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歴史を変えて未来を救う⁈僕たち歴史変えちまい隊

僕は決して充実などはしていなかった。毎日の暮らしにこれっぽっちも満足なんてしていなかった。僕は知っている。そう、知っているんだ。どうして自分がこうも惨めになっているのかを。スズメがチュンチョコ鳴く声が聞こえてくる。もう朝だというのに、僕はいったい何をしている!あの苦しみはなんだったんだ?あの血へどを吐くような努力はどこいった?そしてつかんだ栄光!僕は就職出来たんだ!希望を胸に、僕は社会人として歩き始めたところだった!…歩いているはずの僕は今、何処にいる?部屋だ…。実家の自分の部屋の布団の中で寝腐っている。そう、まさに腐れかけている。栄光をつかんだ僕がどうして腐るんだ!なぜだ、なぜなんだー!

「朝ごはんよー!降りてきなさーい!」

僕は静かに布団から抜け出すと、丁寧に布団をたたみ、押入れにしまった。そしてやはり静かにパジャマを脱ぎ、ちゃんとした服を着た。

「卵焼けたから、降りてきなさーい!」

僕は静かに階段を降り、トイレや洗顔などを済ませて食卓についた。

「おはようございます。」

「はい、おはようございます。今日の課題は分かってるわね?散歩。1時間のお散歩。ごはんを食べたら歩いてきなさい。朝の空気を吸うとさっぱりするから。」

僕は静かに頷くと、みそ汁を飲んだ。


夏の終わりの香りがした。玄関を出た僕は自然と深呼吸をしていた。やはり、外の空気は気持ちが良い。日光を浴びればきっと、僕は腐りきらずにすむことだろう。

都会でもなく、かといって田舎でもない僕の産まれた町は、なぜだか公園の数が半端なく多い。そのためだろうか、昼間から散歩にいそしむ人々が多く見られ、僕は特段目立つことも無かった。ふと、キンモクセイの香りがどこからともなく漂ってきた。僕は静かに香りを楽しみ、キンモクセイの木のある公園を探し歩いた。オレンジ色の小さな花をたっぷりと咲かせたキンモクセイが風に揺れ、自身から発せられる香りを町中に漂わせている。僕はその木の下にひっそりと立っていた。

「ねえ君さあ、ギンモクセイって知ってる?」

いつの間にか隣に立っていた、若い男が急に僕に話しかけてきた。なぜかニヤついている。

そのとき僕は、静かに、仕事を上手くこなせなかった自分、そしてついには辞めてしまった自分の愚かさを嘆いていたところであったため、上手く返事が出来なかった。

「やっぱり知らないだろう?キンモクセイが有名だもんなぁ〜。ギンモクセイもなかなかやるんだけど、みんなキンモクセイばっかりありがたがっちゃってね。ところで君、今無職?」

僕は静かにその男を観察した。チャラけた服装もニヤニヤした顔も何もかもが怪しい。

「いやぁ〜、近ごろの人材不足はあれだね、日本を滅ぼすね、いやマジで。てなわけで、君、今無職?」

僕は無職と二回も言われたことによるダメージに静かに打ちのめされていた。そしてゆっくりと頷いた。僕は哀しきかな、嘘をつけない男であった。

「やっぱり!いやー、君のようなベストマッチな人材がコロッと転がってるなんてさ、感謝しか無いね。おほん。君、今からうちのところで働きなさい!大丈夫大丈夫、とっても良いことしてるんでうち。さあ、善は急がなければ、はい、行こ!」

男は僕の腕をかなり強くむんずとつかみ、歩き始めた。非力な僕は男にズルズルと、なかば引きずられるように歩いた。腕が痛い。ほんと痛い。

「あ、あのぅ。腕が痛いです。」

「ああ、ごめんごめん!ちょっと興奮しちゃった!数々の修羅場をくぐり抜けて来た俺ともあろう者が!ごめんごめん!めんごめんご!さあ、こっちだ、ついて来たまえ!」

男はさっそうと歩き出した。僕は男の後をつい、追っていた。追いたくなる背中だったのだから仕方がない。不安や迷いのいっさい無い、自信に溢れたその背中に僕はすがりつきたかった。

それから30分ほど歩いただろうか。男は、ある古びた建物の前で立ち止まり、くるりと僕の方を向いた。「さあ着いた。ここが俺たちの職場。まあ、ぱっとしないけどさ、職場なんてこんなもんしょ。よしいくぞーなんつって。」

男はよっこらせとガタついたドアを開け、中に入っていった。僕も男の後に続いた。

ドアの中はひんやりとしており、古いカビたような建物の匂いと電気の焦げたような匂いがしていた。僕は男の後を追いながらところどころに貼られた紙の文字を目で追っていた「今日から変えよう!日本の歴史!」「偶然が一番の宝物!見逃すなかれ!」「正義なんて嘘っぱち!己れを信じよ!」力強く書かれてはいるが、僕はいまいち分からなかった。正義は嘘っぱちってどういうことだろう?

僕があれこれ考えている間に、男はあるドアの前で立ち止まり、リズム良く4回ノックした。

「今入ってOKすか?」

男の質問に中の男が答える。

「ああ、大丈夫だ。さっさと入れ入れ。」

男はドアをよっこらせと開け、僕に先に入るように促した。僕は戸惑いながらも中に入った。

はじめに目についたのは、大きな機械である。

「ん?君はだれだい?」

ドアのすぐ横に男が座っていた。

「俺がスカウトしてきたんすよう!なかなかいけそうじゃないすか?あ、そうそう、忘れてた。君、なんて名前?」

知らない男2人に挟まれた僕は一瞬ひるんだが、負けてはいけないと声を張り上げたつもりだった。しかし、実際の僕の声は蚊の鳴くように小さく、おまけに滑舌が最高に悪かった。ごにょごにょと自分でもよくわからない言葉が僕の口から発せられた。

沈黙が訪れた。僕は恥ずかしさのあまり血が顔に集結し、自分の顔がみるみる赤く変わっていくのを感じた。

「あ、そうそう、忘れてた。俺、イマイっていうんで、よろしく。こっちの不機嫌そうなお方はコトブキさん。ちなみに漢字はこうね。」

イマイさんはコトブキさんの机の上に置いてあるメモ帳から一枚紙を破りとると、「今井」「寿」と書いた。その文字は意外にも綺麗であった。

「そんで、もう一回頼むよ。君の名は?ってふへへ、映画のタイトルやないかーい!」

今井さんは楽しそうに自らの言葉にウケていた。僕はというと、徐々に落ち着きを取り戻し、気負わずに自己紹介をすることが出来た。

「後藤です。後藤俊治です。」

「へー後藤俊治くんかー。じゃあ…うーむ。まあ、シュンちゃんで。よろしくシュンちゃん!俺は今井だよ〜!今がいいならそれでいいの今井〜!」

シュンちゃんか…ちゃん付けで呼ばれるなんて。僕はまたもや恥ずかしくなり、下を向いて無意味に指の運動をした。

「さっそくだが、今井とシュンちゃん。仕事だ。」

寿さんは椅子から立ち上がると、例の巨大な機械の前まで歩き、なにやら操作を始めた。

「えー!今からっすか?ええー。まあ、シュンちゃんがいるし。なんとかやるか。よし!シュンちゃん!着替えるぞ、ほらほら早く早く!寿さんは短気だからね!」

僕は今井さんにまたもやむんずと腕をつかまれ、部屋から廊下へと移動した。やはり痛い。

僕は今井さんの強じんな握力から逃れようともがきながら、着替えるという今井さんの言葉に疑問を持った。

「着替えるって、今の服ではダメなんですか?」

今井さんは僕の服を見ると、渋い顔をした。

「当たり前だのクラッカーだよシュンちゃん。そんな格好じゃあ潜入とか潜伏とか出来ないだろう?まあ、そんなことほぼしないけど。とにかく君の格好では目立ちすぎる。俺たちはボロ布をまとう必要がある!そう!クソボロ布を身にまとい、どこに行こうともなじむようにしなくてはね!」

僕は今井さんの説明を聞いても理解が出来なかった。クソボロ布がなじむとも到底思えなかった。


「今井でーす!で、こっちがシュンちゃんでーす!2人分よろしくっすー渡部さん。あ、今日もいちだんとお綺麗で。麗しくあらせられまーす。」

今井さんは90度にお辞儀をし、満面の笑みを浮かべた。

渡部さんは、ドアに背を向けるかたちで座っていた。髪のキレイな女の人だ。

「あ、シュンちゃんね。渡部です。よろしく。2人分ね。はいよ。」

今井さんの言った通りに美しい渡部さんは、僕を数秒観察すると、カツカツとハイヒールを鳴らしながら、部屋の隅に置いてあるダンボールに近づき、なにやら汚らしい布を取り出すと、僕と今井さんに向かって投げてきた。そしてまたなにやら汚らしい黒いカツラを投げてきた。

今井さんはニコニコとそれらの汚らしい物たちを拾うと、敬礼のポーズをとりながら、元気よくお礼を言った。

「ありがとう渡部さん!マジ感謝っすー!それでは今井、そしてシュンちゃん、行ってまいりまーす!」

渡部さんは無言で片手をあげ、今井さんに応えた。


渡部さんの部屋を出ると、今井さんはすぐ着替えに取りかかり始めた。

「ほら早くシュンちゃん!サクッと着替えちゃおう!寿さんに怒られちゃうからね。」

今井さんは手慣れた様子でもうカツラまで被っている。僕もシャツのボタンに手間どりながらも急いでボロ布を着て、汚らしいカツラを被った。あれ?以外と臭くない、むしろ清楚な香りがする。

「よし!いくぞー!なんつって。」

今井さんは早足で寿さんのもとへ急いだ。そして僕も

後を追った。


「今井とシュンちゃん準備完了っすー!」

寿さんは僕を見て頷くと、僕の肩を励ますように叩いた。

「ほらあれだ…悩むならやってしまった方が楽だったってことだ。やってしまえば、大抵上手くいくからな。うん。」

「そうそう!上手く転がってくからへっちゃらだよシュンちゃん!へのかっぱってやつ!」

今井さんも僕の背中を励ますように叩いた。

「さあ、時間だ。今日はきっかり1時間。今井、そしてシュンちゃん。やらかしてこい。」

僕は今井さんと共に巨大な機械の中の狭い空間に入れられた。

「二人とも目をつぶれ。カウントダウンだ。3.2.1.ゴー!」


濃い香りがした。緑と土の匂いだ。周り全てが自然の中に、僕はいつの間にか立っている。

僕は大きく息を吸い込んだ。脳天までスッキリと晴れわたる感じがした。

「イイね〜。全くもって最高だね〜。俺の見る目は最高に澄み渡っていた!一点の曇りなーし!」

今井さんはニコニコとして僕を見ていた。僕はちょっぴり恥ずかしくなった。

「い、居たんですか?今井さん!なら、声かけてくださいよ!」

僕の言葉を聞いた今井さんは吹き出して笑い始めた。

「い、居たんですか?って居るに決まってるだろうが!一緒に来たんだから!やっぱイイね〜。シュンちゃんはイイよ!うんうん。」

今井さんは一人でなにやら納得していた。

「何が良いんですか?僕、何もして無いじゃないですか?」

「ははは!分かっとらんねぇ〜シュンちゃんは。それでは教えてつかわそう!なぜシュンちゃんがイイのかを!なあ、シュンちゃん。考えてもみなよ、俺たちはさっきまでどこにいた?機械だよ。あのでっけー機械の中に居たんだ。でも今は違う。大自然の中!あり得ない!どうして俺はここに居るんだ⁈ばかな!こんなことあるわけなんかない!俺は、俺はきっとおかしくなっちまったんだぁー!ギョエー!…以上が普通の反応。しかし、しかしだよシュンちゃん!君はどうだ?君はそんな疑問をいっさい持たず、さらに、自然のさわやかな空気を満喫していた!微笑みを浮かべながら!」

今井さんの話を聞いて僕はハッとした。そうだ!こんなことが起こるわけが無いんだ!…でも、なんだろう、結構どうでもいい気がする。

「シュンちゃんはスゲーなー。やっぱり耐性があるんだね。俺、あらためて感心。そんじゃ行きますか。とりあえずあっちに。」

今井さんは斜め右の方角を適当に指をさし、鼻歌を歌いながらサクサクと歩き出した。僕もその後を追って歩いた。

「今井さん、そういえば、目的地とかってあるんですか?」

「ふ〜んふんふ〜ん、え?目的地?無いよー。ふ〜んふんふ〜んふんふ〜ん」

「え?じ、じゃあ、僕たちはどこに向かって歩いているんですか?」

「ふ〜んふん、え?う〜ん…さあ?ふ〜んふんふ〜んふ〜ん」

どういう事だろう。僕はじわりじわりと不安になってきた。

「ああ!」

今井さんは声を上げると、サッとしゃがみ込んだ。

「シュンちゃん、しゃがんで!しゃがんで!見つかっちゃうよ!」

僕はびっくりして動揺しながらしゃがみ込んだ。

「シュンちゃん、あれ!あれ!」

今井さんはしきりに前を指差していた。僕はジッと目を凝らして前を見た。

あ!あれは!…なんだろう?河童か?

「シュンちゃん、落武者だよ!負けたのかー。かわいそうにねぇ〜。まあ、気の毒だけどご協力頂くとするか。シュンちゃん、そこの石取って。」

「え?あ、はい。」

僕は言われた通りに石を取り、今井さんに渡した。

「よしよし。つるりとした良い石だ。」

今井さんはボロ布服の内ポケットからこれまた汚らしいハンカチを取り出すと、石を包み、ヒュンヒュンと回し始めた。僕は初めてはっきりと今井さんが何をしようとしているのかが分かった。

「そりゃ!」

今井さんはタイミングを見計らい、素早く石をぶん投げた。僕はドキドキしながら石の行く末を追った。どうか命中しますように。

僕の祈りが効いたのかは知らないが、今井さんの飛ばした石は見事、落武者の頭部に当たり、落武者は二歩ほどよろよろ歩いた後ドサリと倒れた。

「よっしゃ!やった!イエーイ!」

僕と今井さんはハイタッチをして喜びを分かち合った。

「さて、やらかしましょうかね〜シュンちゃんさん!いくぞー!」

僕と今井さんは長めの草をかき分けながら落武者のもとへと向かった。


「今井さん。臭いですね。」

「ああ。臭い。臭いってもんじゃなく臭い。」

僕と今井さんは落武者をそこらで拾った枝でつついていた。

「今井さん、落武者ってこんなに臭いって僕初めて知りました。くっさ!」

「いや、全員が臭いってわけじゃ無い。臭いやつもいればそうでも無いやつもいる。くっさ、こいつくっさ!」

「今井さん、僕やる気無くなってきちゃいました。くっせ!」

「ああ俺も。…なんなんだ⁈こいつはどうしてこんなに臭いんだ⁈」

今井さんは顔をしかめながら枝をポイと投げ、馬のもとへと歩き出した。僕も落武者から距離を置き、今井さんの行動を見ていた。もしかして、馬を逃しちゃうとかかな?僕は倒れている落武者を見た。うつ伏せなので顔は分からない。

「臭い落武者さん。お気の毒です。あなたの馬、きっと逃がされちゃいますよ。戦で負けて、石ぶつけられて、そんでもって馬までにがされるなんて…。」

僕は落武者に同情し始めていた。そうだ、きっとこの人だって好きで臭いわけじゃないんだ。仕方なく臭いんだ。

いつの間にか、僕のとなりには今井さんが座っていた。意外にも馬は縄で繋がれたままであった。

「今回は失敗だよシュンちゃん。俺さ、せめて馬だけでも逃がしてやろうと思ったわけ。でもさ、あの馬…スゲー臭い。加えてノミとか虫がわさわさいてさ、とてもじゃないけど無理だった…。なあ、シュンちゃん。匂いって武器だと初めて知った俺。この落武者は臭みを身にまとうことによって俺たちから身を守ったんだよね。ああ、マジやべー気持ち悪くなってきた。シュンちゃん。せっかくの落武者だけど、ここは引こう。退散だ。俺たちも自分の身を守らねば。」

僕はコクリとうなずいた。同意。

僕と今井さんはそそくさと落武者から逃げた。


「お疲れ様。今回はどうだ?」

寿さんは機械の具合を確かめつつ、僕と今井さんに話しかけた。

「どうもこうも…やられました。惨敗ですよ。俺ともあろう者が!つーか、マジへとへとなんで主に心が。先、風呂行ってきまーす。うあ!やべ、また思いだしちまった!ぐえー気持ちわりぃ〜!はー。シュンちゃん。洗い流そうぜ。石けんの良き香りで記憶を塗り替えねば!いくぞー!」

僕と今井さんはのろのろと部屋を出た。

部屋を後にした僕たちは、まっすぐにしかし、のろのろと牛歩のごとく歩き続けた。それは臭みに耐え続けたことによる半端ない疲労のせいであった。僕たちはひと言も発することなく、ただただ温かい風呂に入りたい一心で歩き続けた。そして遂に風呂にたどり着いた。


「今井さん、想像以上に立派なお風呂ですね。温泉みたいだ…石造りだし…驚きです。」

風呂の入り口からしてもう、「ここは旅館の温泉か!」とツッコミたくなるほど豪華であった。

「そんなことどうでもいいからさ、早く入ろ入ろ!」

今井さんはボロ布を脱ぎ捨て、パンツもぶん投げ、サッとシャワーを浴びると、湯船にざぶりと浸かった。

「あー!いいー!うー!えー!おー!…はぁ。生き返る。」

僕も今井さんほどでは無いが、素早くボロ布を脱ぎ、パンツも放り投げて、シャワーをザーザー浴び、湯船にざばりと浸かった。

「はー…。やっと一息つきました。良いお湯ですね〜。本物の温泉みたいだ。」

「なーに言っちゃってるのシュンちゃん、温泉だよここ。源泉掛け流し!効能は非日常を味わえる。ふー、なんか知らんけど上のお人が造ってくれたらしいよー。ありがたやー、ああ、ありがたやー。」

「へー上のお人のおかげなんですか。ありがたいですね〜。」

僕と今井さんは温泉を満喫し、しっかりと身体をこすって洗い流した。

「これでもうあの臭みとはおさらばですね。」

「またまたー、なーに言っちゃってるのシュンちゃん。こっちに戻ってきた時すでにおさらばしちゃってるに決まってるでしょ?あっちの時代のものは何であっても持って帰れないんだから。これは気持ちの問題さ!」

「へーそうなんですか。便利ですね〜。」

「まあ、サッパリおさらば出来るから悪くは無いよね〜。」

「じゃあ、反対はどうなるんですか?」

「反対?何のー?」

「こっちから持って行ったものはどうなるんですか?」

「それは…どうなるんだろう?そもそも持ってくことがないからさ、知らなーい。俺、どうでもいいことはすぐ忘れちゃうからさ。稲葉さんに聞いてたかもだけど、忘れちゃったなー。ま、知らなくてもいいってことで。」

「はあ、分かりました。」それでいいのか?


