜ!? お前が出来るんだから、俺だって魔物を倒してやる! お前、昨日はどんな魔物を倒したんだ!?」
「あ、それを聞くか? どうせがっかりするだろうけど、カメだ」
「カメ!?」
RPGに出てくるような巨大なカメが脳裏に浮かんだ。
人の何倍もあるようなカメなら、確かに魔物と言える。
「動きは遅そうだが、防御力はすごいんだろうな。よく倒せたな」
「ん、たぶんお前は勘違いしている。普通のカメのサイズだぞ」
「はぁ!?」
「この世界の魔物って言うのは、凶暴化した動物のことだ」
「え、なんかめちゃくちゃ巨大だったり、三ツ目だったりはしないわけ?」
「もしかしたら居るかもしれないが、俺が見たのはカメとかウサギだぞ」
「いや、凶暴化したウサギを魔物扱いされても、ちょっとどうかと思うけど……」
すると、小林が顔をしかめた。
「あのな、結構危ないんだぞ。俺が倒しているカメってのはやたら凶暴で、農作物の根っこをかみまくるんだ。意外とすばしこくて飛び跳ねてきてかみついてくるから、鎧を着てないと腕の肉を食いちぎられる」
「え……それ普通に危ないな。飛び跳ねて噛みついてくる!? 魔物という名称が適切かどうかは置いておいて、めっちゃ怖いじゃん」
「危ないよ。だからちょっと報酬がいいんだよ。すばしっこくて甲羅もあるから、案外大変なんだぜ。狙い澄まして金槌でぶったたいて潰すんだが、これがなかなか当たらない」
こう話を聞いていると、カメとはいえ戦うとなると大変そうだ。
しかし、異世界まできてカメを金槌で叩く討伐とかちょっとロマンがなさ過ぎる。
「なんだよ、お前相当に不満そうだな」
「当たり前だろ……。チートなし・魔法なし・レベルアップなし・スキルなし・あらゆるポイントなし・wikipediaなし・奴隷なし・50才以下の女性は接近禁止・所持金ゼロスタート・回復手段なし。劣悪な便所にまずい食事、その上に討伐ですらそのレベルって、なにを楽しみにすればいいんだ」
「だからよ。日本に帰るのを楽しみにしてるんだよ」
小林がきっぱりと言い切った。
「あぁ、なるほど……なるほどな。よし、俺も早く日本に帰って、俺TUEEEでチートでハーレムな作品を読んで楽しむか。というか、俺この酸っぱいパンもういやだ」
「たった二日でそんな弱音を言うな。俺なんてこれを三ヶ月も食べ続けてるんだ。ここの主食はこれしかないんだから」
「ぢぐじょー……」
これだけ長話をしているのに、パンが固くてまずいので食事が進まず未だに食べ切れていない。
血糖値の急上昇が抑えられて健康にはいいかもしれないが、精神的には不健康極まりない。
俺は高血糖の治療のためにこの世界に来ているわけではない。
「とりあえず、掲示板を見に行って仕事を探すか。まぁ、なんかあるだろ。なけりゃ芋掘りだな」
「あぁ、そうだな……」
なんとかパンを食べ終わって会計し、俺と小林は掲示板とやらに向かって歩き出した。
街の中は当然のように男だらけで、遠くにチラリと見える女性も勝手に脇道に逸れていく。
これは昨日と同じ光景だ。
しかし、どうも街の様子がおかしい。
「ん、なんか騒がしいな? なにかあったのかな」
「さぁ? 俺もこんな様子は初めて見る」
人々が眉をひそめて立ち話をしていたり、ざわついていたりして、なにか不穏な空気が漂っている。
街の中心部まで来ると、木の板で作られた粗末な掲示板には確かに紙がたくさん貼られていた。
「おお、これか……芋掘り……これか。というか、異世界なのに言語は通じるんだな。日本語じゃないのに話せるし文字は読めるし」
「あぁ」
「で、これが土嚢作りに木材の運搬……に、肉体労働系ばかりじゃないか。もっとなにか楽そうなのないか? あ、機織り機の修理……いや無理だし」
「おい、あれみろよ」
小林が掲示板の中央に貼ってある紙を指さす。
-通りに出た大勢の女達が体調を崩す事例が発生した。毒物の使用・未知の病の流行が疑われる。心当たりのある物は速やかに届けられたし。
「あれ……まさか……」
考え直してみれば……通りに居るかわいい女の子を全部体調不良にするとか、普通にやばい事案だ。
「や、やばいぞ。ばれたらお尋ね者だ……」
小林が取り乱す。
3ヶ月ここにいる小林が慌てていると言うことは、やっぱり本当にまずいのだろう。
「い、いや、俺悪くないし! お、お前がやるって言い出したんだからな!? わ、わかってるな!?」
「そういう問題じゃねぇ! もしばれたら何をされるか分からない……。仕方ない、隣町に行こう」
「まじ!? お前、行ったことないんだろ? 大丈夫か!?」
「大丈夫じゃないけど、そうするしかないだろ! 昨日のあれ、絶対誰かに見られてるぞ」
昨日の様子を思い出す。
小林が先に街中を駆け回り、気に入った少女を見つけて俺を手招きする。
俺が近づいていくと少女が具合悪くなって小林が手でバッテンをするので、俺は進むのを止めて戻っていく。
うん、普通に周りに見られてたな。
あいつらなにやってんだ、的な目で見ていた通行人もいた気がする。
「そうだな、逃げるか」
「よし」
ということで、異世界到着の翌日に俺と小林は最初の街を逃げ出したのだった。
本当に転生モノの楽しい要素が一切無い!
すがすがしいほどに何もない!