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鳥の声が聞こえた。
日が昇り切る前のうすい靄に包まれて、木刀を振るう少年がいる。
ああ、あれは自分自身なのだと、有吾はぼんやりとした意識の中で認識した。
シュ
シュ
シュ
規則正しく剣が空を切る。
じんわりと汗ばみ、大量に吸い込みたくなる息を乱れないように整えながら、何度も何度も剣を振り下ろす。
同じ作業を繰り返しているように見えるが、頭の中では常に己の至らぬ点を探し、次の一振りに細かな修正を与えている。
『頭をつかうのだ。何も考えずに同じ作業を繰り返しても、上達などない。素振りをするだけ時間を無駄にしているようなものだ』
父の教えだ。
「有吾さん。朝ごはんの用意ができてますよ」
そう声がかかる頃には、もう靄は晴れて、太陽はすっかり昇っていた。
暖かみを増した空気の中に、味噌汁の匂いとご飯の炊ける甘やかな匂いが混じる。
「……母上」
姿形は少年であるのに、聞こえてきた自分の声はずいぶんと低くて、有吾は瞬間、夢から醒めた。
醒めはしたのだが、まだ夢の中にいるような気分だった。
横になったままであたりを見回す。
目に映ったのは、すっかり慣れ親しんだ長屋の部屋ではなかった。
井戸端で噂話をするおかみさんたちの声、仕事に出かけようとする亭主との早口のやり取り、子どもたちの笑い声や泣き声、どぶ板を踏む下駄の音。いつもなら聞こえるはずの、やかましいほどの物音もない。
静けさの中から聞こえるのは、鳥の声と小さな虫の音。
そして、夢の中の続きのような、味噌汁の匂いと炊きたてのご飯の匂い。
ここは、どこだ?
むくりと起き上がり、有吾は自分自身を見下ろした。
見慣れない着物を目にして、あのみやぎという女のことを思い出した。
ここは藪の中の一軒家で、有吾は雨に振り込まれ一夜の宿を借りたのだ。
記憶が蘇ってくる。
起き出した有吾は布団を畳んでから、障子戸を開けた。
ずいぶんとぐっすり寝ていたらしい。
雨戸はすでに開けられて、縁側の先はすぐに周囲の景色を見渡すことができた。雨はやんだようだが、空気はまだ湿っぽく、庭に生えた雑草にはきらきらとした露がびっしりとついていていて、重たそうに葉っぱがしなだれている。
家の前には庭があったが、雑草に覆われていた。庭と藪の境目は、竹垣でぐるりと囲まれている。しかしその竹垣も灰色に変色し、かなり古びてきている。
周囲に家のある気配はない。
家から少し離れたところに、椿の垣根でよく見えないが、今にも崩れ落ちそうな小屋がある。竹垣の内側だから、この家の所有する小屋なのだろう。
土間へと続く板戸の開く音がして、振り返ると戸の影からみやぎの顔が覗いていた。
「お目覚めになられましたか」
みやぎが土間からほかほかと湯気を立てるご飯や味噌汁を運んでくる。
障子戸を開けたまま、二人で膳を囲んだ。
「昔は鶏小屋で鶏を飼っていたんです。まだいれば卵焼きを作って差し上げられたんですけど」
「ああ、あの椿の垣根の向こうの小屋ですか?」
「ええ、あの小屋はもう崩れかけていているんです。鶏もおりませんし、危険ですから、有吾様も近づかれませんように……」
野菜ばかりで申し訳ないと、みやぎは恥ずかしそうにうつむいた。
「とんでもない。味噌汁も漬物も、とてもうまいです。それより、一晩泊めていただいたお礼に、なにか出来ることはありませんか。草むしりでも薪割りでも。それとも、ご主人が帰ってくる前にいなくなったほうが都合がよろしいでしょうか?」
女はなんと答えるか。
有吾としては、みやぎの出方が知りたかった。
「亭主は、上方に所用で出かけております。女手一つでは草むしりも薪割りも手が回りません。お手伝いして頂けるのなら、とても助かります」
「なんと、いや、泊めてもらった私が言うのもなんですが、女の一人暮らしとは、心細くはありませんか。その上周囲に民家もない様子。ご亭主が帰るまで、ご実家なりご親戚に身を寄せたほうがよろしいのでは?」
有吾の言葉を聞くと、みやぎはくすくすと笑いだした。どこか暗い影を帯びた面にさあっと陽の光があたったような、晴れやかな笑みだった。
「大丈夫です。両親も親戚もいないのです。私の頼る人は主人だけなんです。ですからここで、ずっと帰りを待っているのです。寂しくはありませんよ、しなければならないことがたくさんありますし、こうして時々お客様が来てくださいますし」
「しかし……」
食事を終えたみやぎは立ち上がり、縁側へと出ていった。額に手をかざしながら空を見上げている。
「雨は上がりましたが、ひどい降りでしたから、まだ道はぬかるんでいます。お出かけするのは危険でしょう。一晩の恩があるとお感じになるのなら、どうぞ、ゆっくりしていらしてください。草をむしろうにも、もう少し地面が乾かなければ、大変なことになりますでしょう?」
それは確かにみやぎのいう通りだった。
あまり乾いていても草はぬけないが、ぬかるんでいても、また難しい。
「お急ぎですか?」
「いや」
思わずそう答えていた。
「では決まりです」
一晩過ごし、有吾が人畜無害であるとわかったからなのだろうか。今朝のみやぎは明るかった。
有吾はご飯を口の中に放り込み、箸を持ったままの手で、首の後をごりごりと掻いた。
「いや、あなたの方でよいのなら……もう一晩泊めて頂けると助かりますが」
「まあ、うれしい。お茶の用意をいたしましょう」
みやぎは幼女のように手を叩いて喜んだ。