その頃、つまり、今井とシュンちゃんがのんびりと温泉に浸かっていた時、哀れな落武者さんはというと、

一応意識は取り戻したがしかし、正気は失っておりました。奇声を発しながらフラフラと歩き、そして馬の尻にぶつかり、腹に馬の蹴りをあびせられ、悶絶。そこでようやく、落武者さんは正気に戻りました。ここで落武者さんの顔を見てみましょう。その顔は痩せこけてはいましたが、歳もまだ若いようで、ソコソコイケメンです。さて、落武者さんは、自らが発する臭みによって、具合が悪くなり、しかも先ほど腹に一撃を与えられたことも影響して、ゲーゲ吐いておりました。吐きながらも、この強烈な臭みを何とかしようと身にまとっていた、甲冑やら何やらかにやらを脱ぎ捨て、近くにほそぼそと流れていた小川に入り、懸命に臭みを落としておりました。ふいに落武者さんは身体をこすることをやめ、泣き出してしまいました。かわいそうな落武者さん。落武者さんは泣きながら身体をゴシゴシこすり、なんとか臭みをましにすると、やはり泣きながら馬のもとへと歩き、だいぶ汚れた馬を洗ってあげました。ここで、どうして落武者さんが泣いているのかを説明しましょう。きっと落武者さんは思い出していたのです、落武者狩りにあったことを。そして肥溜めに落ちたことでなんとか殺されずにすみ、落武者さんは無我夢中で馬に乗って逃げていたのです。馬を洗い終えた落武者さんは、糞尿にまみれた甲冑を見てまた、おいおいと泣き始めました。あの甲冑は、なんと今は亡き父上から授かった大切な形見であったのです。なんてかわいそうな落武者さん。どうにかして助けてあげたくなります。その時です、落武者さんはまだ運命の女神に見放されてはいなかったのです。


「クサ!またか!ってあらー!これはこれは。ご無沙汰しています〜、わたくし、この辺りで乞食をしております今井と申します〜。で、こちらの乞食はシュンちゃんですー。それでー、お武家様はどちらからいらしたのですか?」


翌日、僕と今井さんはまた、歴史を変更するべく旅に出た。そして、昨日と同じ落武者と出会ったのである。

昨日は気絶したままの姿であったが、今はしっかりと起きていた。

落武者は呆然と急に現れた僕たちを見ていた。そして大声で何やら叫ぶと馬に乗って逃げてしまった。

「あらー。驚かしちゃったね〜。それにしても、またくせー落武者にあっちまうとはなー。おえ、甲冑くっせー!あーやだやだ。シュンちゃん、さっさとこんな臭いとこ退散しちゃおう。」

僕と今井さんはとりあえず歩き出した。

草木が多い山道を、今井さんは歩きやすい道を器用に見つけ出し、サクサクと歩いた。僕は今井さんが歩いた道をなぞってその後に続いた。そして、人が通りそうな小道を見つけ、僕たちは余裕をもって歩けるようになった。

歩きながら僕は、改めて先程、再び出会った落武者のことを考えていた。想像よりも若い姿に僕は驚いたのだ。

「今井さん、さっきの落武者ですけど、若かったですね。10代後半くらいに見えました。10代で落武者って…悲劇です。かなり悲劇です。僕、落武者くんの顔見たんですけど、ずいぶんと泣いてましたよ。かわいそうな落武者くん。いったい、これから彼はどうなるんでしょう?」

僕は走り去った落武者くんに同情していた。きっとまだ高校生くらいの男の子なのに、あんなに臭くなって…。

僕がもし、この時代に生きていたら、同じような道を歩むことになっていたかもしれない。その時は、僕もきっと臭いのだろう。

もしかしたら臭い落武者になる前に、戦場で人を殺したり、そして殺されてしまっているかもしれない。そう考えると、とても恐い気がしてきた。

前を歩く今井さんは何も言わなかった。うつむきながら歩いている。きっと、今井さんも何か心にくるものがあったのだろう。

「あ!」

今井さんは急にしゃがみ込んだ。

僕ははっとした。また落武者か何かを見つけたのかもしれない。僕も急いでしゃがみ込んだ。

「シュンちゃん!見てこの石!穴掘るのにぴったりじゃない?ん?おお!ここにも良さげな石が!ラッキー!」

今井さんは鼻歌を歌いながら石を拾い、その場で穴を掘り始めた。

「え?今井さん、何しているんですか?」

「ふ〜んふんえ?何って穴掘ってるの。今回は落とし穴でも作ろうと思って。また臭い落武者とかに当たったらやだからさ。ほらシュンちゃんもこの石使いなよ!シュンちゃんには特別に、使いやすい方の石をあげる!ふ〜んふんふ〜んふんふん〜」

今井さんって…


場面が変わり、

今井とシュンちゃんが無事に落とし穴を完成させ、もとの時代に帰った頃、落武者くんはまだ馬に乗って走り続けていました。落武者狩りの恐怖から、なるべく人のいない場所を選び、走っておりました。人のいない場所といえば自ずと林の中や森の中と限定されます。ここで、またもや悲劇が起こります。なんと、落武者くんは太い枝に引っかかり、落馬。そしてちょうど頭の位置にあった大きめの石に頭をぶつけてしまいました。気絶。馬は走り去ってしまいました。


落武者くんは薪の爆ぜる音で目を覚ましました。クラクラとしながらも、起き上がり、状況を確認しようとあたりを見回しました。倒れていたところを心優しい誰かに拾われ、寝かせられていたようです。ぶつけた頭に手をあてると、布がしっかりと巻き付けてありました。安心したのでしょうか、落武者くんはシクシクと泣き始めました。その時、ガラガラと戸が開く音がしました。音のした方を見るとそこに立つ、優しそうなおじいさんと目が合いました。おじいさんは嬉しそうに微笑みました。その微笑みに感激した落武者くんは、おいおいと激しく泣き始めました。大きな泣き声を聞きつけたのでしょう。家の裏手からおばあさんが現れました。とても優しそうなおばあさんです。落武者くんはさらにわーわーと泣き出しました。心配になったおじいさんとおばあさんは、どこが痛いのか、お腹が空いているのか、喉が渇いたのかとしきりにたずねました。めそめそと泣きながら、落武者くんは安心したのだとおじいさんとおばあさんに伝えました。それを聞いたおじいさんとおばあさんは、それならわたしたちも安心だと笑顔になりました。

その後、落武者くんはおじいさんとおばあさんの手伝いをして暮らし、村の美人ではないが優しい娘さんと結婚して幸せに暮らしました。おしまい。


時は遡り、今井とシュンちゃんは落とし穴の仕上がりを二人で見ていた。穴掘りに使われた石は、土がこびり付いてすっかり汚れ、地面に転がっていた。

「いい穴が掘れたねぇ〜シュンちゃん!そして周りの地面とよくとけこんでいる!今まで数々の落とし穴を作成してきたけど、これはえーっとベスト25に入っちゃうよ!はー仕事した〜。いい仕事した〜。」

今井さんは満足げに完全した落とし穴を眺めていた。

「ベスト25ですか…意外と低いですね。」

ベスト25なんて中途半端な…っていうか、今井さん、どんだけ落とし穴作ってんだ!

「まったく、欲張りだなぁ〜シュンちゃんは!ほんとにもう、いけない子ね!そんな簡単に素晴らしい落とし穴を掘れると思ったら大間違いよ!はー、親の顔が見て見たいわ!なんつって。」

「そうですか。確かに、落とし穴って奥が深いですもんね。特に周りと同化させる作業は細かくて驚きました。穴を掘るのだって、結構コツが必要でしたし。勉強になりました。」

「分かればいいのよ、分かれば。はー腕イッテー!」

今井さんはゴロリと草地に横たわった。僕はその隣に腰を下ろした。そしてぼんやりとあたりの自然を眺め、澄んだ空気の風が汗ばんだ僕の髪を揺らすのを気持ち良く感じていた。そういえば、こんなに体を動かしたのは久しぶりだった。心地良い疲労というものを僕は知った。

隣で横たわる今井さんは、気持ち良さそうにぐーぐーと眠っていた。今井さんって、きっと悩んだことないんだろうなぁ〜。



僕たちは一応、民間企業の一員として働いているらしい。詳しくは知らない。誰も教えてくれないからだ。

今井さん曰く、ここで働く我々は通称「歴史変えちまいたい(隊)」と呼ばれている。僕が知るメンバーはたったの3人だが、今井さん曰く、まだまだメンバーはいるらしい。僕が働き始めて一週間経つが、未だに他のメンバーに会ったことはない。


「歴史変えちまいたい(隊)」で働き始めた僕は、毎朝7時に起き、朝食を食べる。

「俊治がまた働き始めるなんて、お母さん驚いちゃった。俊治はきっと「引きこもり」になるとばかり思ってたから。でも、俊治はずっと頑張り通しだったし、それはそれでいいかなって。それに、お母さん、俊治が帰ってきてくれて嬉しかったしね。俊治が大学に入学してから、シングルマザーってこんなに寂しいものなのかとしみじみ感じていたのよ。ほら、私、ネズミが大嫌いだったのに突然ハムスターなんか飼いはじめちゃったりして。最初はいよいよ寂しさのあまり気が変になってしまったんだと考えていたけれど、今では俊治よりもハムスターの方が見てて可愛いわ。」

このような母さんの話を聞きながら、僕は朝食を平らげる。そして、一応スーツに着替え、代えの下着のみを入れたカバンを持って家を出る。


「おはようございます。」

僕は待機室のドアを開け、マンガを見ながらコーヒーを飲む、今井さんに挨拶をした。

「おはー!今日も早いねシュンちゃん。さては、この仕事が楽しくなってきたなー!きゃーシュンちゃん単純ー!」

今井さんは僕の分のコーヒーを淹れながら、僕を茶化してきた。今井さんは毎朝、僕にコーヒーを淹れてくれる。

「今井さんこそ毎朝早いじゃないですか。…そういえば、今井さんの家はどこらへんなんですか?こんなに早く出勤できるということは、やっぱり市内ですよね?あ、ありがとうございます。」

「まぁ市内ではあるかな〜。ていうか、俺、ここに住み着いちゃってるんだよねぇ〜。職場けん家みたいな?あ!あれだ!在宅ワーク?」

それを聞いた僕は驚きコーヒーを吹き出すなんてことにはならなかった。今井さんならあり得ること。

「ということは、家賃払わなくていいってことですよね?お得でいいですね。」

「まあねー。チョー助かる。俺、子供いるからさ、養育費とか、生活費とか必要じゃん?節約生活ハンパね〜。」

僕はちょうど口に入れたコーヒーを飲むところであったが、僕の胃の中に収まるはずのコーヒーは僕の口から勢い良く放出され、今井さんの開かれたマンガの上にぶちまかれた。

「ギャー!あぁ?ヒェー!ティッシュ!はやく!ティッシュをくれー!どこだティッシュはどこにある?うそ?俺のバイブルがー!」

今井さんは激しく動揺し、僕は激しくむせていた。

そこに出勤してきた寿さんが騒ぎを聞きつけやって来た。

「おい、どうした⁈大丈夫かシュンちゃん!何でコーヒーがこんなにばらまかれて…今井⁈どうした何してる?」

「寿さん!ティッシュ!早く!ティッシュ!ティッシュ探してー!どこ?ティッシュどこ!」

今井さんはテーブルの下に潜り、ティッシュを探していた。

「落ちつけ今井、そんなところにティッシュは無い!なるほど。状況は読めた。今、ポケットティッシュをやるから落ちつけ!」

寿さんはカバンの内ポケットからポケットティッシュを取り出し、今井さんに渡した。

「寿さん!サンキューです!あぁ…なんてこった。デケーシミが…こんな…遅すぎた。染み込んじまった。あぁ…なんてこった。」

今井さんは頭を抱え、コーヒージミの付いたマンガを見ていた。そして動かなくなってしまった。

僕は申し訳なさで胸がいっぱいになり、マンガを弁償しようと決心した。そうだ、どんなにプレミアがついて高くても、僕には今井さんにマンガを弁償する責任がある!

「い、今井さん。ごめんなさい。僕、マンガ弁償します!いいえ、弁償させてください!きっとすごく高級なプレミアとかがついたマンガですよね?コーヒージミなんかを付けてしまって…本当にごめんなさい!」

僕は泣きたくなった。こんな今井さんを僕は初めて見た。今井さんを苦しめたくなんか無かったのに…僕は、僕はなんて悪いヤツなんだ!

「シュンちゃん…いいんだ。弁償なんてやめてくれよ。たかがマンガなんだ。シュンちゃんがそこまで自分を責める必要なんか無い。そうさ、考え方の問題だよ。このシミは、シュンちゃんとの思い出のシミなんだ。そう。形のある思い出さ。な?シュンちゃん。そう考えるとこのシミにも愛着がわくってもんさ。」

「今井さん…今井さん!」

「シュンちゃん!」

僕と今井さんはかたく抱きしめ合った。

「おい。そろそろ仕事始めるぞ。とばしたコーヒー拭いとけよ。今井、そのティッシュはお前にやる。じゃ、20分後に。」バタン。



23分後、僕と今井さんは槍のような武器を持った小柄な男達に囲まれていた。


たったの3分間に、僕と今井さんの身に何が起こったのかを説明しよう。

僕たちははじめ、大きな日本庭園の中に立っていた。

僕は左の小島に、今井さんは右の小島に立ち、あたりは一面、大きな池になっていた。

「絶妙だな!2人ともよく池に落っこちなかったもんだ。うおー!広い庭。こりゃスゲー。金持ちの家か?ここ。おー広い!あ、やべ、見つかった。」

とっくに見つかっていた。槍を持った男たちがぞろぞろ出てくる出てくる。僕は命の危機を感じた。

僕、これ、死んだかも。


「初めまして〜。わたくしは〜。今井〜。と申します〜。いたって無害な〜。乞食です〜。刃物は〜。あぶない〜。」

今井さんは相手を刺激しないようにゆっくりと話していた。しかし、全く相手には通じていないようであった。時が経つにつれ、騒ぎはますます大きくなり、僕たちは屋敷中の人々に観察され、何やら叫ぶ声も聞こえてくる。当たり前だ。僕も相手の立場であったら混乱する。

話しても無駄だと気づいた今井さんは、そろりそろりとしゃがみこむと、細かい石がたっぷりとまかれた地面に指で文字を書き始めた。そうか!話してダメなら書けばいい!…でも、古文とかじゃないと通じないんじゃ…ってえー!

僕は目を見張って今井さんの書く文字を見た。全て漢字!しかも達筆!読めねー!でもこれはすごい!

二行の漢文を書き終えた今井さんに向かってもう誰も敵意を向ける者はいなかった。僕にはまだ少なくとも3人はいた。僕は今井さんに負けまいとしゃがみこみ、昔、無駄にかっこいいからと練習した行書体の英語を用いて、自己紹介と、今井さんの突然の裏切り(いきなり漢文書くとかズルイ)について思いつくままに文句を書いた。

「あーあ、指が痛くなっちまった。あと少しで完成だってのに。いい石はねーかなぁ?うーんと、あ、ちょっと君、じゃま、こっちにあるかしら?ふ〜んふんふんふ〜ん。ん?これは!書きやすそうな良いシルエットしてるう!おい、石!君に決めた!」

今井さんは石を拾い、また漢文の続きに取りかかった。僕も指が痛くなり始めていたので、そこらへんに転がっていた比較的尖った石を拾い、こんどは傭兵みたいなヤツらの足が臭いことについて文句を書き始めた。僕は英語を勉強しておいて良かったと心から思っていた。身についた技術が最終的には役に立つものなのである。

「ふー。良きかな、良きかな。いい仕上がりだ。そっちはどうだいシュンちゃん!」

「はい!久しぶりに文字というか、文章を書く楽しみを味わいました!爽やかな気分です!ちょっと足が臭いですけど。」

「あ!俺もそれ思ってた!すね毛に囲まれると大抵臭いからもう俺あきらめてたけどさ、臭いもんは臭いよな!足洗え!石けんでアカ落とせ!」

「この時代に石けんってあるんですかね?」



「ふー。いちち、指ちょっと擦りむいちまった。ここの温泉ってキズとか癒す能力あんのかな〜。」

僕と今井さんは、二人とも槍で突かれることを免れ、無事、もとの時代に帰還を果たしていた。

「能力じゃなくて効能ですよ。今井さん、初日はちゃんと効能は…あれ?心を癒すだかなんとか言ってたじゃないですか。」

「そうだっけ?まあ治りゃどっちだって良いけどね〜。」

今井さんは顔をしかめながら左手を温泉のお湯に沈めた。今井さんも僕と同じ左利きであった。

「それにしても、今井さんズルイですよー!あんなすごい字書けたんですね。僕、完全に置いていかれちゃってたじゃないですか!」

「なーに言っちゃってるのシュンちゃん!シュンちゃんだってあんなすごい字書いてたじゃない!あれ、なんて書いてたの?」

「自己紹介ですよ。それより今井さんはどうなんですか?あれ、漢文ですよね?なんて書いたんですか?」

「うーんと、なんか立派なことじゃない?丸暗記だから意味、知らないんだよねー。いやー!若気の至りでさ、かっこいいと思って練習したんだよね〜!俺、昔から字だけはキレイだってほめられててさ。もっとすごい字を書けるようになってやるー!って弘法大師とかいう書の神様らしい人の文章覚えて、書体もマネして書けるようにしたんだよね〜。でもさ、今の人にはあの書の素晴らしさが通用しないんだよ〜。しまいには、お前、字下手になってね?とか言われちゃって。俺ショーック!せめて真っ直ぐ書けよとかも言われちゃって。俺またまたショーック!ふー。シュンちゃんはほめてくれたから、俺の努力は無駄になってないね。シュンちゃんありがとね〜!」

今井さんの口から、昔、受験勉強で覚えた名前が出てきて、僕は苦くも懐かしい気持ちになった。あの頃は大学に合格することが全てで、僕は日本史を、紙の上にある暗記物という認識しかしていなかった。こんなにも深く関わることになろうとは。僕は昔の記憶をなんとかよみがえさせていた。弘法大師ってたしか空海のことだよな。そして書の達人と呼ばれた三筆の一人。日本を代表する書の名人だ。三筆って空海と、嵯峨天皇と、あと一人誰だっけ?

「あまりにも達筆すぎると一般人はついていけないもんなんですよ。僕はすごい字だと思いました。それに筆じゃなくて指と石で書くなんてすごいです!」

「え〜?なんか照れちゃうな〜えへへ!」

今井さんはほめられてとても嬉しそうであった。きっと、ほめられるなんてこと今井さんは滅多に無いのであろう。僕は静かに、僕だけは今井さんをなるべくほめてあげようと決心した。


一方、今井とシュンちゃんが去った後、屋敷に居た人々は、急に現れた人間がまたもや急に消えたことに混乱していました。騒ぎが高まるにつれて人々の間では、今井とシュンちゃんは不吉を運んできた、もしくは不吉を知らせに来た鬼であると認識されるようになりました。人々は、ウワサでよく聞く鬼を実際に目の当たりにしたものですから、自分の身にもなにか不幸が起きるのではないかと恐れを抱き、恐怖のあまり叫び出す者、失神する者が現れはじめました。騒ぎがひときわ大きくなった頃、遠出から帰宅した屋敷の主人は自分の留守の間にとんでもないことが起きたと知るや否や、鬼から家を守るための祈祷を行い、鬼退治で有名な武士を雇い入れました。そして、祈祷師が鬼どもが遺した文字を見ると目が潰れると言うので、今井とシュンちゃんが書いた文章は丁寧に祀られ、祟りを防がれた上で神社の井戸水で清められながら消されました。結局、この騒ぎによって得をしたのは、莫大な祈祷料をもらった祈祷師と、高い報酬で雇われることになった武士だけでしたとさ。おわり。



よく、歴史は変えてはいけないと聞く。どんなささいなこと、例えば石ころ一つでも動かそうものなら大変な事態に発展すると。

「今井さん、僕たちってけっこう歴史、変えちゃってますよね?」

「うん。変えてるね〜。頑張って変更を試みている!」

「あの、今井さん、本当は歴史って変えちゃいけないものじゃないかと思うんですけど。そこらへんはいったい…つまりですね、僕たち、いけないことしてませんか?犯罪ではないでしょうか?」

「あー。それか。犯罪か〜。犯罪ね〜。犯罪なのかね〜。まあシュンちゃんの気持ち分かるよ俺。なんかほら、産まれてくるはずの人が産まれてこなくなるうとかよくマンガで見るもん。でもね〜、実際はそうでも無いっていうか〜。歴史って頑固でさ、なっかなか変わらないんだなぁ〜。俺たちさ、けっこう頑張ってきたじゃない?」

「あ、はい。頑張りましたね。」

「でしょー?あれだけやっても全然だよ。全然びくともしてない。固し。歴史の防壁固し!だから気にしなくていいよ〜。っていうか、俺たち変えなきゃいけない方だからね!これからも頑張って歴史の防壁をぶっ叩き続けようぜい!はっはー!」

「あ、はい。頑張ります。」

次に僕は寿さんのもとに向かった。今井さんに聞くなんて、僕はどうかしていたんだ。始めから寿さんに聞くべきだった。

「失礼します。あの、寿さん。ちょっとお聴きしたいことがあるんですけど、今、お時間大丈夫ですか?」

寿さんはパソコンのキーパッドを叩き、なにやら作業をしているようであった。

「ん?シュンちゃんか。ああ。大丈夫だ。…それで聴きたいことは?」

寿さんはパソコンを閉じて、僕を見た。

「あ、ありがとうございます!えっと、今さらなんですけど、歴史って変えてはいけないのではないかと僕、思ってしまって。その、もしかしたら僕たちは人を殺してしまうかも…本当は死ぬべきじゃない人を死なせてしまうかもしれませんよね?」

寿さんは腕を組んで僕の話を聞いていた。

「ああ。そのことか。人の生き死に…変えてはいけないか…。俺たちもやらなくて済むなら苦労は無いんだが。悲しいかな、そうもいかないのが現実なんだ。確かに、歴史を変えることによって人の生き死にが変更されることは十分にあり得る。そしてそれはとても罪深いことだと思う。しかし、俺たちはそういうことも含め、全ての可能性を考慮した上で歴史の変更を試みている。そうそう簡単に歴史は変わるものでも無いがな。シュンちゃん、俺も今井も好きでこの仕事をしているわけでは無い。今井は特にそうかもしれん。君はきっと知りたいことだらけだろうな。しかし、今はまだ君は知る時期では無いと俺は思う。時が来たら俺が知っていること全てを話そう。以上。他に質問は?」

「い、いえ。ありません。」

やっぱり僕がやっていることって、かなりやばいかもしれない。

僕はずっしりと重たい罪悪感を全身に感じた。

僕の様子を見た寿さんは、僕の肩に手を置いた。

「そうだよな。この仕事にはいつも、苦しみがどうしたって付きまとう。ごめんな。でも、今井には君がどうしても必要なんだ、シュンちゃん。よろしく頼むよ。」

寿さんは申し訳ないという顔をしていた。

寿さんは良い人だ。信頼できる人だ。まだ知り合いになってからの時間は短いけれど、僕はそう思っている。今井さんだって、ちょっとズレてるところはあるけど、僕は一緒にいて楽しくて、大好きだ。

渡部さんも、会うといつも心配してくれる優しい人で、しかもとても美人で、僕は大好きだ。


「いえ。正直なところ、僕、この仕事が好きなんです。皆さんのことも大好きです。でも、悪いことしてるなって気持ちもあって。…いずれは僕もどうして歴史の変更が必要なのかを教えてもらえるんですよね?だったらそれまでは、あまり人の生き死にとか、暗い面を考えないようにします。僕が好きな人たちが頑張っていることなんだから、悪いわけが無いって。そんな気がしてきました。僕が、こんな僕が役に立てるなら。僕、仕事します。寿さん。丁寧に答えてくれてありがとうございました。」

僕は頭を下げた。

寿さんは僕の頭にポンと手を置いて、

「俺たちもみんな、シュンちゃんが大好きだよ。ありがとう。」

と言うと、僕の頭をくちゃくちゃになでた。


名前だけ知っていた、稲葉さんが現れたのは、それから2日後であった。

僕と今井さんはいつもの通りに待機室でコーヒーを飲み、たわいのない話をしながらくつろいでいた。そこに、見たことのない人がよっこらせと入って来たのである。

「よう!今井!元気かー?まあ元気だろうなー、ほれ、九州土産。あれ?君がシュンちゃんかい?へーなかなかにいい男じゃないか。真面目そうでけっこうなことだ。今井、やるなぁ〜!」

「えへへ〜。でしょう稲瀬さぁん!シュンちゃんはもう素晴らしい子なんだから。あ!稲瀬さんまた太りました?ダメじゃないすか!健康第一ですよ!」

イナセと呼ばれた男は、見事にふくれたお腹をさすってはははと笑った。

「健康第一っておまえー!おまえがそれ言うのかよ!確かにコレステロールが気になるお年頃だからな俺。なあ、そんな太ってないだろ?ここに居た時よりちょっぴり太ったくらいだろ?」

「いやいや、ちょっぴりは控えめ過ぎっすね。それなりに太ったが正解っす。」

「はぁー。ちょっとダイエットして来たんだけどな〜。寿にまた怒られるよ〜。あーやだやだ。あいつねちっこいじゃん?ずーっとねちねち言ってくるからやなんだよね。ねえ、寿の話はどうだっていいからさ、渡部ちゃんの話してよ〜!その後、あの彼氏とどうなったの?別れた?それともまだ?」

「もー、渡部さんのその話は禁句って言ってるじゃないすかー。俺も気にはずーっとなりっぱなしなんすけど、円滑な渡部さんとの関係のために無いことにしてるんっすよー!思い出させないでくださいよ〜!ほら、寿さん来ちゃいますよ!ダイエット成功させてから現れて下さい!そのたぷ腹見たら寿さんキレますよ?マジっすよ。」

「えー!マジ?やばば!早く退散しなくては!それじゃまた!シュンちゃんもまたね〜!」

イナセさんはよっこらせと去って行った。

その5分後、寿さんが出勤してきた。

僕と今井さんは、稲瀬さんからのお土産、かるかんをほうばっているところであった。

「おはよう。稲瀬が来てたのか。今居ないということは、あいつ、また太ったな。懲りないやつだ。」

今井さんはほうばっていたかるかんを飲み込むと、どうして稲瀬さんがこっちに来たのかを寿さんに尋ねた。

「妹が結婚するらしい。邪魔してやりに来ると言っていたが、本当に来たな。邪魔をするかどうかは知らないが、身内の結婚式だから長期休暇が取れたんだろう。」

結婚式か…僕はいったい結婚出来るのだろうか…。

あれ?今井さんって結婚してるんじゃ…子供いるって言ってたし。

「今井さん、今井さんは結婚してるのに、どうして会社で寝泊まりしてるんですか?奥さんも子供もかわいそうじゃないですか!」

僕の話を聞いた今井さんと寿さんは、互いの顔を見ていた。寿さんは少し、動揺しているように見えた。なんなんだ?

「あれれ〜どうして俺に子供がいるってシュンちゃんが知ってるんだろう〜あれれ〜俺、混乱しちゃうー!」

寿さんは軽蔑したような目をして今井さんを見ていた。そして、今井さんの髪の毛をむんずとつかむと、外へと引っ張っていった。

「寿さぁーん!いたい!ちょーぜつ!マジやばい!俺の髪の毛死んじゃう!死んじゃうよー!」バタン。

僕は一人待機室に残された。なんなんだ⁈


今井さんと寿が戻るまでの間、僕は今井さんについて、詳しくは今井さんの結婚や子供について考えを巡らせていた。

今井さん、もしかして寿さんには内緒にしてたのかな?あり得る。いや、まてよ、あのおしゃべりな今井さんが、寿さんに勘づかれないで過ごせるのか?んなわけ無い!きっと今井さんは自滅することだろう。じゃあどうして寿さんは今井さんをあんな目で見たんだろう?は!もしかして!三角関係⁈寿さんと今井さんと謎の美女⁈うわー!すげー!大人だ!大人すぎるー!でも、あの今井さんが、あんな今井さんが、寿さんに勝てるのか?今井さんが寿さんに勝つ…想像出来ない。僕がもし女の人だったら迷うことなく寿さんを選ぶもんな〜。間違いなく。じゃあ、どうして…。ダメだ!分からない!とりあえず糖分を補給しよう!僕はかるかんを食べることにした。


「寿さん、すごく怒ってましたね。ぺくち。ずず。どうして今井さんの結婚のことで寿さんあんなに怒ったんですか?ぺくち!ずず。さ、寒い。」

「シュンちゃんざぁー、べくし。ずず。今それ聞く?俺たちこれから1時間半はこっちに居なきゃいけないんだよ?は、は、はぐし。ずず。しかもこの格好でよ?なんとか暖をとらなくちゃ、べくし。ずず。し、死ぬ。」

僕と今井さんは何故か冬の山中に立っている。この雪の量から察するに、ここは東北かまたは北海道かもしれない。やばい。しかもだ、しかも僕たちはどういうわけかフンドシ一枚で送り込まれた。

「今井さんがぁぁカチカチ寿さんをあんなにぃぃカチカチ怒らせたからぁぁぺくち。ずず。フンドシしかぁぁ貸してもらえなかったんじゃぁぁカチカチないですか!は、は、ぺくち。ずず。」

話がまともに出来なくなってきた。寒さで歯がガタガタ揺れ、僕と今井さんの歯はカチカチと鳴り続けている。

「あぁぁ!カチカチ、シュンちゃゃん!カチカチ、ひ、ひとぉぉ!カチカチ」

今井さんが指をさした方角には、犬を連れた猟師のような人が歩いていた。

今井さんは走り出した。僕も続いて走り出した。

僕たちは懸命に走った!流れ続ける鼻水をそのままに、歯を鳴らして走り続けた。


「死ぬかと思ったー!でも生きてたー!臭いけど、六郎さん!マジ感謝ですー!」

「ちょっと今井さん!臭いとか失礼じゃないですか!すみません六郎さん。この服、あったかいです。」

六郎さんは、何も言わずに黙々と鍋に肉を切って入れていた。六郎さんの言葉は訛りが強く、僕や今井さんは何を言っているのかいまいち分からなかった。やはり、東北か北海道に来たのだと思う。始めは警戒された僕たちであったが、フンドシ一枚の丸腰で、しかも寒さで震えている僕たちを危険ではないと判断してくれた。そして着る物を貸してくれて、さらに、暖かい住まいにまで上げてくれた。僕と今井さんは手渡されたお酒を飲み、身体の中が温まって固まった筋肉がほぐれるのを感じていた。東北か北海道の人ってあったかいんだなと、僕は人のあたたかみを味わっていた。

六郎さんは鍋に蓋をすると、のこった肉の一部や骨なんかを持って外に出て行った。ワンワンと犬の鳴き声が聞こえる。きっと犬に餌をあげに行ったのだろう。

「ねえねえ、シュンちゃん、犬、可愛かったね〜!俺、昔から犬、大好きなんだけどなぜか猫ばっかり飼っちゃうんだよね〜。拾ったり、貰ったり、なんか居着かれちゃったりして。俺、帰ったら犬飼っちゃおうかな?最近好きな犬がいてさ、フレンチブルドックって犬種。ぶさかわってやつよ。ねえ、シュンちゃんからも寿さんにお願いしてみて!お願い!シュンちゃんお願い!」

「ええ〜。犬ですか…確かに可愛いですけど…。会社で飼うのは難しいと…あ、ハムスターとかどうですか?うちで今、母さんが飼ってるんですけど、可愛いもんですよ意外と。」

「へー、千恵美ちゃんハムスター飼ってるの⁈ネズミ嫌いって言ってたのに!意外!そんなに可愛いんだハムスターって。じゃあ俺もハムスターにしようっと。楽しみだなぁ〜。」

あれ?僕は違和感を感じた。どうして今井さんが僕の母さんの名前を知っているんだろう?

「あの、そのー、今井さん」

僕がその疑問を口にする前に、犬に餌をやり終えた六郎さんが室内に入ってきた。そして鍋の蓋を開け、木で作られたオタマで中をかき混ぜ、茶色の紙のようなものに包まれたたぶん味噌を適当にオタマですくい、鍋に入れた。その瞬間、僕たちは美味しそうな味噌の香りに包まれた。


六郎さんはお椀を二つ、箸を4本取り出すと、オタマで鍋から肉の味噌汁をすくって入れた。そして今井さんと僕にお椀を持たせ、箸を2本ずつ渡した。僕と今井さんは遠慮なく肉の味噌汁をいただいた。何の肉かは知らないが、美味しかった。

僕たちが食べている間、六郎さんは、話をしていた。全て聴き取ることは出来なかったが、六郎さんが山での暮らしをとても大切にしていることは分かった。そして、六郎さんは山の神様について話始めた。山の神様は気難しい女の神様であるらしい。だから、美しい女が山に入ると山を荒らして大変なことになるという。僕は六郎さんの話が面白くて、一生懸命聴いた。六郎さんも僕の顔を見ながら一生懸命話してくれた。こんなに真剣になって人の話を聞いたのはきっと初めてだと思う。今井さんは、味噌汁を3杯食べ、ぐーぐーと眠っていた。この人はやっぱりどうしようもない人だと僕は思った。


もとの時代に戻った後、僕はマタギという存在を知った。きっと六郎さんはマタギだったのだと思う。


休日の昼、僕は今井さんと向き合ってラーメンを食べていた。

「ハムスター、飼いたかったな〜。」

「まだ言ってるんですか?ハムスターは機械のコードをかじっちゃうからダメだって寿さんに言われたじゃないですか。」

「カメ、飼いたかったな〜。」

「ダメですって。今井さんはよく手を洗わずにお菓子とか食べちゃうから、サルモネラ菌に感染しちゃうって寿さんに言われたじゃないですか。」

「結局、魚か。しかも熱帯魚はダメってさ〜、ひどくない?それに一匹だけだなんて…。せっかくのラーメンが美味しくなくなっちゃう。」

「替え玉まで食べておいて、何言ってるんですか!良いじゃないですか金魚。きっと可愛いですよ。お祭りの時とは、違っていろんな種類がいるんですし、気に入った金魚を買って帰りましょう!」

ショボくれていた今井さんは、少し元気を取り戻したようだった。

「そうだよね!そういえば俺、金魚なんて飼ったことなかった!ほら、俺さ、猫飼ってたから金魚は飼えなかったんだよね〜。なーんか楽しくなってきた!早く行こうよシュンちゃん!」

「僕はもう行けますよ。今井さんが替え玉を注文するから遅くなっているんです!早く食べちゃって下さい。」


ホームセンターには、意外と大きな熱帯魚や金魚コーナーがあった。

「おー!シュンちゃんこいつカッコイイ!デケー!」

「シルバーアロワナですか。へー水族館とかにもいそうですね。」

「うわ細けー!シュンちゃん!こいつらヒレの模様ヤバくね?」

「グッピーですね。へー、イメージしていたのと、だいぶ違います。こんなに色のバリエーションがあったとは。…今井さん、ここ、熱帯魚コーナーです。今井さんが買うのは金魚ですよ?あっちに行きましょう。」

「えー、見て楽しむぐらい良いじゃん!あー!シュンちゃん見て見て!ピラニア!ピラニアだよ?うそ、何でこんなところで泳いでるの⁈スゲー!ねえシュンちゃん!こいつらさ、指とか入れたら噛みついてくんのかな⁈」

「へー。ペットでピラニアを飼う時代なんですね。うーん。やっぱり恐い顔してますよこいつら。牛とかも食べちゃうんですよ。恐ろしい魚だ。いやいや、金魚ですってば。見ると欲しくなっちゃいますから!場所を移動しましょう!」

「えー、シュンちゃんキビシイー!分かったよ。しょうがないシュンちゃんめ!」

今井さんはやっと金魚のコーナーに移動した。やれやれだ。

「おー!シュンちゃん!こいつスゲー!早く来いよ!スゲーから!」

「はい、今行きますよ。」


今井さんと僕はかれこれ3時間近くもホームセンターにいた。


僕は友だちが少ない。全くいないというのも嘘になりそうだから、僕は少ないと言うことにしている。

仕事が早めに終わると、僕は大抵本を買い、チェーン店の喫茶店でコーヒーを飲みながら読む。

自分で稼いだお金で買い物が出来るのは、やはり充実感があっていいものだ。

僕はその日もそうして幸せに過ごしていた。しかし、僕は出会ってしまった。最悪な人物に。

「あれ?おまえ後藤じゃね?え?なんでいんの?」

僕は全身からサッーと血の気が引くのを感じた。

「おいおい、おまえ、都会の大企業とかに就職したんじゃなかった?なんでいんの?」

僕の指先は氷を触った後のように冷たくなった。

「え?もしかしてクビとか?はは、ウケるー。あんなに頑張ってたのにクビ?やっぱりおまえ、能力なかったんじゃない?バカはいくら勉強したってバカなんだよ。はは、つーことは、後藤は今、実家暮らし?でもなんでスーツ着てんの?こっちで就活?」

僕は震えていた。僕は昔は友だちであったその人物に恐怖を抱き、震えていた。

「おいおい、なんで震えてんの?え?恥ずかしいとか?はは、だよなー、恥ずかしい恥ずかしい。だっておまえ、わざわざ大学まで行かせてもらったくせにな!俺とは違うんだろ?おまえは俺とは違うんだろ!おい、なんとか言えよクズヤロウ。」

僕の震えはいつの間にか止まっていた。引いた血の気もドクドクと戻ってくるのを感じた。なんだ、僕はただ驚いただけだったんだ。僕は1度深く呼吸をした。

「僕の名前はクズヤロウじゃないよ。久しぶり。元気そうだね?」

僕はくるりと顔を上げ、久しぶりに見る友だちの顔を見た。ずいぶんと変わってしまった。

「なんだよ、なんだよその顔!クビになったくせによ、金ドブに捨てたようなもんじゃねーか。もったいねー。」

僕の指先はほんわりと温かくなっていた。コーヒーの良い香りがする。

「確かに、もったいなかったかもしれないな〜。僕、本当、前だけしか見てなかったからさ。もっといろんな授業、受けとけば良かったかもしれない。でも、まあ、いいや。」

僕はコーヒーを飲んだ。今井さんが僕にコーヒーを淹れてくれるようになって初めて、僕は美味しいコーヒーというものを知った。本当は、今井さんのコーヒーが飲みたい。

「なんだよお前!バカにしてんのか?俺を?金持ちだからって調子にのんじゃねえよ!」

僕は殴られた。ボコっと殴られた。そこそこ痛い。きっと鉄くんも手が痛かったろう。

「クビになったクズのくせに!」

鉄くんはさらに僕を殴ろうと手を握り、振り上げた。しかし、駆けつけた警察官によって押さえ込まれ、僕は殴られずにすんだ。

「お客様、大丈夫ですか?血が!」

僕は口の中を歯で切ってしまっていたらしい。

「ああ、大丈夫ですよ。ちょっと口の中を切っちゃったみたいです。すぐに血も止まりますよ。あの、すみません。お店の中で騒ぎを起こしてしまって…。」

「いいえいいえ!悪いのはあのヤクザみたいな客です。あのヤクザ、大声で喋るからみんな聞こえてましたよ。ひがみですかね〜。でも、言って良いことと悪いことは有りますから。それに殴るなんて、クズヤロウはあいつです。」


僕は店を出ると、なんとなく公園を散歩して歩いた。そして途中の自販機で水を買い、血の味がする口をゆすいだ。少しジンジンするけど、まあ、大したことないや。僕は歩いた。歩きながら鉄くんのことを考えた。僕だってもしかしたら鉄くんのようになっていたかもしれないんだ。


鉄くんと僕は同じ保育園に通っていて、2人ともお父さんがいないという、同じ境遇の中で生きていた。

鉄くんのお母さんも、僕のお母さんも、いつだってお迎えの時間ぴったりに来たことは無かった。仕事をかけ持って働いていたから、いつだって最後まで僕たちは残されていたものである。でもさみしい気持ちだけでは無かった。僕には鉄くんがいてくれたから。僕たちは毎日ずっと一緒だった。小学校に入っても同じで、学童の時間は特に楽しかった。

でも、僕に鉄くんとの違いができてしまった。小学四年の頃、僕の家には僕の父親と名乗る人物からの仕送りが届くようになったのだ。母さんの負担は一気に減り、午前中だけのパートの仕事だけで十分に僕の家は生活できるようになった。

僕は母さんと一緒に過ごす時間が増えて、とても嬉しかった。でも、一方で、鉄くんを裏切ってしまったという暗い気持ちが僕の中で生まれ、その後ろめたさから僕は鉄くんと距離を置くようになった。鉄くんも僕が学童に通わなくなったこともあって、何かを察したのだろう。僕と鉄くんはお互いを避けるようになった。僕は鉄くんという親友を失いはしたものの、それなりに友だちを作ることに成功し、楽しく毎日を過ごしていた。鉄くんは鉄くんで、やはり似たような境遇の友だちを作り、毎日つるんで遊んでいたようであった。

僕と鉄くんの間にできた違いという溝がさらに深くなったのは、中学に上がってからである。鉄くんはいわゆる不良グループに入り、授業を欠席したり、学校の備品を壊すなど問題児と言われる子供になっていった。僕はそんな鉄くんを遠巻きに見ているだけで関わることを避けた。面倒でもあったし、恐くもあったからだ。そして僕は勉強を頑張って進学高に入学し、一方の鉄くんは不良グループたちが通う高校に入学したが、直ぐに辞めてしまったらしい。僕と鉄くんのつながりはそこで一旦切れた。

僕がまた鉄くんと最悪な形で再会したのは、高校3年生の秋であった。僕は今でもありありと覚えている。僕は3年生に上がってから、レベルの高い国公立の大学に通うため、進学塾に通わせてもらっていた。夕方6時から夜の9時までみっちりと勉強した帰り道、僕は同じ塾の友だちと一緒に歩いていた。そこで久しぶりに鉄くんと出会ったのだ。鉄くんは髪を金髪に染め、タバコを吸っていた。そしてなぜか白いスーツを着ていた。僕は一目で鉄くんだと分かった。逆に鉄くんもそうであった。僕は鉄くんに呼び止められ、今何をしているのかと聞かれた。僕は友だちに先に帰ってもらい、鉄くんと2人だけになった。

「久しぶり鉄くん。僕は今、塾が終わって帰るところなんだ。」

「なんだよ塾って。おまえ、大学とか行っちゃうわけ?」

「うん。そうだよ。大学に進学しようと思ってる。」

僕は突き飛ばされた。

「ふざけんじゃねぇー!なんだよ、なんでお前だけいい服着て、塾に通って、大学まで行けんだよ!おかしいだろうが!なんでお前だけ!」

僕は呆然と鉄くんを見ていた。僕は鉄くんを置いて1人だけ恵まれてしまったんだ。忘れていた。僕は毎日の勉強に追われて、自分が恵まれていることを忘れていた。

何も言えなかった。僕は、僕はなんてひどいやつなんだ。

「おまえは俺とは違うんだ。そうだろ?大学行ってまともな仕事について、金を稼ぐんだ。おまえなんかクズのくせに、金があればいいよなー、どんなにバカでも大学行けちゃうんだからさ。おまえみたいなバカでもだぜ?」

僕は怒りがこみ上げてきた。懸命に勉強していたのだ。本当に死ぬ気で勉強をしていた。

「僕はバカじゃない。それに、僕は誰にでも行ける大学に入る訳じゃないんだ!僕は〇〇大学に入って、〇〇社に入る!その為に努力しているんだよ!努力も何もしてないやつが偉そうにすんな!」

僕はあの頃、余裕が無かった。大学に合格することしか考えちゃいなかった。

「そうかよ。俺は努力してねえのかよ、おまえにはそう見えるのかよ!やっぱりおまえはバカでクズだ。おまえみたいなやつが幸せになるなんて間違ってる。」

そう言い残すと、鉄くんは去って行った。僕は手のひらを見た。擦りむいた箇所からうっすらと血が出ていた。


すっかり暗くなってしまった。僕は家へと向かって歩いた。すっかりお腹も減ってしまっていた。

家に入るとカレーの良い香りがした。カレーか…嬉しいような、悲しいような。きっとしみるだろうな。


翌日の朝、僕のほっぺたは異常に腫れ上がり、左目が開けにくい程であった。

朝食の席に座った僕の顔を見た母さんは

「ヒェッ」

と驚き、そして笑い出した。

「笑うなんてひどいよ母さん。僕、ほっぺたが膨れすぎて、肌が引っ張られて痛いんだよ。」

「いや、だって俊治、ヒヒハハハ、見事に丸いんだもの!キレイなカーブよ、ヒヒヒヒハハハハハ!」

僕は病院に行くことにした。今井さんに今の僕の顔を見せる訳にはいかない。


「シュンちゃん!何があったんだよ〜!うわ痛そ〜!」

「えっと、あはは〜。ちょっと殴られちゃって…」

「はあ?シュンちゃんを?誰が?殴るなんてひどい!こんなに素敵なシュンちゃんを殴るなんて!なんてこった!」

予想外の反応に僕はとまどってしまった。てっきり笑われるものだと思っていた。

寿さんも僕のほっぺたを観察している。

「ずいぶんと腫れたな。昨日、よく冷やさないで寝ただろ?あと、殴られた日はなるべく頭を高くして寝た方が翌日の腫れ方が違う。」

「へー、そうなんですか。てっきり昨日食べたカレーが傷口に刺激を与えたからだと思ってました。」

「え?シュンちゃんカレー食べたの?あらー、しみちゃって痛かったでしょ〜?」

「はい、でも食べたかったんですカレー!お腹が減っている時、あの香りを嗅いでしまったらもう、食べたくなっちゃうじゃないですか!」

寿さんはやれやれとため息をついていた。

「それで、シュンちゃんは今日いけるのか?」

「あ、はい、もちろんです。見た目がひどいだけで、たいして痛くないんで。…やっぱりシップは、はがさなきゃダメですよね?違和感凄いし。」

「はがしたほうがいいとは思うが、最近のシップは匂いがしないからまあ、貼ったままでも大丈夫だろう。」

「え!やった!なるべく冷やすようにって今日病院で言われたんで、よかったです。」

寿さんは仕事が始まるまでアイスノンで冷やしているようにと僕に言った。そして、なぜかずっと不機嫌な今井さんに僕の分の用意もするようにと言った。

「おい今井、いつまで唸ってんだ。準備はじめろ。」

「うー、だって、だって寿さん!納得いかないっすよ!なんか腹の中に黒い物がモヤモヤとしてて、どうにも仕事が出来そうじゃない!って感じ!でっす!うーー。」

今井さんは顔をしかめて唸っていた。僕はそんな今井さんの姿が心から嬉しかった。

「今井さん、僕は大丈夫ですから。冷やしておけば大丈夫ってお医者さんにも言われましたし。それに、こんなに今井さんが僕のこと心配してくれるなんて、僕、嬉しいです!だから、仕事しましょう、一緒に。僕たちは歴史変えちまい隊なんですから。」

今井さんはまだ顔をしかめていたが、着替えをもらいに渡部さんのところへ、とぼとぼと向かった。

僕はほっぺたを冷やしながら、今日は少し寒いところに行きたいと思っていた。


また山の中だ。しかも夏、暑い。そして大量の蚊がぶんぶん飛んでいる。

僕と今井さんは、ぱちぱちと何度も身体中に群がる蚊を叩いていた。

「ヤバくね?蚊、ヤバ!だーうるせー!ぷーんぷんうるせー!かいー、刺されまくってる俺!かいー!」

「僕もですよ!凄まじい蚊の量だ。どこか近くに池とかあるんでしょうね。蚊にとっては望ましい環境に違いない。」

シップを貼ってきて正解だった。腫れてるほっぺが大量の蚊に刺されたらもう目も当てられないほど腫れ上がるに違いない。

「ダメだー!退散ー!この場は捨てて移動開始!」

今井さんは腕や手を振り回しながら走った。

「え、待って下さいよ今井さん!」

僕も同様に手をばたばたさせながら走った。

僕たちは走り続けた。しかし、蚊が減ることは無く、汗をかいたおかげでさらに大量の蚊が僕たちの血を求めて襲いかかってきた。しかし、止まることは許されなかった。止まった瞬間、僕たちはきっと、蚊に全ての血液を吸い取られてしまうだろう。

僕たちは疲れきっていた。かれこれ30分近く全力疾走していたのだ。日頃の運動不足のツケが回って、僕たちの脚は震え始め、息は切れ、蚊に刺されすぎて身体中が痛くなってきた。もう、ダメかもしれない。

ヒュッ

前から音がしたと思ったら今井さんがドサリと倒れた。僕は驚き、今井さんのもとへ駆けだした、しかしまた、

ヒュッ

と音がしたと思った瞬間、後頭部に激痛がはしり、僕は気絶した。


目がさめると、僕はパンツ一枚の格好で、縄で縛られていた。後頭部がガンガンする。そして蚊に刺されまくった身体が痛がゆい。縄で擦れる場所はことさらであった。暗くてよくわからないが、どうやらここは洞窟の中のようだ。山賊に襲われてしまったのかもしれない。僕はそっと声をひそめて今井さんを呼んだ。しかし、何度呼んでも返事が無かった。僕は今井さんの身に何か大変なことが起きてしまったのかと、恐怖に襲われた。そういえは、過去にいる時はいつも僕は今井さんと一緒であった。僕は今、初めて一人で訳のわからない過去の時間に居る。さみしい。僕はなんとか立ち上がると、今井さんを探しに奥へと歩き出した。


水が滴る音が響く。やはりここは洞窟の中だ。気温も低い。蚊に刺されて熱を持ってるから寒くはないが、夏にしては相当低い。おかげで蚊がいなくて助かる。地面の石のぬめりがひどい。僕は何度かすべって転んだ。痛かったが、それよりも早く今井さんを見つけ出したかった。

どれくらい歩いただろう。前方にかすかな灯りが見えた。人の声もする。しかし、何を言っているのかがわからない。僕は転ばないように注意しながら灯りの方向に進んでいった。

「だから!シュンちゃんはどこ?って聞いてんの俺は!だー、話がわからんやつらだな!離せってばなんだよ!そんなに頭下げたって許してやんないよ!もー!だからなんで拝んでんの?」

今井さんだ!僕は駆けだした。転びながらも必死に走った。今井さん!

「今井さん!今井さん!ここにいたんですか…ってえー!」

今井さんはなぜか人びとに拝まれまくっていた。

「あ!シュンちゃん!シュンちゃんだ!もーどこに居たんだよ…ってえー!」

今井さんは僕の身体がアザだらけなのを見て驚いた。

「シュンちゃん、どしたの、そんなにアザだらけになっちゃって!無惨すぎるよ〜!」

「しょうがなかったんですよ、石が異常にヌメヌメしていて脚を取られたんです。それよりも今井さん、なんですかそのパンツ!ヤバイくらい派手ですよ、…あーなるほど、きっとそのパンツが理由で。」

「え、このパンツそんなに派手かなー?なんかさ、青森に行ったお土産でもらったんだよね〜。ね○たパンツ!カッコイイでしょ〜!俺ちょーお気に入り!」


僕は今、布団をかぶり横たわっている。

痛み止めのおかげで、痛みは和らいでいるが、熱がなかなか下がらない。

全身がだるく、頭もぼんやりとして不快だ。

階段が軋む音と、ビニール袋が揺れる音がする。

戸が開き、母さんが僕の部屋に入ってきた。

「俊治、具合どう?ゼリー買ってきたんだけど、食べられる?」

母さんは僕の布団の横にゼリーをいくつか並べた。

ミカンゼリーに、ブドウゼリー、モモゼリー、グレープフルーツゼリー…

僕は起き上がり、サッパリしたグレープフルーツゼリーを手に取った。

「食べ終わったらシップ、交換しましょう。しばらくお風呂も無理だろうからほら!これ、身体拭きシート、あと、ドライシャンプー!便利よねー、水が無くても頭が洗えちゃうなんて!お母さんびっくりしちゃった。」

僕は果肉たっぷりの、いつもより豪華なゼリーを食べながら、うんうんと頷いていた。ちょっと口の中が痛いけどサッパリして美味しい。

「熱は?まだ下がらないの?ふー。あなたも災難よね〜。前日は殴られ、次の日はこれでもかと転び。俊治って運が悪い方だったのね。きっとお父さんに似たんだわ。あの人も愛嬌はあったけど、ちょっとまぬけだったもの。」

「運が悪いとかの話じゃ無かった?なんで僕がまぬけなんだよ。」

「あら、そうだっけ?だってあなた、大人になってから普通こんなに激しく転ばないわよ?十分におまぬけじゃないの。でも安心して、俊治は愛嬌バツグンだから。ハムちゃんの次に。」

「ネズミの次かよ…」

「ネズミじゃなくて、ハムスター!全然違うじゃないの!やっぱりあなたはおまぬけね。」


僕は2週間、会社を休んだ。

僕は全身打撲に、肋骨2本にヒビを入れ、さらに大量の蚊に刺されことによる身体の疲労が重なったのだ。


僕が会社を休み始めて5日後、寿さんがお見舞いに来た。手土産は豪華なフルーツセットであった。僕は我慢すればイスに座れた(ケツと背中が痛いため)のだが、寿さんは僕の部屋に行くと言い張り、僕は助かった。母さんは不満そうであったが。


「今回の件で今井もそれなりにダメージを負ってしまってな。見舞いに来れないことをずいぶんと悔しがっていたよ。辛そうだな。すまなかった。医療費の方は会社が全額負担する。十分に休んでくれ。給料の方も心配するな、出勤あつかいにしている。」

「ありがとうございます。あの、今井さんは大丈夫なんですか?僕と同じように蚊に刺されまくってたので、熱とか出てたりしてますよね?僕には母さんがいますけど、今井さんは…今井さん、子供がいるって言っていたけど、きっと離婚とかしちゃったんですよね?だって教育費とか、生活費とか言ってましたし。あの、僕、考えてたんですけど、今井さんも僕の家で休息をとった方がいいと思うんです!母さんにも話はしてあります!負担とかは大丈夫だと思います、息子がもう一人増えて楽しそうだとか言ってむしろ喜んでますし。」

寿さんは僕の話を聞き、うなずいた。

「ありがとうシュンちゃん。しかし安心しろ。今井のことは大丈夫だ。実はな、今井や君がいないと俺はやる事がほとんど無いんだ。資料整理くらいしかな。だから、今井は俺の家で面倒を見ている。それに、今井よりも君の方が深刻だ。今井のことは俺に任せてシュンちゃんはゆっくり身体を休めてくれ。」

僕は今井さんが家に来てくれたら楽しいだろうと期待していたため、少し残念であった。しかし、寿さんに任せておけば今井さんの健康は大丈夫だろうと気を取り直した。

「そうですか。分かりました。今井さんをよろしくお願いします。」


僕は今井さんの影響を受けたのか、休みの間は毎日ぐーぐーとぐっすり眠り、のんきに暮らした。こんなに気楽に生活したのは久しぶりであった。おかげで僕はむくむくと回復し、予定よりも早く復帰を果たした。


歴史を変える仕事の他に、僕にはもう一つ仕事ができた。仕事といっても、個人的なもので、給料なんてもちろん出ない。

鉄くんを探す。

僕の仕事は鉄くんを探し出すこと。その後はまだ決めていない、決めるというよりも、知らないといった方が正しいかもしれない。

人を探すなんて、初めてだ。そういえば、ここ最近の僕の身には初めてのことばかり起こっている。しかしながら、改めて考えてみると、生きているうちに起こるさまざまな出来事の大半は、きっと初めての経験なのではなかろうか?そう考えると、鉄くんを探すという仕事はそまで難しいわけではない気がしてきた。僕はきっと鉄くんを探し出すに違いない。


「思うようにはいかないものですね。」

僕はコーヒーを飲みながら、ため息をついた。

「なんだよシュンちゃん、また鉄クズのこと考えてたの?あーいやだいやだ!鉄クズなんて蹴飛ばしてやる!」

今井さんは僕の靴を軽く蹴飛ばし始めた。

「蹴飛ばさないでください。それに鉄クズじゃなくて、鉄くんです。はー。どこ行っちゃったんだろ?僕の探し方が悪いのかな?同じ町にいるはずなのに…。」

僕は今井さんに淹れてもらったコーヒーを見つめていた。真っ黒なブラックコーヒー。あの時も、鉄くんと再会したあの時も僕はこんなコーヒーを飲んでいたっけな。あれ?鉄くん、もしかしてコーヒーとか好きなのかな?…

僕の中に希望の芽がにょきりと生まれた。コーヒー店を巡ろう。もしかしたら鉄くんに会えるかもしれない。

「ああー!シュンちゃん今笑った!さては、なんかいい案でも浮かんだんだな!最悪!鉄クズとシュンちゃんが会うなんてもうサイアクー!」

「最悪とか言わないで下さいよ。…今井さん、僕は鉄くんに会わなきゃいけないんです。僕は鉄くんにひどいことばかりしてしまったから。謝りたいのかもしれません。僕はずっと自分のことばかり考えていて、鉄くんに申し訳ないんです。」

謝ったところでなにも変わらないけれど。

「ふーん。俺はお互いさまな気がするけどね。鉄クズもきっと自分のことばっか考えてたと思うよ俺。しかも、シュンちゃんも鉄クズも子どもだったし。大人でも間違えてばっかなのに、子どもが間違えない訳が無いでしょうよ。だからね、シュンちゃんは申し訳ないとか思う必要ゼロ。お互いさま。まあ、生活環境を考慮すると鉄クズにも同情の余地ありだけど、結局あれよ、鉄クズの父親が悪い!諸悪の親玉!メタクソ親父!クソジジイー!」

「お父さんか…。そうですね。あの、僕も母子家庭で育ったんですけど、小学校4年生くらいの時、お父さんから急にお金が届き始めて。そのおかげで母さんも僕も不自由なく暮らしてこれたんですけど、…僕と鉄くんが距離を置き始めたきっかけがお父さんからの仕送りだったんです。ふー。どうして僕のお父さんは変なタイミングで仕送りとか始めたんですかね?きっと僕のお父さんは他の女の人と結婚した後、僕の存在を何かのきっかけで知って慌てて仕送りをしだしたんだと思うんです。しょうがないとは思うんですけど。ちょっと無責任ですよね?父親が悪いっていうのは当たってます。あ!今井さんのことじゃないですからね!今井さんはしっかりとお子さんの為に働いてますし、あくまで僕の父親と鉄くんの父親が悪いんです!えっ今井さん、今井さんのことじゃないって言ってるじゃないですか!そんな悲しい顔しないで下さい!ええ!泣かないで下さいよ今井さん!今井さんは頑張ってるじゃないですか!今井さんは良いお父さんですよ!僕のお父さんも今井さんみたいな人だったらいいなって思っちゃうくらいですから!」

今井さんはまだシクシクと泣いていた。

「ごめんねシュンちゃん、俺、悲しくなっちゃって。なんか泣けてきちゃったんだよね〜。ほら、俺ってアホだからさ、きっと子どもにも迷惑かけまくってると思うんだ。だって俺、アホなんだもん。」

「そんなこと!そんなことあるわけ無いじゃないですか!今井さんはアホじゃ無いです!えっとちょっと自由なところはありますけど、それくらいじゃないと今のこの仕事はやっていけません!」

「そうかなぁ〜?」

「そうですよ。弱気になるなんて今井さんらしくないじゃないですか。今井さんは自由なままでいる方が良いんです。今井さんが真面目になっちゃったら僕、悲しいです。だって僕、ありのままの今井さんが好きですから。あ、えっと、後輩としてっていうか、仲間としてですけど。」

「シュンちゃん、俺のこと好きなの?本当⁈本当に⁈」

「えっあ、はい。後輩としてですけど、す、好きですけど…」

「えー!シュンちゃん!俺のこと好きなんだ!ふへ、シュンちゃんが俺のこと好き…ふへへ」

「あ、あの今井さん…」

今井さんってまさか…いやいやいや。今井さんにはお子さんがいるんだからそんな訳無い。でもこんなに喜ぶなんて。異常じゃ無いか?

僕は若干、動揺した。

「え?なにシュンちゃん!俺のこと好きなシュンちゃん!どうしたの〜?」

「あ、いえなんでも無いです。なんでも無いです。」

やっぱり変だ。もしかして、もしかするのかこれは?

ガチャリと音がして、寿さんが顔を出した。

「おい、20分後に仕事、始めるぞ。さっさと準備しろ。」



あれ?ここってまさか…

「シュンちゃん!ここってさ、蚊がヤバかったとこじゃない?今はいないけど。っていうか、道ができてるし。とりあえず道を歩くか。」

「はい。そうですね。それにしても、蚊がいなくて良かったですね。」

僕たちはいつの間にか造られていた道を歩いた。

「あれから結構さ、時間経ってんじゃない?ほら、お地蔵さんまで設置されてる。江戸時代とか?」

「もしかするとそれくらい近代かもしれません。…ところで今井さん、今日は大丈夫ですよね?」

「うん!ばっちりだよ!はち切れんばかりに元気!」

「あ、はい。元気なことはすごく良いと思います。ですが、そのことでは無くて、つまり、その、今日は例のパンツを、はいてはいないですよね?」

僕はあの事件以来、こっそりと今井さんのパンツをチェックしていたのだが、今日は朝の会話のこともあり、チェックしていなかった。今井さんはあのパンツをごく普通にはいて歴史の旅に出ようとするので、僕が履き替えさせたことがたびたびあった。

「大丈夫。同じパンツははいてないさ!フフフ、実はねシュンちゃん、俺、ネット通販で新しい柄のね○たパンツを手に入れたんだよ〜ん!今日はそっちをはいてきた!あ、見たい?」

僕は初めて今井さんをぶん殴りたくなった。でも僕は殴られる痛みを知る男なので、こらえた。

僕は自らの怒りを鎮めるため、深呼吸を繰り返した。

落ちつけ。落ち着くんだ俊治。今日僕は今井さんの心に傷をつけてしまったばかりじゃないか。それに、これはチェックを怠った僕の責任でもある。そう、今井さんが悪いんじゃない。僕の管理が不足していたんだ。つまり、僕の責任だ。よし。そうだ、ようは今井さんがパンツを見せなければ問題はないんだ。

「今井さん、今日はしっかりボロ布を身に着けていて下さいね。絶対にね○たパンツをこの時代の誰かに見せちゃいけませんよ。」

「分かってるって、シュンちゃん。このね○たパンツはね、俺のお気に入りってだけじゃ無くて、今日こそは歴史の壁に風穴あけてやる!っていう気合いがこもっているわけ。ほら、赤いパンツを履くと良いことあるっていうじゃない?だからさ、ね○たパンツを履くと戦闘力が高まる気がするんだよね〜。」

「そうですか。でも、目立つ服装をしちゃダメだってはじめに僕に伝えたのは、今井さんだったじゃないですか。変ですよ。」

「だってさ、シュンちゃんってば、すごく頼りがいが出てきてさ、なんか力が抜けてきちゃってるんだよー。緊張感がますますなくなっちゃったーえへ。」

僕はため息をついた。

「とにかく、この場所では特にそのパンツは危険なので注意して下さい。」

「へーい。ガッテンしょうちのすけ!」

「今井さん、古いです。それにしても、人っ子一人いませんね。どういうことでしょう?」

「さあねー、でもやっちまわないと仕事にならないな〜。落とし穴でも作ろうかなぁ〜。」

今井さんは草むらの方を覗き込みながら歩いていた。

石を探しているに違いない。

「そうですね。石でも探しますか…あ!あそこに座っているのはもしかして人…ですかね?」

「ん?おお!人だ!地蔵さんかと思った!うへー、やっといた。シュンちゃん、話しかけてみようぜ!」

今井さんは走り出した。僕もすぐ後を追った。


お地蔵さんによく似た人は高齢のおじいさんであった。そして今、僕はおじいさんを背負って歩いている。今日は村の神様の祭りらしいのだが、途中で足腰が立たなくなってしまったのだという。

僕たちはおじいさんを祭りの場所まで連れて行くことにした。やらかす仕事は出来ないけれど、残念そうに縮こまるおじいさんを放ってはおけなかった。しかし、想像よりも祭りの場所までの道のりは険しく、僕はかなり息が切れた。

「シュンちゃん大丈夫?俺、いつでも代われるよ?」

僕は首を横に振った。今井さんにこんなか弱い老人を任せる訳にはいかない!心配すぎる!

どれくらい経ったのだろうか、僕たちはおじいさんの案内に従って山を登った。そして洞穴のような場所にたどり着いた。

僕はおじいさんを慎重に下ろし、息を整えた。

目的の場所を目の前にして元気が出てきたのだろうか、おじいさんは洞穴に向かって歩き始めた。

「おいじいちゃん!そんな暗いところに一人で入ったら危ないから!って聞いてないし!シュンちゃん!行くよ!いつ足を滑らせて頭を打ちつけるかわかんないよ〜、きっと一回でおだぶつだよ!」

今井さんはおじいさんにしがみつき、歩みを止めた。

しかし、祭りが終わらんうちにとおじいさんは夢中で歩き出そうとする。

「だーからなんで急いで進もうとするのさ、死んじゃったらお祭り行けなくなるでしょ?ゆっくり行こうってゆっくり!シュンちゃん、行こう!」


僕と今井さん、そしておじいさんは洞くつの中を歩いていた。ここはやはり…

僕は今井さんに小声で話しかけた。

「ここって僕たちが連れてこられた洞くつですよね?」

「だよね〜なんか匂いが同じだもん。俺、入った瞬間分かった!」

「え?匂いですか?それは分かりませんでしたけど…とにかく、僕たちが連れてこられた頃よりもだいぶ歩きやすくて、道が造られているのがすごいです。祭りと言うだけあって、松明の数もすごいですし、…なんか人の声、してきましたね。」

その時、僕たちと一緒にゆっくり歩いていたおじいさんが急に走り出した。

「え!」

「え!」

僕たちはおじいさんを追いかけ、腕をつかんだ。

そして一緒にまた歩き出した。2人に腕をつかまれたおじいさんはかんねんしたのか、走り出すのを止めた。

「ダーメだってば!すっ転んであの世行きだから!なんで急に走りだすかな〜、興奮すると血管破裂だよ?そしてあの世行きになっちゃうよ?」

「今井さん、あの世行きとか言わないで下さい。きっと人の声とか太鼓の音で、早く行きたくなってしまったんです。昔の方は祭りを大切にしているんです。」

僕はおじいさんに話しかけた。

「もうすぐですから、転ばないように行きましょう?まだ祭りは終わっていません。それに、ほら、人が見えてきました。踊ってますね。」

1人の派手なフンドシをした男が面を被って踊っていた。

おじいさんはあの踊りは昔、この地に現れた男の神様の動作を真似たもので、選ばれた男だけが祭りのさいに踊ることができると教えてくれた。おじいさんも昔は何度も踊ったという。

僕たちは無事、お祭りに参加を果たし、派手なフンドシと、途中から加わった白いフンドシの、2人の男たちの踊る姿を見た。それは洞くつの中では危ないくらいの激しい踊りであった。

踊りを見学するうちに僕はある事に気がついた。この2人の神様ってもしかして…僕は派手なフンドシの柄をじっくりと見た、すると、凛々しい武士の姿が描かれており、その顔はね○たの絵にそっくりであった。

マジか…。心なしか男のかぶる面の顔が今井さんに似ているような気がする…ということは、あっちが僕か。なるほど、膨らんだほっぺたや、貼ったままであったシップもしっかり再現されている。それにしても、僕ってあんなにブサイクだったっけ。

僕は今井さんの方を見た。今井さんもきっと気がついているに違いない。

「今井さ…ってええ!ちょっと、今井さん!なに寝てるんですか!失礼でしょ!起きて下さいよ!」

「んあ?あれシュンちゃん。お祭り、まだ終わってなかったね。よかった。俺、ちょっとトイレ。はーねむいねむねむっと。」

今井さんはトイレをしに洞くつの外へ向かった。

まさかこんな大音量のなかで眠るとは…さすがだ、今井さん。

今井さんがトイレに立って数分後、僕は重大な事に気がついた。僕は血の気が引いた。やばい。パンツ。今井さんのパンツ!

僕は気づくや否やすぐに今井さんのもとに向かった。今、あのパンツを誰かに見られたら、やばい。なんかやばい気がする!

角を曲がるとすぐに僕は今井さんとばったり会った。

「あれれ?シュンちゃんどうしたの?シュンちゃんもトイレ?」

「いいえ、違います。今井さんのパンツが心配で…でも良かった。何事もなくて。」

「えー?何事か起こさないと仕事にならないじゃん!まったく!シュンちゃんはおかしな子ね!」

「確かにそうですけど…」

「あ、祭り終わったのかな?みんなぞろぞろ出てきた。俺たちもそろそろ帰る時間だな〜。おじいちゃんを送り届けて終わりとはねー。今日はダメだったなー。」

今井さんは出口に引きかえそうと向きを変え、歩き始めた。僕も続いて歩き始めた時、僕の右足がつるりと滑った。びっくりした僕は目の前にあった今井さんのズボンを引っ張ってしまった。

「あ!」

僕はね○たの武士と目が合った。


「でも良かったよね〜シュンちゃんあのまま転ばなくって。危なくアゴを粉砕するところだった!コッパミジン!」

僕と今井さん、そして寿さんは今日の反省会をしている。テーブルの上にはいつのまにかおせんべいが置かれていた。そして寿さんはお茶を淹れてくれている。

「申し訳なさでいっぱいで…僕、それどころじゃないです。絶対見られましたよ。なんで僕、よりにもよって今井さんのズボンをつかんでしまうなんて…どうして上着をつかめなかったのか!僕ったらもう!」

「つかむ前提なんだな。ほら、お茶飲んで落ち着け。」

僕はお礼を言ってお茶を受け取った。

「シュンちゃん、シュンちゃんはさ、良い仕事したんだと俺、思うんだけど!だって絶対に衝撃を与えたよ!あの場全員にさ、かなりのね!」

今井さんはおせんべいをバリバリとかじりながら話した。

「衣服による歴史の変更は危険だからあまりよろしくは無いが、こちらに戻る直前なのなら、そうだな。今井の言う通り、シュンちゃんは良い仕事をしたのだと俺も思う。今井、こぼし過ぎだ。食いながら喋るな。」

「あの、どうして衣服による歴史の変更は危険なんでしょうか?考えてみると、変な格好で歩き回るとか、踊ってみるとかした方が手っ取り早い気がするんですけど。」

今井さんは喋ることよりも食べることを優先したようで、ニコニコと笑いながら僕を見るだけであった。

「ここで起こった事故では無いが、別の歴史変更施設で、以前、死人が出たんだ。銃で頭を撃ち抜かれてしまってな。だが歴史変更施設で起こった事故だ。すぐに無かった事にはなったが。やはり、突飛な格好で歩くのは、その時代の人々をかなり驚かせてしまう。だから、殺される確率も上がる。無かった事にできるとしても、危ないことは避けるべきだ。」

「そうだったんですか。確かに、僕と今井さんも殺されそうになったことが何度かありましたし…。むやみに驚かせるのは危険ですね。」

僕もおせんべいを一つ、手に取った。今井さんの食べる音があまりにも美味しそうで、つい、食べたくなってしまったのだ。


仕事帰りの僕は、鉄くんを探すため、いや、鉄くんに会うために、コーヒー店をうろついて回った。確率の高そうなチェーン店から見て回り、次に個人店にも顔を出した。個人店での捜索は、かなり勇気がいったがしかし、店主から直接、鉄くんの情報を聞く事ができるため、有益ではあった。


数日後、早めに仕事を終えた僕は、鉄くんらしき人物が出入りするというコーヒーの個人店を回っていた。店主の人たちとはすっかり顔見知りになった。毎日長時間訪れているから当然だ。

二軒を回り終え、三軒目の店まで歩いていると、僕は後ろから肩を叩かれた。驚いて振り向くと、渡部さんが立っていた。

「鉄くんって子、まだ見つからないんだ。まあ、この町広いし、人探しは大変かもね。私、車で通勤してるから、そこら辺、シュンちゃんを乗せて走ってあげてもいいよ。シュンちゃんって頑張り屋だから、とくべつね。」


僕は渡部さんの助手席に乗せてもらい、町内を一緒にドライブすることになった。渡部さんの車は真っ赤で小さくて、可愛らしかった。

「渡部さん、ハイヒール履いてないですね。僕、急に肩叩かれたからびっくりしましたよ。あと、ちょっと期待しちゃいました。鉄くんかもって。」

「男と間違えないでくれる?ハイヒールは車運転しにくいから、朝と帰りはスニーカー。ねえ、鉄くんって子髪染めてんの?」

「いえ、染めてませんでした。えっと、髪は短くて、ピアスをしていて、背はそこまで高くありません。服装はヤクザみたいな感じです。ダボダボの、えっと、虎の刺繍が入った革ジャン着てました。まだ肌寒いですからね。」

「ふーん。それで、顔は?イケメン?」

「イケメン…では無いかもしれませんけど、ブサイクでは無いです!」

「へー。つまらん。」

「すみません。」

渡部さんは出来るだけゆっくりと運転してくれた。僕は久しぶりにふるさとをじっくり見て回り、改めて、鉄くんに会いたくなった。

僕と渡部さんは商店が並ぶ通りをドライブしていた。よく母さんと来たものだ。

そして僕は見つけた。鉄くんを。

僕は驚きと興奮と嬉しさとが一気に押し寄せてきたことにより、思わず叫んでしまった。

「ああー!鉄くんいたー!」

渡部さんは僕の叫び声に大して驚くこと無く、冷静に近くのパーキングエリアまで車を走らせ、駐車した。

僕は車が止まるや否や先に行きますと渡部さんに告げ、走り出した。


「て、鉄くん!」

鉄くんはお茶屋さんの前に設置されたベンチに一人、腰掛けていた。

僕に名前を呼ばれた鉄くんは驚いてうつむいていた顔を上げ、僕を見た。

「鉄くん!…えっと、僕、君を探してて、…また君と話がしたくって。…隣に座っていい?」

鉄くんは立ち上がり、僕を睨みつけた。

「なんだよ、おまえは。クビにされたんだったらよ、就活しろよ、必死こいてよ。俺を探してた?バカ言ってんじゃねえよ。クズが!」

鉄くんはまた僕を殴ろうと腕を振り上げた。

殴られる!

「ちょっと!鉄クズあんた止めなさいよ!」

後ろから声がした。渡部さんだ。

渡部さんはスタスタと僕の前、鉄くんと僕の間に立った。腕を組んだ渡部さんは、鉄くんを鋭く睨みつけていた。

「なんだよ、てめー誰だよ!」

「私はシュンちゃんの先輩よ!あんたまたシュンちゃんを殴ろうとしたわね?いい?鉄クズ、もしもまたシュンちゃんに怪我させたら百叩きの刑よ。私、握力強いから、100回だろうが200回だろうが執拗にぶっ叩けるから。シュンちゃんはね、あんたに会いたくて毎日毎日探し続けてたんだからね。大人ならね、無駄な悪口ばっか言ってないでちゃんと話をしなさいよ!」

鉄くんは呆気にとられて渡部さんを見ていた。


「私、ミントティーで。あと、この二人にはこの、リラックスハーブティーをお願いします。」

僕と鉄くんは渡部さんに連れられて、オシャレな喫茶店に来ていた。お客さんも店員さんもみんな女の人ばかりで、僕は少し緊張していた。鉄くんも目のやり場に困ったようにキョロキョロしている。

「なに二人とも黙ってんの。存分に話し合いなさいよ。」

渡部さんは奥に腰掛けている僕たち二人を見ていた。

目が鋭い。

「はぁー。まあ、こんなもんよね。仕方ない。それで、鉄クズ、あんたちゃんと生活してんの?顔色サイアクだけど。」

鉄くんは顔をそむけただけで何も言わなかった。

言われて見れば確かに、鉄くんの顔色は悪かった。寝ていないのだろうか、目の下にはくっきりとクマができている。

「ふーん、そして、何日家に帰って無いの?もしかして住む場所無いとか?」

渡部さんは鋭い質問を続けた。

鉄くんが何かを言いかけた時、店員さんがハーブティーを運んで僕たちの席にやってきた。」

「お待たせしました。こちら、ミントティー、そしてリラックスハーブティーになります。ごゆっくりどうぞ。」

店員さんは微笑みながらハーブティーを渡してくれた。ハーブの複雑な香りがする。

「まあ、飲みなよ。ここのハーブティー美味しいから。」

渡部さんはミントティーを美味しそうに飲んでいた。僕もリラックスハーブティーとやらを口にした。やはり、複雑な香りがするが、美味しい。

「渡部さん、僕、ハーブティーって初めて飲みました!美味しいです!さらに健康に良いなんて、お得ですねー。」

「でしょー?私も最近飲み始めたんだけどさ、お店で飲むのが一番美味しいのよ!スーパーで買うティーパックのハーブティーとは全然香りも味も違うの!驚きよねー!ほら、鉄クズ、あんたが一番必要なんだから、早く飲みなさい!」

「そうだよ鉄くん!美味しいよ!なんかハマっちゃいそう。」

「ハマりなよー!今井なんかとばっかつるんでると良く無いからさー。私と一緒にお店回りしようよー!鉄クズ、あんたもハマっちゃったら仲間に入れてあげる!もちろん私のおごりよ!後輩におごってあげるなんて久しぶりー!懐かしいなー。」

「渡部さん、部活とかしてたんですか?さっき握力がどうとか言ってましたよね?」

「バリバリしてたわよ!柔道部だったから私。懐かしいわねー。今でも道場に通って鍛えてるんだ。人をぶん投げるとスッキリしていいもんよ。」

「へー!すごいです渡部さん!僕も柔道やりたいです!最近仕事で、危ないことも増えてきたじゃないですか?僕、何か身に付けたいと思ってたところなんですよー。今井さんを守れるのは僕だけですから。」

「あらー!カッコいいー!シュンちゃんが今井を守ってあげるんだ。エライねー。じゃあさ、明後日の仕事終わりに連れてってあげる!初心者コースも有るから安心して鍛え始めるといいよ。シュンちゃんはセンスありそうだからすぐに強くなっちゃうわ。そして今井とかがバカやったらぶん投げちゃえばいいのよ。スッキリすること間違い無しだから!」

僕と渡部さんは鉄くんをそっちのけで話をしていたが、渡部さんはいつの間にか鋭い視線を鉄くんに向けていた。

「そういえば鉄クズ、今、安心して暮らす家はあるの?黙ってないで答えな。」

鉄くんは渡部さんの言葉に気圧されていた。そして、やっと口を開いた。

「ない。そんな場所あるわけねえだろ?俺はお前らとは違うんだ。」

「あっそ。じゃあ、鉄クズあんた、今日から私の家に来なさい。ちょうど同居人も居なくなったところだし、お金の心配はしなくていいわ。私、そこそこ稼いでるから。あんた一人養うくらい簡単よ。善は急げね、ハーブティー飲み終わったなら行くわよ。でもその前に、シュンちゃんと鉄クズ、あんたたち、また友達になりなさい。ほら、握手。」

渡部さんは僕と鉄くんのてをわしりとつかみ、拒む鉄くんを自慢の握力で黙らせると、しっかりと握手をさせた。僕は鉄くんの手をしっかりと握った。鉄くんも僕の手を握り返してくれた。


僕は春がいまいち苦手である。

「春ってさ、始まりの季節じゃん。みんなが進んでく季節。僕、ストレートに進めた方だけど、いつも置いて行かれないように必死だった。今思うとそんなに頑張るっていうか、恐がる必要無かったかもしれないなって。でも身体に刻み込まれているんだよ、始まるよー!って。春が来ると妙に落ち着かない。」

僕と鉄くんは、早くも散り始めた桜の木の下、コンビニで買ったカップコーヒーを手に花見をしていた。

「へー、俊治、そんなこと感じてたんだ。俺は別にみんなと一緒に進もうとか考えちゃいなかったからなー、春はけっこう好き。俺、寒いの苦手だからさ。」

鉄くんは両手で温かいコーヒーのカップを持っていた。

「だったら今の職場、鉄くんにぴったりじゃない?ガラスを溶かすんだから冬でもあったかだね。」

鉄くんは渡部さんの家に住みながら、ガラス細工職人の仕事を始めた。鉄くん曰く、たまたま求人があったから、らしい。そして、まだまだ見習いなため、給料は低いらしい。

「あったかどころじゃないけどな。職場じゃ汗かきまくりだ。熱中症に注意だよ。だからさ、温度差が身体にくるんだよ。中が暑くて外が寒い。初めの頃はきつかった。」

風が吹き、桜が舞う。

こうして鉄くんと話が出来るなんて、一年前の僕、仕事を辞めて絶望の中にいた僕には考えられないことだ。

「俊治、おまえ今から柔道教室だろ?よく続くよなー。汗臭そう。」

「まあ、それなりに汗はかくから臭くもなるさ。でも僕は臭いということがどういうものなのかを知ってるからね。へっちゃらだよ。」

「なんだよそれ。俺は汗臭いのとか未だに慣れねえ。俊治は変わったからなー。俺、今の俊治、いいと思う。なんか余裕がある。うん。余裕があるって大事だよなー。俺、麗子さんの家に住まわせてもらって、やっと落ち着いたからさ。落ち着いて、余裕を持つって幸せだよ。幸せなことだよ。」

「鉄くんが…大人な発言を…。あの鉄くんが…。さすがだなぁ渡部さん。」

僕は渡部さんに改めて感謝した。


僕の通勤している会社は外見がとにかくボロい。中に入ってもそこそこにボロい。

そんな会社の周りには、新しく、オシャレな家やショップが次々と軒を連ねて建設されている。

結果、ますます会社のボロさが目立つ。


仕事終わりの風呂上り、僕は冷蔵庫に入っていたリンゴジュースを飲みながら、隣で同様にジュースを飲む今井さんに、何気なくつぶやいた。

「今の時代に新しく建てられる家は、古くなるとなんかゴミって感じになりますよね。昔の家は自然に帰る感じなのに…。」

「あー。分かるかも。古くてカッコいい家はある程度昔の家だけだな〜。この会社もけっこうゴミ寄りだよねー。もうこのボロさといったら、俺、なんも言えねえ。マジ、何も、言えない。」

「カモフラージュですかねー?この建物を見て、歴史の変更が行われているとは誰も思いませんから。むしろ、ジャマにされてません?通り行く人が嫌だなぁって顔で見てましたし。周りがオシャレだから景観を壊してるんですよ。」

「リフォームしてくんないかなー。リフォーム〜!」

「そりゃ無理だ。そんで、寿さんは?」

目の前に男が立っていた。

「ありゃー!未来さん、おひさですー!相変わらず突然のお出まして。寿さんは資料室っすよ。」

「面倒くさい。ヨイショ。寿さんが来たら教えて。」

未来さんと呼ばれた無精髭を生やした男は、椅子に腰掛け、すーすーと寝始めた。

「あーあ、俺、寿さん呼んでくるからシュンちゃん、未来さん起こしといて〜。この人ぐっすり寝ちゃうとなかなか起きないからさ〜、未来に戻る時間まで寝てたことあるからね!何しに来たんだってはなし。んじゃヨロピク!」

未来に戻るって…この人、未来から来たんだ…。すごい。当たり前に未来人に会ってしまった。

僕はとりあえず、未来さんを揺すって起こした。

「未来さん!起きて下さい!仕事中ですよー!」

未来さんはぱちりと目を開けると、僕のことをジーと見つめた。ちょっと怖い。

「あれ、君だれ?」

「え!僕は、えっと、後藤俊治と言います。」

「後藤俊治…ああ、シュンちゃんね。今井さんの子供か。」

「え?」

僕は一瞬頭が真っ白になった。そして、僕の脳みそは未来さんの言葉をはんすうし始めた。

「ああ、シュンちゃんね。今井さんの子供か。ああ、シュンちゃんね。今井さんの子供か。ああ、シュンちゃんね。今井さんの子供か…」

僕が硬直しているうちに、今井さんと寿さんが部屋に入って来た。

「シュンちゃん!サンキューねー!まったく未来さんは!すきあらば寝ようとするんだから!気持ちは分かるけど!」

「未来さん。変化が起きたんですね?良い変化ですか?それとも悪くなりましたか?」

「寿さん。ご安心を。良い変化です。非常にね。具体的に言うと、6番目の存在が消えました。一桁台の存在の消滅は非常に珍しい。さすがは今井さんです。天然の逸材は効果が強い。今日はその事を伝えに来たんです。これからも、どうぞよろしくお願いします。では、失礼。」

未来さんはスッと消えた。


「6番目かー。まあ、そのために俺らは仕事してるんだけどさ。1番目は絶対に消したく無い。」

今井さんは渋い顔をした。

「安心しろ、今の時点では1番目の消去は不可能だ。6番目を消したのか…。喜ぶべきことではあるが、なんとも言いようがないな。」

寿さんはも心なしか暗い顔をしている。

良い変化が起こったんじゃないのか?

僕は戸惑いながら二人を見ていた。

寿さんは、一人戸惑う僕に気づいた。

「シュンちゃん。こっちに座ってくれないか?俺たちの仕事の目的を今から話す。一つ、注意しておきたいのは、あくまで、俺が知ってることだけしか君に教えることしか出来ないことだ。このことについての研究は、未来において日々進んでいる。だから俺の知識が最新のものでは決して無いことを承知してもらいたい。俺もこの時代に生まれた人間だからな。未来さんからの情報のみが頼りなんだ。」

僕は言われた通りに寿さんが指定した席に座った。僕は知らない事が多すぎる。きっと今、僕はずっと知りたかった歴史の変更の必要性を教えてもらえるんだ。知っても良い時期になったに違いない。しっかり教えて貰わなければ。

僕が座るとすぐ、寿さんは話を始めた。

「まずは、どうして歴史を変更しなくてはならないかを話そうか。シュンちゃんが1番知りたいことだろう。俺たち人間はな、未来においては非常に珍しい存在になっている。つまり、急激な人口減少により、人間という生き物が消えかけている。どうしてそんな事態に陥ってしまったのか。未来の人間は研究したんだ。いや、未だ研究の過程にある。そこでつきとめられたのは、20のある人間の存在だった。その人たちのことを我々は発生順に1番目から20番目と呼んでいる。では、なぜ20の人間が原因で急激な人口減少が始まり、続いてしまうのか。20の人々はごく普通の人であって、何か、例えば化学兵器なんかを造り出すなんてことは一切しない。しかし、その人々が存在するというだけで、必ず人口減少が起きてしまう。だからまず、未来の人間は20の人間が生まれないように歴史を変更した。まあ、当たり前だな。かわいそうだが、やむを得ない。しかし、新たに生まれてくるんだよ20の人間が、別の人間としてね。そしてまたもや歴史を変更する。しかし、新たに生まれてくる、この繰り返しだ。らちがあかない。他に20の存在を消し去る方法は無いか、未来の人間たちは研究した。そして、今井や稲瀬のような人間を見つけ出したんだ。今井や稲瀬が過去に現れ、その歴史を変更することが20の存在を一時的だがしかし効果的に消し去る唯一と言える方法だった。疑問はたくさん有る。俺も未だに心の底から信じる事ができていない。しかし、事実としてそうなんだ。だから実行している。今日の未来さんの報告によると、6番目が消えたらしい。…クドイようだが、消えたといっても一時的なものだ。完全な消滅は一度も成功していない。しかしながら、今井が歴史を変更して消すのと、ただ生まれてこないようにして消すのでは雲泥の差がある。ただ生まれてこないようにしただけでは、その人が消えた瞬間に、代わりの存在が現れている。対して、歴史の変更による消滅の場合、代わりの存在は長い期間現れない。そして、その間、人口減少は止まり、増加が始まる。未来さんがどうして6番目の消滅を伝えにきたのか、それは、番号が小さい、つまり、発生が早い存在が消滅した場合、より長い期間、人口の減少は起きないんだ。つまり、未来に人間が存在する期間を伸ばす事ができる。残念ながら、今の段階では未来さんからの報告によると、確実に人間は地球上から消える。完全にな。だが、人間の存在期間を伸ばすことが出来たなら、その決定事項を覆すことも出来るかもしれない。つまり、可能性に賭けているんだ。シュンちゃん、今までの話は理解してもらえただろうか?」

僕はコクリと頷いた。そして、ある疑問を口にした。

「はい。寿さんの話は分かりました。しかし、たったの20人ですよね?長く見積もって約2000年の間で人類というか、人間がいなくなるということですか?生物の絶滅ってそれくらいの期間で起こるものなのでしょうか?しかも、人間です。かなり知能も有るし、環境の変化にも強いと思います。僕はあまりにも短いと思うのですが。」

寿さんは頷いた。

「ああ、そうだな。俺の言い方が悪かった。20というのはたった1人の人間を指しているわけではない。ある種の縦の集団だ。その集団が血縁関係の場合もあるが、ただのちょっとした知り合いによる不可思議としか言いようの無い集団の場合もある。複雑なんだ。とても複雑に絡み合っている。しかし、2番目から20番目と呼ばれる人物は1人しかいない。その集団の中の軸となる人物と言うことだ。今日の報告によると、6番目が消えた。そうすると、6の集団がその機能を果たさなくなる。新たな6の集団は、前の6の集団が終わるまでは現れない。つまり、番号が小さい集団の方が大きいということだな。そして、1番目だが…1番目は2人存在する。だからかなり大きな集団なのだが、今の時点で1番目を消す事は出来ないらしい。たぶん、2人存在するということが原因だろう。シュンちゃん、他に質問はあるかい?」


その日の夜、僕は布団の中で眠れずにいた。

僕が軽い気持ちで行っていた行為が、あんなに重要なことだったとは。そういえば、あの後今井さん、仕事のことで褒められるのはあんまり嬉しいものじゃ無いって言ってたっけ。そうだよな。人を消しちゃうんだもん、良い気はしないよな。でも、今井さんってすごい人だったんだなー。あれ?なんか僕、忘れてないか?すごく重要なことだったような気が…

「あああああー!!」

僕は布団から勢いよく飛び起きた。

そして母さんが寝ている部屋に飛び込んで、タンスの中を探し始めた。たしか、たしか、昔に届いたお父さんからの手紙があったはず!母さんが大切にしまっていたはず!

「もう、うるさい!急にどうしたの?何探してるの?」

「お父さんからの手紙!母さん、あれどこいったの?」

「えー、なんで今探し始めるのよー。明日にしなさい。どうせ会社お休みでしょう?お母さんは眠いの。自分の部屋に戻りなさいよ、ほら、ハムちゃんもびっくりして走り始めたじゃないの。ほぁ〜。眠い。」

「ハムスターは夜行性だから今走るのが普通なんだよ。それよりも早く!お父さんの手紙!」

僕は電気をカチっとつけた。

「う…まぶし…。もう、わかったわかった。今出してあげるから。ああもうー。こんなに散らかしちゃって!的外れもいいとこよ。じゃま、どいて。まったく俊治はお父さんのことなんか全然気にしたこと無かったくせに。ねー、ハムちゃん?俊治はね、ハムちゃんのお母さんをいじめてるのよ?悪い子ねー。ハムちゃんはとっても良い子なのにどうしてでしょう?」

母さんはハムちゃんに話しかけながらお父さんの手紙の入った箱を取り出し、中から茶封筒を一つ取り出した。

「破ったりしたら、もう俊治にはご飯作ってあげないんだからね。大切に扱うのよ!いい?」

僕はうなずくと、母さんから封筒を受け取り、裏面の字を見た。しっかりと今井さんの字で「今井俊哉より」と書いてあった。

「シュンヤくん。今、何してるのかしら。たまにしか手紙くれないから私、あなたのお父さんのこと、いまいちよく知らないのよねー。」

今井さん、たまに手紙くれてたのか…。

そして今井さんの名前は俊哉だったのか。明らかに僕の名前は今井さんから受け継いだものだ。もう間違いなく、僕のお父さんは今井さん、今井俊哉さんだ。

結局僕はその夜、一睡も出来ずに朝を迎えた。


「今日の柔道教室、休みなさいよ。」

朝食を食べる僕に向かって母さんが言った。

「いや、身体を動かしてスッキリしたい気分なんだ。行くよ。」

「あなたはそうかもしれないけれど、周りの人たちが迷惑よ。その顔。俊治の顔見ただけでやる気が出なくなっちゃうに決まってるわー。きっとガックリきちゃうわよ。」

「そんなに酷いかな?僕の顔。」

「酷いわ。母さんも朝、ガックリきちゃったもの。人のやる気を吸い取る顔よ。」

僕は自分の顔を触ってみた。

「とにかく、ご飯食べたらもう一度寝なさい。お腹が膨れれば人間は眠たくなるものだから。ほら、おかわりして食べて、ぐっすり寝なさい。これ以上お母さんからやる気を吸い取らないで!」

そこまで言われるとは…僕は素直におかわりをしてご飯を食べ、布団に入った。母さんの言う通り、僕はそのまま夕方までぐっすりと眠り、顔をもとに戻すことに成功した。


次の日の日曜日、僕は厚手のシャツにジーンズを履き、大きめのリュックを背負って近所のスーパーで買い物をしていた。お菓子に、ビール、鍋、おたま、包丁、まな板、大きめのザル、深めの取り分け皿やお箸など、次に、野菜やキノコ類、豆腐、肉、鍋の素、卵。そして一応調味料一式。

買い込んだ物をリュックに詰め込み、僕は会社を目指して歩き出した。


今井さんが住む部屋の前。

ドアには「今井と小太郎の家」と書いた板がピンで留めて張り付けてある。

小太郎とは、以前にホームセンターで買った金魚の名前である。

僕は深呼吸をしてドアを2度叩いた。


返事がない。

僕はもう一度ドアを今度は4回叩いた。

やはり、返事が無い。

僕はドアの取っ手をひねった。すると、カチリとすぐにドアが開いた。

僕はゆっくりとドアを開け、今井さんと呼んでみた。

返事が無い。

さらにドアを開けようとした時、右側から声がした。

「あれれれ〜!シュンちゃんじゃないの!どうしたの〜?忘れもの〜?」

僕はほっとして今井さんの方を見た。

今井さんは上下揃ったスウェットを着て、ス○ーピーのスリッパをぱたぱたと鳴らしながら近づいてきた。

「忘れるような物持って来て無いですよ。今日は母さんが友達と出かけて居ないので、今井さんのところにでも遊びに来ようかと思ったんです。小太郎の様子も見たいですし。あ、食い物買ってきました。」

「…、シュンちゃん、その、お母さまの友達ってもしかして男?」

今井さんは眉間にしわを寄せて僕を見つめた。

「いえいえ、違いますよ。昔からの女友達らしいです。」

今井さんは安心したようだった。

「ふーん。そうなんだ。安心だね!シュンちゃん!お母さんが男といるなんて心配だもんねー!」

僕は全く心配では無かったが、今井さんに合わせて頷いた。話題を変えよう。

「今井さん、トイレに行ってたんですか?ノックしても返事が無いからちょっと心配しましたよ。」

「そうだよ〜。ここのトイレ、最近流れが悪くなってきたじゃん?困るんだよねー。もし詰まったりなんかしたらさ、みんなに俺の排泄したブツを見られちゃうわけでしょ?もー困っちゃう。形は良いからまあ、そこまで恥ずかしくは無いんだけど。」

僕はまた話題を変えることにした。

「あの、今井さん。部屋にお邪魔してもいいですか?沢山食材などを買って来たんで、荷物を下ろしたいんです。それに、ビールも冷やしたいですし。」

「おーやるねーシュンちゃん!遠慮せずにドカドカと入りなよー、俺の部屋なんだからさー。」

今井さんはドアを開けて僕に入るようにと促した。

「お邪魔しまーす。」

僕はそろそろと今井さんの部屋に入った。ちょっと緊張する。


今井さんの部屋は、予想を裏切る事なく汚かった。

「はははー。落ち着くでしょー?俺の城は来るものを拒まない良き城なのだー!」

今井さんはなぜか自信に満ちていた。ただ汚いだけなのに。

「今井さん、掃除しましょう。このままでは今井さんの健康を害してしまいます。」

「えー!そうじー!メンドイなー。そうじはとってもメンドイなー、らんらんら〜。メンドすぎー」

今井さんは歌に合わせて掃除はメンドイを繰り返し歌っていた。

「面倒でもやればスッキリして気持ちいいですよ。僕も手伝いますから。さっそく始めましょう!まずは、洗濯ですかね。今日天気良いですし。きっと良く乾きます。僕は洗濯機を回してくるので、今井さんは、…まず、小太郎にエサをあげて下さい。ずっとエサを要求しています。」

「あ、ほんと。まだごはんあげて無かったからな〜。ごめんね小太郎くーん。今、ごはんあげるからね〜。」

今井さんが小太郎と戯れている間に僕は、脱ぎ捨てられた服を片っ端から集め、抱え込み、2台の洗濯機に押し込んだ。そして洗剤を規定量入れ、洗濯機を回した。とりあえず一つ、終わり。

部屋に戻ると、今井さんはまだ小太郎を眺めて可愛い可愛いと呟いていた。

「金魚ってなんて可愛いんだー!見てよシュンちゃん!小太郎のアタマ!丸いー!」

今井さんの部屋の中で1番キレイなのは小太郎の水槽であった。今井さんの部屋には水槽のお掃除グッズがたくさん置かれていた。

「今井さん。次は、ベッドの布団を屋上に干しましょう。マットレスもです。たしか、除菌スプレーを渡部さんが持って来ていたと思うので、借りて来ます。今井さんは、布団カバーを外して下さい。洗いますので。」

「シュンちゃん、キビキビしてるねー。お母さんみたい。シュンちゃんママ〜!」

「大学の時は1人暮らしでしたから。それに、母さんがキレイ好きなんで、掃除が身に付いているんです。今井さん、手を動かして下さいね。」

僕と今井さんは休憩を挟みつつ、隅々まで掃除をした。気づくともう昼過ぎであった。

「シュンちゃん、俺たちやったね!なんか俺、掃除に目覚めそうだよ!スゲー達成感!小太郎も嬉しそうだよ!今井ママ頑張ったねって言ってる!」

「はい、頑張りましたよ今井ママさん。是非とも掃除に目覚めて下さい。ふー、それにしても腹減りましたー。実は僕、今井さんとのんびりビール飲みながら鍋でも作って食べようと思ってたんですよ。今井さんの部屋が汚いのは予想済みだったんですけど、やっぱり実際に見てしまうと掃除しちゃいますねー。」

僕は大きく伸びをした。

「えー!鍋!お鍋!作るの?シュンちゃんが⁈マジ⁈スゲー!俺、お鍋が食べたいよー!シュンちゃんママのお鍋が食べたいよー!」

「そんなに驚かなくても…まあ、作るのはいいですけど、時間かかりますよ。それに、僕一人で作る訳ではありません。今井さんも一緒に作るんです。」

「えー、俺もー?メンドイな〜、とってもメンドイ〜。」

今井さんはまた歌に合わせてメンドイを言い出した。

僕だってこんなに掃除をした後に料理をするのは面倒だ。でも、僕は今井さんとのんびりとご飯を食べてみたかった。そして出来るなら一緒に料理をしてみたかった。

「じゃあ、作りません。」

僕はきっぱりと言った。今井さん、どう出るか。

「えー!ヤダヤダ作るよ〜。一緒に作る〜!早く作ろうよ、でもまずはビールだよねー。」

今井さんはビールを求めて歩き始めた。しかし、僕は今井さんの歩みを止めた。

「今井さん、まずは着替えと手洗いです。」


僕と今井さんはビール片手に鍋の支度を始めた。ガスコンロに火をつけ、洗った鍋に水と出汁を入れ、沸騰しないようにする。僕は今井さんに火加減を見てもらい、洗った野菜をザクザクと切り、買っておいたザルに入れた。

「シュンちゃん!けっこう煮えたぎってる!俺、弱火にした!出汁だけでも美味しそうな香りがするー!」

「じゃあ、煮えがたい野菜から入れますか。」

「シュンちゃん、肉は?肉入れないの?」

「肉は煮え過ぎるとかたくなるので、中盤に入れます。今井さん、出汁のパックを取り出すので、ちょっとどいてください。」

「えー、こんなに美味しそうなものをとっちゃうのー!もったいなく無い?」

僕はおたまを使ってなんとかパックを取り出した。

そして、鍋の素と野菜を入れ、火力を上げた。

「入れっぱなしにすると、たぶん苦みとかが出てきちゃうとおもいますよ。出汁は野菜からも肉からも出ますから、そんなにもったいなくは無いです。」

「へー。シュンちゃんってやっぱりしっかりしてるのね。さすがはママ。あー良い香りしてきたー。」

「ママでは無いです。鍋の素を入れましたから、香りしてきましたね。それに1人暮らししてたんで、これくらいは普通です。今井さんの方が変ですよ、1人暮らしなのに、料理とかしないんですか?ここ、一応料理する場所あるじゃないですか。やってやれないことは無いかと。」

「えー、俺が料理か…はー、メンドイ。とてつもなくメンドイー!想像するのすらメンドイー!」

僕はキノコ類や煮えやすい野菜、そして肉を鍋に投入した。

「今日みたいな鍋とか、簡単だし、野菜も摂れるし、健康に良いかと思うんですけど。ほら、今井さん、今日掃除してみてハマっちゃいそうとか言ってたじゃないですか。やってみれば楽しくなるかもですよ!」

僕は木綿豆腐を切りながら今井さんを励ました。

今井さんには健康でいて欲しい気がする。

今井さんはというと、僕が買ってきたハッ○ーターンをパリパリ食べながらビールを飲んでいる。

「そうかなぁー。1人で料理か…さみしい。」

「さみしいですか…なら、週末、日曜日だけっていうのはどうでしょう?僕、日曜日はいつも家でゴロゴロしてるだけなんで一緒に料理してもいいですよ。」

今井さんの目がきらりと光った。分かりやすい人だなぁーと思いつつ、僕はとても嬉しかった。

「じゃあ、来週はオムライスではどうでしょう?シメの雑炊に入れるだけじゃ卵、余っちゃいますし。炊飯器は僕が使っていたものがあるので持ってきますね、フライパンは新しいのを今度買ってきますか。」

今井さんの目がますますきらめいた。

僕はお鍋に豆腐を入れた。

「えー!オムライスなんてスゲー!家で作れるもんなんだー!え⁈ もしかして、シュンちゃんって料理の才能もあったりしちゃうの?マジ!スゲー!」

今井さんは興奮していた。

「そんなわけ無いじゃないですか。オムライスは比較的簡単に出来ます。そして、ほとんどの家庭で一般的に作られる料理の一つです。お米は母さんの実家から届くものを家から持って来ますから。今日も雑炊用に持って来たんですよ。本当は冷えたご飯をさっと洗って雑炊にした方が短時間で済むんですけど、家に残っていなかったので、お米を持って来ました。」

「ええ!シメの雑炊ですとー!お店みたいだ!シュンちゃん、君は充分に天才だよ、天才児だ!」

「今井さん、僕、もう24歳です。それよりも、鍋がそろそろ完成しますよ。」

「わーい!俺、はらぺこリンだよ〜!お肉、お肉!」



季節は巡りあっという間に夏がやって来た。

「いやー、贅沢だねぇ。クーラーをかけながら熱いコーヒーを飲むなんて。でも、やめられないー!俺、コーヒーはどんなに暑くてもホットが好きー!」

今井さんはあつあつのコーヒーをクーラーの風を浴びながら飲んでいた。

「僕もコーヒーはどちらかと言えばホットの方が好きですけど、そこまでこだわりはありませんね。あ、でもお腹が冷えなくていいかもしれません。夏でもホットコーヒー。」

「シュンちゃんさー、なんかお年寄りみたいだよそういう発想。もしくは乙女?お腹が冷えなくて…なーんて、ハラじゃなくてオナカと言うところが乙女!シュンちゃんはきっと女の子に生まれてたらさ、女子力最強だよ!もう力士だよ!」

今井さんは早くも2杯目のコーヒーを飲んでいる。

今井さんは猫舌では無いようだ。

「力士って…今井さん、例えがズレすぎですよ。女子力最強って言ったら…ティン○ーベルとか?」

「ゲホッ!ゴホッゴホッ!」

「今井さん!大丈夫ですか!」

僕はむせる今井さんからあつあつのコーヒーが入ったカップをとった。こぼしたら危ない。

「ゴホッゴホッだって、ゴホッシュンちゃんが、ゴホッゴホッ変なこと言うからさゴホッゴホッ」

「変なことなんて言って無いですよ!」

「だって、女子力最強がティン○ーベルなんてゴホッ発想が、女子じゃんかよー!ゴホッ」

「え!そうですか?」

「そうだよ!だってティン○ーベルかわいい!って騒ぐのは女子じゃんか。俺、別にかわいいとか考えたこと無いし。それに!女子力の話でなんでディ○ニーのキャラクターが出てくんのさ!フツーはアイドルとか女優さんじゃない?」

確かに…言われてみればそうだ。どうして僕はティン○ーベルだと思ったのだろう。僕はむせる今井さんの隣で考えた。

「あ!なるほど!」

僕は思い出した。

「今井さん、僕にとってはティン○ーベルがまさしく女の子ってイメージなんですよ!昔にピー○ーパンを見て、そう感じたんです!」

僕は今井さんにコーヒーカップを渡した。

「へー。相手役の女の子じゃ無くて、そっちにいっちゃったの。シュンちゃんは。ということは、シュンちゃんはツンデレがタイプなのか!いや意外!そっちかー!」

「勝手に決めないで下さい!あくまでイメージですから!」

「またまた〜照れちゃて、シュンちゃんったらかわいいー!」

今井さんは嬉しそうにニヤニヤしていた。これはきっと否定すればするほど悪化するやつに違いない。

僕はこの話から逃れることにした。

「今井さん!そろそろ仕事を始める時間です!準備しましょう。」

「なに〜?急に真面目ぶっちゃってもー、シュンちゃんったらフフフフ。」


ここは、

「シュンちゃん!陰○師!俺、映画でこんな感じの通り見た!ここは陰○師の世界だよ!いやー、初めて。」

周りを見渡すと、今井さんの言う通り、まっすぐに整備された道や、規則正しく建てられた建物、そして赤色の大きな門。まさしく陰○師。

そして、僕は気がついた。

「今井さん、僕たちこの時代に溶け込んでいます!服装はもちろんですけど、身長が他の人たちと同じです!初めてですね!」

「あれー!本当だ。だからかー俺たち全然気にされて無いよ!ただの乞食として認識されてる!いやー楽だねー。6番目を消したから技術がアップしたのかも。それにしてもいいね〜。シュンちゃん!陰○師の都を散策しよう。そして帰りの時間が近づいたらさ、金持ちっぽい家に石でも投げ込んでオサラバしようぜ!」

「そうですね。せっかく来たんだし、観光していきましょう。落とし穴なんて掘ってたらもったいないです!目立たないって本当に楽ですねー。」


僕たちは気楽に楽しく平安の都を散策した。誰も乞食である僕たちに注意を向ける人はいなかった。同じ乞食と見られる人たちも、特に僕たちに注目することは無かった。きっと、この都では新しい人の出入りが激しいのだろう。

すると、男たちの奇妙な笑い声が聞こえてきた。

「シュンちゃん、なんだろう、この気色悪い声。キモいんだけど。」

「何ですかね。ちょっと見てみましょうか。本当にキモいですねー。」

僕たちは声のする場所に移動した。その場所はすぐ近くにあり、5人ほどの男たちが家の中を覗き込んで、嬉しそうに奇妙な笑い声を上げていた。

僕たちは男たちに見つからないようにこっそりとその様子を観察していた。

「シュンちゃん、あれさ、犯罪じゃない?きっと女の人のお風呂とか覗いてるんだよ。うわー、あんなに身分高そうな服着てる奴らが…。あいつらがさ、きっと政治とかしてるんでしょ?あーあ、日本の未来は終わりだよ。」

今井さんは顔をしかめて男たちを見ていた。

「今井さん、きっとあれは有名な「垣間見」という行為です。」

「え?カイマミ?なにそれ?覗き見じゃないの?」

「まあ、同じことですけど、ああやって噂で聞いた年ごろの女の人を見に来ることを「垣間見」って言うんですよ。この時代だと、身分の高い女の人たちは家からほとんど出ないんです。戸を開けていても御簾で隠されているので、女の人は見えません。しかし、男たちは噂で聞いた姫君を少しでもいいから見たい!見てみたい!と「垣間見」を行うんです。」

「へー。なんて虚しい行為なんだ…。でもさ、あの人たちキモいけど楽しそうだね。笑い声とかマジキモいけど。」

「そうですねー。この時代は娯楽が少ないので、ああやって恋を楽しんでいたんですよ。古典文学のほとんどは恋愛について書かれているらしいですし。和歌だって恋愛の手段に使われていたものなので、有名な和歌には恋愛の苦しみや楽しみを表現したものが多数あります。」

「へー。シュンちゃんさー、やけに詳しくない?怪しいんだけど。」

「普通です。一応僕も受験をしたので日本史の知識はそこそこあるんですよ。それに、この時代は古典でも扱われるので時代背景はそれなりに勉強してきました。実際に見ることになろうとは、驚きです。」


男たちの垣間見をしばらく見学した後、僕たちはまた平安の都の散策を始めた。

僕たちは下を見ないようにして橋を渡り(死体があったら怖いから)、ドキドキしながら散策を続けた。

「今井さん、なんかこっちの方は廃れていますね。先程までの華やかさがありません。乞食らしい人の数も増えましたよ。…怖くなってきました。戻りましょうか?」

「えー!またあの橋渡るのー?ヤダよー、なんか死体とかいそうで怖かったじゃんか!取り憑かれたら怖いよー。俺、会社で一人と一匹で寝てるんだよ!もし、取り憑かれたら俺、小太郎に助けを求めるしか無いんだよ!小太郎ぉー、小太郎に神通力とか備わってないかな?備わっててくれー!」

「今井さん、小太郎に期待し過ぎです。それに、こっちの時代から何かを持って帰ることは出来ないって、今井さん言ってたじゃないですか。幽霊だって持って帰れませんよ。」

「シュンちゃん!幽霊を甘く見過ぎ!平安時代の幽霊だよ?陰○師だよ?安倍晴明だよ!とにかく、あの橋はヤダよー。怖すぎだったよー。」

今井さんは僕にしがみついて後ろをチラチラ見ていた。

「分かりました。戻るのは止めましょう。今井さん、歩き難いので離れてくれませんか?」

「えー、ヤダ!だって怖いんだもん!さっき橋渡った時にさ、もしかしたら取り憑かれたかもじゃん?怖いよー怖すぎだよー!リアル陰○師怖いよー!」

今井さんはますますしっかりと僕にしがみついてきた。

「じゃあ、都を離れますか?あっちに門がありますから出ましょう。」

「えー!そんな!都を出たら安倍晴明に守ってもらえなくなっちゃう!逆に危険だよー!」

今井さんは震えていた。本当に怖がっているようであった。僕は今井さんの意外な一面を知った。あまり知りたく無かったかもしれない。それにしても、どうにも歩き難い。

その時、後ろばかり気にしていた今井さんが転んだ。

そして、僕も道連れとなり転び、さらに運悪く、腐りかけていた家の、板でできた壁を突き破り、僕たちはある家に勢いよく飛び込んでしまった。


「イデーってて、ごめんシュンちゃん!コケた!」

「知ってます…い、痛い。」

すると、女の人の甲高い悲鳴が聞こえた。

見ると、若い女の子が屋敷の中から僕たちを見て驚き、腰を抜かしていた。

「すみません!驚かせてしまいました。けど安心して下さい!僕たちは無害な乞食です!…だめだ、会話が通じない。」

屋敷の中からは、包丁を持ったおばあさんや鎌を持ったおじさん、そして槍を持ったおばさんが慌てて出てきた。ヤバい。命の危機!

「今井さん、逃げましょう、ほら早く!」

「シュンちゃん!あの包丁怖いー!錆びてるのがリアルで怖いー!」

僕は今井さんを引きずるようにして屋敷から逃げた。

そして怖がる今井さんをなんとか言いくるめ、門から都を出た。そして林に隠れて様子を伺った。

「今井さん、追ってきてはいないようです。ふー、一安心ですね。」

「シュンちゃん、さっきのヤバくない?おばあさんが包丁持って、俺たちをマジで殺しにかかってきたよ?おばあさんのあの形相が怖すぎて、俺、一生忘れない。」

「想像の幽霊より、包丁を持ったおばあさんの方が断然怖かったですね。」


僕はその日、今井さんに頼まれて、会社に泊まることになった。

「母さん、戸締まりとか気をつけてよ。たまに、廊下の窓の鍵閉め忘れてるから。」

「大丈夫よー。ハムちゃんもいることだし、戸締まりだってたまに忘れるくらいで、大体は閉まってるから平気。」

「ハムちゃんがいたって役に立たないじゃんか。それに、一か所でも忘れたら戸締まりの意味ないから。ふざけてないでちゃんとしなよ。」

「分かりました。大丈夫よ。何年も一人と一匹で生活してましたからね。じゃあ、会社の人によろしくね。迷惑かけないのよ。」

一人と一匹って…今井さんみたいなこと言ってる。

「分かってるよ。とにかく、戸締まりしてよ。じゃあ明日。」

電話を切ると、僕はため息をついた。

僕って…両親にツッコミを入れる役なのか?


場面は変わり、ここは平安の都。

シュンちゃんと今井が突っ込んだ家は、都の噂好きの人々によって、たいそう有名になっておりました。なんでも、昔は栄えたが今では衰退した一族のたいそう美しい姫君が、ひっそりと世を儚み暮らしていると言う。そして、姫君の美しさといったら、2人の乞食が垣間見るどころか飛び込んでしまうほどに麗しく、家の者が追い払うまで、乞食どもは姫君の美しさの前でただただ許しをこうていたと聞く。

この噂は都中に瞬く間に広がり、今では毎日たくさんの男たちから恋文が殺到しておりました。なかでも熱を上げていたのは近衛の少将殿で、姫君を一目見たいと毎日のように通っておりました。

人の噂も七十五日、当初のような勢いが落ち、恋文の数も減ってきた頃、未だ近衛の少将殿だけは毎日毎日、恋文や花を姫君に贈り、姫君の家に通っておりました。最初は戸惑っていた姫君でありましたが、毎日欠かさず届く近衛の少将殿の恋文に心を動かされ、姫君は初めて和歌を贈りました。姫君からの返答に、近衛の少将殿は舞い上がり、さらに熱い思いを込めた和歌や花束を姫君に贈るようになりました。そうして何度か和歌の応答が続いた後、姫君と近衛の少将殿はめでたく結婚したのでありました。めでたし。


場面は変わり、シュンちゃんと今井が、スーパーで夕食の買い物をしていた。

「今井さん、2人前くらい食べますよね?あと、タレですけど、ふつうの酢醤油と、胡麻ダレ、どちらがいいですか?」

僕は冷やし中華の麺コーナーを見ていた。

「俺、酢醤油!サッパリとね!ねえシュンちゃん、春巻きも買おうよー!あとビールねー。」

「はい。そうしましょう。先に春巻き買いますか。今井さんはビール持って来て下さい。僕、春巻きの次は野菜売り場に行きますので。」

「了解でーす!」

今井さんは嬉しそうに鼻歌を歌いながらお酒売り場へと歩いて行った。

「あ、ハムも買わなくちゃ。」

僕はハムのコーナーにカートを向けた。


夜の会社はやはり、気味が悪かった。

僕と今井さんは夕食と、後片付けをすませて、なんとなくテレビを見て過ごしていた。

「今井さんって毎日一人で会社で寝泊りしてるんですよね。怖くないですか?」

窓が風に揺れてカタカタと鳴っている。

「いやー、別に怖くは無かったけど、今日はなんか怖いね!平安の都で幽霊がくっついて来たかもだから、今日は怖いよ!」

「今井さんって怖がりなのかそうじゃないのか、どっちなんですか?僕、窓がカタカタ鳴るとかちょっと怖いなーとか思うんですけど。この会社古いですし…」

「うーんと、どちらかと言えば、俺、怖がりだとは思うよ!幽霊めっちゃ怖いし。でも会社にはさ、幽霊いないから。今はいる可能性大だから怖い、会社というか、自分の背中が怖い!」

「何で会社にいないって断言出来るんですか?変ですよ。だってここ、古いじゃないですか!いる可能性大ですよ!」

「えー、いないって。だってここさ、未来さんたちが用意した会社だよ?古いけど。寿さんがそう言ってた。意味不明にボロだけど。」

「あ、もとからあったわけではないんですね?確かに、今は馴染んでますけど、僕、こんな建物あるなんて知らなかったです。」

「場所が場所だからねー。でもさ、少なくともシュンちゃんが小3くらいの時にはできてたんだよー。それにしてもボロだよねー。」

ということは、今井さんが働き始めたのが、僕が小3のころということか。あれ?今井さんって今何歳なんだ?

「あのー、今井さんって今、いくつなんですか?」

「俺?34だよ。シュンちゃんより10歳年上ー!は、は、は!」

「へーそうなんですか。」

母さんが今、42歳だから、母さんは今井さんよりも8歳年上なのか…。意外と年が近いかもしれない。でも今井さんって見た目が若いからなー、母さんとはちょっと合わないかも…いやいやいやいや、考える必要ないだろ!

「どしたのシュンちゃん?そんなに頭振っちゃうと、揺さぶりっこ症候群になっちゃうよー。」

「何でもないです。」

「変なシュンちゃん、ところでさ、俺、トイレに行きたいんだけど…シュンちゃんは?」

「え?僕はさっき行ったので、別に大丈夫ですけど…今井さん、もしかして、一人でトイレに行くのが怖いんですか?」

「だってさー、俺の後ろに幽霊がくっついてるかもしれないでしょ?怖いじゃんかよー!」

今井さんはもじもじしている。きっと我慢していたに違いない。やれやれだ。

「良いですよ。一緒に行きます。ついでに歯磨きもしちゃいましょう。」

「ホントー!ありがとうシュンちゃん!やっぱりシュンちゃんは優しい子だねー!あ、ヤバいかも安心したらかなり来た!ぐおー!シュンちゃん、俺は先に行くから、絶対に来てね!絶対!」

今井さんは歯を食いしばりながらトイレへと向かった。どんだけ我慢してたんだよ…。

僕は立ち上がり、今日買った自分の歯ブラシと、今井さんの歯ブラシ、そしてコップや歯磨き粉を持って今井さんのいるトイレへと向かった。


「シュンちゃ〜ん。もう寝た?」

「寝てます。」

「寝てないじゃ〜ん。」

「うるさいですよ、寝てるって言ってるじゃないですか。今井さん、夜更かしは良くないですよ。」

「だってさー、シュンちゃんが隣で寝てるって考えるとさーなんか嬉しくってソワソワしちゃうんだもん。寝れないよー。」

今井さんはモゾモゾと動いていた。

かなりの変態発言である。

「しょうがないですね。眠くなるまでゲームでもしてますか?」

「え!良いの!」

「だって眠れないんでしょう?それに僕だって5分ごとに起こされてたら、どうせ眠れませんから。」

「やったー!ゲーム!ゲーム!」

今井さんはさっそく布団から飛び出すと、電気を付けて沢山のゲームソフトの中から、なにをしようかとガサガサ探し始めた。

「今井さん、夜中ですけど、お茶淹れて来ましょうか。」

「あ、だったらさ、シュンちゃん、やりたいゲーム探してよ!俺、コーヒー淹れてくる!」

「寝ない気満々ですね。明日が休みでよかった。」

僕は切っていたクーラーの電源を入れた。


結局僕は今井さんと共に徹夜でゲームをして、朝方、今井さんが寝落ちし、僕もクーラーを消して、今井さんにタオルケットを掛けてから、夕方近くまでぐっすりと眠った。

起きたのは、心配した母さんからの何度目かの電話によってであった。

「もしもし、ごめん母さん、僕と会社の先輩さ、結局夜中ゲームしてて、ふぁー、寝たの朝だったから、電話に気が付かなかった。」

「まったく、本当に心配したんだから!俊治はもう大人なんだから、徹夜でゲームなんて身体に良くないことしちゃダメじゃないの!ご飯は!食べたの?」

「食べて無い。だって今起きたんだ、食べてるわけないじゃないか。ふぁー。僕、もうちょっと寝たいんだけど。」

「ダメ!今寝たら絶対にまた夜中じゅうゲームしちゃうに決まってるじゃないの!すぐ帰って来なさい!その会社の先輩も連れて!お母さん、ご飯作って待ってるから!いい?絶対に先輩も連れて来なさいよ!夜更かししちゃうような若い子はね、絶対に栄養が足りていないんだから、私がその子のお母さんになってあげないと。わかった?俊治返事は!」

ヤバい。今井さんを連れて行けるわけがない!ど、どうしよう…ヤバい、寝起きで頭が回らない。いや、頑張れ僕!

「えっと、先輩は大丈夫だよ。うん、だって大人だからさ。だから僕だけ帰るよ。」

「俊治!あんたね、自分の事だけ考えるなんて、最低な人間がすることよ!お母さん悲しい!涙が出るくらい悲しい!ハムちゃんだってあんたのこて見損なったって言ってるわよ!いい?もし、あんた一人が帰って来たら閉め出しの刑よ。私はハムちゃんと美味しいご飯を食べて寝るけど、あんたは蚊に刺されながら冷たい道路で眠ることになるの。じゃあ、待ってるから。」ガチャリ

悪化した。悪化させてしまった!

僕は冷や汗をかき始めた。

ヤバい。非常にヤバい。僕のバカ!バカー!

いや、落ち着くんだ俊治!僕はやれば出来る子なんだから。

そうだ、先輩に遠慮されたから、連れて来れなかったことにしよう!俺は今日も今井の部屋に泊まればO Kだ。いや、待てよ、母さんは怪しむに決まってる!あれ?先輩は男だって知ってるよな?母さん。もしも、先輩が女の人で、僕が泊まり込んでるなんて思われたら…。あれ?男でもヤバいのか?男の方がむしろヤバいのか⁈誤解を生んでしまうのか⁈でも、でも今井さんを連れて行ける訳が無い!会社の先輩が実は会ったことの無いお父さんでしたー、なんてバカげてる。ああ、僕は、僕はどうしたらいいんだー!

僕は深呼吸を繰り返した。しかし、冷や汗が止まらない。ヤバい。手足が震えてきた。これは、きっと、昨日の不摂生による自律神経の乱れに加えて、過度のストレスが与えられたことによる身体の反応だ。それにしても、こんなに冷や汗をかいたのは、受験以来だ。

「シュンちゃ〜ん!おはー!あれ?顔色悪くない?どしたの〜?」

今井さんがス○ーピーのスリッパをパタパタ鳴らしながら起きてきた。

僕は余裕たっぷりの今井さんに助けを求めたくなった。本当は寿さんに助けてもらいたい!渡部さんに助けてもらいたい!

「今井さん…母さんが…」

今井さんは目を見開き、僕に近づいてきた。

「千恵美ちゃんがどうしたの!なんかあったの?シュンちゃん!なんとか言って!」

僕は今井さんに激しく揺さぶられて気持ち悪くなった。

「い、今井さん。母さんは、大丈夫です。」

「え?そうなの?なーんだ、じゃあさ、何でシュンちゃんはそんなに汗だくなの?」

もう言うしかない。僕は疲れた。もう頑張れない。ごめんなさい今井さんと母さん。

「母さんが、今井さんを家に連れて来いって。もし連れて来なかったら、僕は蚊に刺されながら冷たい道路で寝ることになると言われました。どうしましょう今井さん…すみません、僕がなんとか行けない理由を母さんに上手く説明すれば良かったのに…」

僕は泣けてきた。僕、本当にもう、頑張れない。

「なーんだ。そんなことか。行こうよー!シュンちゃんの家に!もしかして千恵美さんのご飯が食べられるのか俺⁈ わーい!やったー!あ、おトイレおトイレ〜。ふんふ〜ん。」

今井さんはスリッパをパタパタ鳴らしながらトイレへと向かった。

僕は少しの間、呆然としてしまったが、すぐに今井さんを追いかけてトイレへと向かった。

「今井さん!良いんですか?今井さんが今井俊哉だってこと、母さんにバレちゃうじゃないですか!」

今井さんは手を洗っていた。

「え?まあそうだねぇ〜。ってあれ?シュンちゃん!知ってたの⁈」

ええい!もうどうにでもなれだ!

「はい。未来さんに聞かされて知りました。6番目が消えたことを知らせに来た時です。今井さんが悪いんですよ!僕に未来さんを起こしといてなんて言うから!未来さん、フツーにバラしちゃいましたよ!僕、その日の夜眠れなかったんですから!それに、今井さん!手紙、読ませて頂いたんですけど、ちょっと嘘つくのが下手過ぎです!字は確かにキレイですけど、もうちょっとマシな嘘ついてくれないと僕、ヒヤヒヤしてたんですから!」

「シュンちゃん…シュンちゃーん!」

今井さんは僕に抱きついてきた。

「え!今井さん、なんですか!」

「シュンちゃん!知ってて隠してくれてたんだね!なんて良い子なんだー!シュンちゃん、パパだよ、パパって言ってー!」

「嫌ですよ!暑いから離れて下さい!って何で泣いてるんですか!」

「ううう〜だってだってさ〜ぁ、シュンちゃんがさ〜グス。俺がパパだって分かっててもさ〜、同じように接してくれてたからさ〜、グス。俺、ひどい親なのにさ〜。グス。ううう〜」

「今井さん、汗、すごいですよ。フー。とりあえず炭酸ジュースを飲んで風呂に入りますか。サッパリしたい気分です。今井さん、いいかげん離れて下さい。」

「ううう〜。分かったよ〜。パパは離れるよ〜。ううう〜。グス。」

「今井さんも、ジュース飲みましょう。なんだかすごく、喉が渇きました。」


僕と今井さんはとりあえずジュースを飲み、風呂に入った。

「はー、楽しみだなぁー、千恵美ちゃんの手料理。俺、一回しか食べた事ない。ヘへへー。あー、良い日。今日ってラッキーデーだったんだなー。」

「いやいや、おかしいですよ!今井さん、明らかに若過ぎますから!やっぱり、ここは寿さんにお願いして…でも寿さんは絶対に夜中ゲームして夕方近くまで寝てるとか無いですもんね。」

「俺、絶対行くもんねー!いつ行こうか考えてたところだったんだもん!大丈夫だってー!俺、童顔だからさ、若く見えるけど実際は43歳ってことにしちゃえばへーきへーき!フフフー、初めて家族が一つの家につどっちゃうのか!あ、小太郎も連れて行こうかなー、小太郎も俺の息子だし。」

「母さんになんて説明すれば良いんだ…。今井さん、言っておきますけど、母さんは歳をとっているんですよ?今井さんの記憶の中の母さんじゃ無い。ガッカリしても知りませんよ。」

「ガッカリなんてしないもんねー。俺、ずっと千恵美ちゃんのこと見守ってたもん!もちろんシュンちゃんのこともね!俺、見まくってたよ、視力良いから!」

「マジですか…。知らなかった…。」

「知らなかったってシュンちゃん!俺さ、小学生のシュンちゃんに会ったりしてたんだけど!鉄棒の逆上がりの練習、手伝ったんだけど!あと、縄跳び大会のための二重跳びもレッスンしたんだけど!…覚えてる?シュンちゃん…俺がキンモクセイの木の下でしょげてるシュンちゃんに声かけたことをさ…俺、ちょっと期待してたんだ…気がついてくれるかな〜って。」

「すみません…全く気が付かなかったです。少しですけど、怪しい人だとか思っちゃいました。」

「やっぱりー!なんか蔑んだ目だったよシュンちゃん。俺、ガッカリしちゃった。まあ、でもシュンちゃんと一緒に仕事できるっていう嬉しさが強かったからそこまで落ち込まなかったけどね〜。」


今井さんは風呂から上がると、パンツ一枚で部屋までパタパタと歩いて行ってしまった。

僕は、予備に置いておいた服を着て、水を飲んだ。そして部屋に居る今井さんに、待合室で待っていると声をかけた。今井さんは一応返事をしたが、何かを探しているようで、唸ったような声であった。

僕は荷物を持って待合室の椅子に座り、今井さんが現れるのを待った。しかし、緊張しているのか、僕はソワソワと落ち着かず、待合室の掃除をして、心を静めようとしたが、上手くいかなかった。

15分後、現れた今井さんは古びたティーシャツとジーンズに着替えていた。

「今井さん、その服で行くんですか?」

「そうだよ、この服で千恵美ちゃんとこに遊びに行ってたからさ。とっておいてたんだ。いつかまた会える時のためにね。…もっと早く会うべきだったんだろうけど。申し訳なくて。せっかく会える時代にお願いしたのにさ、何やってんだろ俺はー。寿さん、怒るだろうなぁ〜。寿さんはさ、会いに行けって散々言ってくれてだんだけど。俺は会わないって勝手に意地張って決めて。でもシュンちゃんに会ったり、千恵美ちゃんのこと見てたり…諦めきれなくて。あーあ。ほんと、何やってんだろーなー。寿さんの言うこときいてたら、みんなもっとハッピーだったかもしれなかった。」

今井さんは今までに見たことが無いような顔をして、ティーシャツを見ていた。悲しそうな、悔やんでいるような、大人の顔をしていた。

「今井さん、今井さんには今井さんなりの理由があったんですよね?なら、そんな顔しないで下さい。調子が狂っちゃいます。それに僕、こういうカタチで今井さんに出会えて良かったと思ってます。母さんは会いたかったと思いますけど。」

「ありがとうシュンちゃん。やっぱりシュンちゃんは千恵美ちゃんに似て優しいね。」

僕は照れ臭くなった。

「そうですか?母さんって優しいかなぁ〜?」

「優しいよ!チョー良い人で、素晴らしく可愛らしいよ!そしてかなりプリチーさ!」

今井さんは興奮ぎみに母さんを褒めちぎった。

「今井さん、それを言うならプリティーです。ところで、母さんにどう説明するつもりなんですか?今、今井さんは海外にいる設定でしたよね?今すごく無理があると実感したところなんですが。」

「そういえばそんなこと書いたっけ。うーん、どうしようかなぁ〜。あ!帰国したことにすればOKじゃない?」

「まあ、かなり無理がありますが、僕がなんとかサポートします。そして、今井さん!次、次ですよ!大切なのは次です!どうして今井さんが僕の会社の先輩かってところです!意味不明ですよ!」

「意味不明か〜いみふー。うーん。…」

僕と今井さんは考えこんでいた。難問だ。超難問だ。とりわけ嘘が苦手な僕にとっては難題すぎる。

そんな中、沈黙を最初に破ったのは今井さんであった。

「なんかもういい気がするんだよねー、俺。俺さ、もう千恵美ちゃんに嘘つきたくない。」

今井さんは伸びをして息をついた。

「嘘つきたくないって…つかないとダメでしょう。母さんはタイムスリップが出来るなんて知らないし、信じてもくれないと思います!それに、秘密にしているんじゃないんですか?僕たちの活動って、かなり、他の人に知られたら危ないと思います。」

「他の人って、シュンちゃん、シュンちゃんのお母さんじゃん。他の人じゃないよ。それにさ、そこまで厳密に秘密にしてるって感じじゃないんだよね〜。どうせ信じてもらえないし。シュンちゃんみたいに、両親が別の時代にいるって子供もいっぱいいるし。ていうか、俺の秘密をバラしたの未来さんだし!…正直に話すよ俺。隠すのも嘘つくのも我慢するのも疲れたからさ〜。千恵美ちゃんに甘えたいよ〜。」

今井さんは「さてと、シュンちゃん、もうちょっと待っててね〜」と言うと、待合室を出て行ってしまった。

良いのか?本当に良いのかそれで?

僕は他に良い方法が無いかと、あれこれ考えたが、どれもこれも無理のあるものばかりで、結局あきらめた。もういい。なるようななれだ!

投げやりだが、決心を固めた僕は、待合室を出て今井さんの部屋へと向かった。

「今井さ…何やってるんですか⁈」

今井さんは小太郎の入った水槽をバックに詰め込もうと頑張っていた。

「ふー。え?だって小太郎も家族だからさ、家族団らんの輪に入れてあげないとかわいそうでしょ?せっかく風呂に入ったのにまーた汗かいちゃった。最悪ー!」

今井さん…あなたという人は…。

僕は自らを落ち着かせるために、深い呼吸を心がけた。落ち着くんだ僕!

「シュンちゃ〜ん、もっと大っきいバック無い?このバックだとさ、取ってのとこが持ちにくいんだよねー。」

「今井さん…小太郎を家族団らんに入れてあげたいという今井さんの気持ちはとても素晴らしいと思います。でも、母さんの気持ちも考えてあげて下さい。今井さんが現れるという時点で母さんはかなり衝撃を受けます。しかも今井さんはかなり若くて、さらに衝撃を受けることでしょう。加えてですよ?その今井さんがバックに金魚の入った水槽を入れていたら、もう母さんはもうパニックです。」

今井さんは不満気な顔をして僕を見た。

「だってさー、小太郎は家族なんだもん!置いてくなんてかわいそうだよー!」

今井さんはしっかりと水槽を抱き抱えていた。

しょうがない。

「分かりました。でも水槽のまま小太郎を運ぶのは重いし、大変なので、そこの小さめのバケツに小太郎を入れて、水槽の水は抜いて持って行きましょう。今は夏なので、水温の変化は問題無いですし、カルキ抜きの薬もありますよね?僕の家に着いてから小太郎を水槽に移しましょう。水合わせもゆっくりやれば大丈夫ですよ。それに、小太郎は強い金魚なので、多少の水質変化にも対応してくれるでしょう。」

僕は今井さんとの会話を通して、金魚の扱い方の知識を持っていた。

今井さんの顔に笑顔が戻った。

「うん!そうしようシュンちゃん!さすがシュンちゃんだねー!すごくナイスなアイデアだ!」

「納得してもらえて嬉しいですよ。今井さん、急ぎましょう、母さんが待っています。」

「はい!了解しました、シュンちゃんさん!」


ついに…ついに来てしまった。

僕は小太郎の入ったバケツを手に、自分の家の前に立っていた。

「シュンちゃん!ピンポン押すよ〜。」

いつの間にか今井さんは玄関のベルに手を伸ばしていた。

「今井さん!心の準備が!」

ピンポーン

「え?どうかしたシュンちゃん?聞こえなかった。」

おいー!少しはためらえよー!

ガチャリ

「はーい。お帰り俊治、遅かったじゃないのー!ちゃんと先輩連れて来たみたいね…え?」

母さんの顔が固まった。

「千恵美ちゃん!千恵美ちゃん!俺だよ俺!シュンヤくん!今井俊哉くん!久しぶりー!チョー会いたかったー!」

「今井さん、そんなに急に!あ、あの母さん、その、あ!小太郎!見て母さん、小太郎だよ、可愛い金魚。」

僕は動揺してしまい、なぜか小太郎の紹介をしてしまった。

「そうそう!小太郎!ほら小太郎、千恵美ちゃんだよー。今井ママの奥さんだよー。あ!小太郎も初めましてって言ってる!良い子だねー小太郎は。」

数秒間、沈黙が訪れた。そして、その沈黙を破ったのは、母さんであった。

「ブッフフフフフ。さすがシュンヤくん!私、驚いちゃった。小太郎っていうの?その金魚。可愛い。頭が丸くて赤いのね。よろしく小太郎。私は後藤千恵美よ。今井ママの奥さん。フフフフフ。さあ、上がって。小太郎もバケツに入ったままじゃかわいそう。」

母さんは嬉しそうに笑った。マジか。

「わーい!お邪魔しまーす!シュンちゃん、行こう!」

僕は今井さんに手を引かれて自分の家に入った。


「なにこれチョーカワユイー!あ、水飲み始めたー!必死に飲んでるー!カワユ過ぎー!」

僕と今井さんは、リビングに小太郎の水槽を設置した後、母さんの部屋でハムちゃんを見ていた。

「シュンちゃん!やっぱりハムスターは可愛いねー!小太郎も負けてないけどさ、ハムちゃんも千恵美ちゃんに育てられてるだけあって、のびのびと生きてる!自由闊達!」

「ハムスターはいつでもどこでも、のびのびと生きてますから。でも良かったですね。今井さんもハムちゃんと家族になれたんですから。願いが叶いました。」

「そうだね〜。ところでシュンちゃん、この部屋は千恵美ちゃんの部屋?」

「そうですけど…なんですか今井さん。ダメですよ、勝手に引き出し開けるとかしたら僕、今井さんのこと軽蔑しますから。」

「え、えー。なに言っちゃってるのシュンちゃん。俺、そんなこと全然考えて無かった。思い浮かびすらしなかったよー。俺の心はハム太郎に捕らえられちゃってるからさ、今だってさっきハム太郎が器用に剥いたひまわりの種の事が気になって仕方がないんだから。まったくー、シュンちゃんってばもー。そんなわけ無いのに。ね、ハム太郎!」

「今井さん、ハムちゃんです。さあ、下に行きましょう。今井さんがこの部屋に居るのは良くないです。それに、そろそろご飯ができる頃かと思いますよ。」

「え!ご飯!ごはん食べたーい!千恵美ちゃんの手作りごはん食べたーい!」

今井さんはごはん食べたいの歌を歌いながら階段をリズム良く降りていった。


「俊治、お父さんの分のビールも持って行きなさいよ!」

「分かってるよ、…お父さんって…母さん、なんでそんなに適応力が高いの?」

「別に高くないわよ。お父さんをお父さんと言っているだけじゃないの。ハムちゃんをハムちゃんと言うのと同じよ。ほら、さっさと持って行きなさい。コップも忘れないでね!」

「忘れないよ。」

僕は納得いかなかったが、とりあえずビールが飲みたかったので、母さんに言われた通りに今井さんにビールとコップを渡した。

「ありがとうシュンちゃん!お父さんのビールを持って来てくれるなんて!素晴らしい息子だ!」

「今井さんまで…調子狂うなぁ〜。」

僕は自分のビールをコップに注ぎながら呟いた。

今井さんもビールを注ぎ、美味しそうに飲んでいる。

「うまー!めちゃうまい!ふー。日本の夏。」

今井さんは母さんが、つまみにと茹でた枝豆を食べながら満足げに言った。

「母さんが山形からお取り寄せしてる枝豆なんです。毎年食べてますけど、毎年美味しいです。香りがなんともいえない。」

僕も枝豆を食べながらビールを飲んだ。うまい。

「枝豆をお取り寄せなんて!家庭的!千恵美ちゃん、ステキー!そしてスキー!」

「今井さん、なに叫んでるんですか!恥ずかしいから止めて下さいよ。」

すると、台所から料理を持って母さんが来た。

ニコニコしている。

「私もシュンヤくんが好き!もー、俊治!お父さんって呼びなさい!いつまでも今井さんなんておかしいじゃない。」

「そうだよシュンちゃん!お父さんって呼んで!今から今井さん禁止ー!」

ダメだ…僕にはついていけない…数時間前までは考えられなかった展開だ。なんてこった!

でも、母さんも今井さんもニコニコして楽しそうだ。

二人とも今日までずっと会っていなかったから、嬉しくて仕方がないのだろう。母さんなんて今井さんに会うのは24年ぶりなんだよなー。嬉しくて当たり前だな。

「ねえ、千恵美ちゃん…その…俺さ、千恵美ちゃんにものすごく迷惑かけちゃったじゃん?それに、異常に歳とって無いし…千恵美ちゃん、怒ってるよね。」
















































































































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