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鬼宿り  作者: 観月
籔の宿
8/36

2

 小屋の引き戸に手をかけると、するりと扉が開いた。

 着物も肌も、頭からとっぷりと水を含んでいたが、雨粒の直撃にさらされなくなっただけでも安堵する。有吾は飛び込んだ土間で、大きく息を吐きだした。

 濡れそぼった着物は体に張り付き、笠をかぶっていたにもかかわらす、髪も顔も、びしょ濡れだった。滝のように流れてくる水滴に、目を開けていることすら辛い。 

「だれか、いませんか?」

 問いかけながら、顔を手で拭う。

 ぴたりと閉まった板戸は静かだったが、ふいに何かの気配が、その奥で動いたような気がした。雨音がひどくて声が届いていないのかもしれないと、有吾は声を大きくした。

「どなたか、お住いではありませんか?」

 古びた板戸が、思いのほかするりと開く。

「はい……どちらさまでしょうか?」

 顔をのぞかせたのは女であった。

 年の頃はそう若くもなさそうだが、美しい顔立ちの女だ。

「まあ!」

 有吾の様子を目にした女は、驚きの表情を作った。

「びしょ濡れではありませんか。いま、手ぬぐいをお持ちします」

 小走りに部屋の奥に消えたが、すぐに戻ってくる。

「これで、体を拭いてくださいませ」

 差し出された手ぬぐいはあっという間に水気を吸い、有吾は何度絞らなければならなかった。存分に雨水を吸った袴は、ちょっとやそっと手ぬぐいで拭ったからといって、肌にぴたりと張り付いたままである。

「どうぞ、上がってお休みになっていってください」

 と言われたが、濡れた着物のまま上がり込むことは、ためらわれた。

「いや、雨を凌ぐことができれば十分です。申し訳ありませんが、土間でしばらく雨宿りさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 女は「ご遠慮なさらずに」と、さらに家の中へ入るように勧めたが、それでも有吾が遠慮していると、何かを思いついたように小さく手を叩いて、再び部屋の中へと消えていった。

 今度は奥へ入ったきり、しばらく出てこない。

 有吾が着物を絞っていると、女の声がすぐ背後に聞こえて、慌てて振り返った。

 女の手の中には一枚の着物があった。

「どうぞこちらを」

 男物であるらしい。亭主のものでもあるのだろうか。

 それにしても、家の中からは女の気配の他に、誰かいるような気配は感じられない。

「これにお着替えになってください。お侍様には、少し短いかもしれませんが……」

「いえ、そんな……」

 ためらう有吾に女は着物を押し付け、板戸を閉めると、奥へと戻っていってしまう。

「お茶を淹れます。着替えたらいらしてください」

閉まった板戸の向こうから、くぐもった女の声が言った。

「すいません! ではありがたくお借りいたします」

 それ以上の遠慮はしなかった。

 古びた着物ではあるが、きれいに洗濯され、しっかりと乾いている。

 袖を通せばふわりと太陽の匂いが鼻腔に届き、有吾は乾いた着物の心地よさを、じっくりと噛みしめるのだった。

 

 しばらく後、有吾は部屋に上がり、女の差し出してくれた茶を口にしている。

 雨足が弱くなり、屋根にぶつかる雨音が気にならなくなってくる頃には、もうすっかり日が落ちていた。

「どちらに向かわれていたのでしょうか?」

 女が問いかけた。

「この先の井沢村に、知り合いを尋ねていくところなのですが。ここから遠いでしょうか」

「遠くはありませんが……。今日は雨模様ですから月もありません。夜道は危険です。どうぞ泊まっていってくださいませ」

 願ってもない申し出だった。

 それにしても、近くで見れば見るほど、こんな山奥に暮らしている女とは思われないような、美しい女だった。

 細いけれども、胸や腰には成熟した女のまろみがある。何よりも、着物からすっと伸びる首筋の白さは、百姓女のものとは思えない。顔色も透き通るように白く、微笑む唇だけが紅く色づいている。どこか疲れたようなけだるげな雰囲気は、女に儚さを添えて、男なら庇護欲を掻き立てられるに違いない。

 そういう種類の女だった。

 女は夕餉の支度をはじめた。

「ところで、ご主人はいつお帰りになるのですか?」

 こんな土砂降りの雨の中、暗くなっても帰らないのに、心配ではないのだろうか。

「……」

 女は答えなかった。

 けれども目をしばたかせ、涙を堪えるような表情になる。

 いけないことを聞いてしまった。そう有吾は感じた。

「すみません、差出たことをお聞きいたしました」と謝ると、女は首を振る。黒いほつれ毛が、ふわふわと小さく揺れた。

「冷めないうちにどうぞ。おかわりもありますので」

 しばらくすると、茶碗に大盛りのご飯が差し出された。それから味噌汁に香の物。これだけでも十分なのに、煮物まである。わざわざ炊いてくれたらしく、ホカホカと温かいご飯がおひついっぱいに入っている。

 雨の中あるき続けた有吾の腹は、匂いをかいただけでぎゅるぎゅると音を立てた。

 自分でもその音に驚き、女の方を見る。

 残念なことに女の耳にもその音は届いていたらしい。

 ずっとうつむき加減だった女と、有吾の視線が初めてぶつかった。

 とたんに二人は声を立てて笑い、今まで二人の間にあった緊張がはらりと解けていった。

 有吾は恥ずかしさを紛らわすために、ひときわ大きな声で「いただきます」と手を合わせる。

 それぞれの料理を順に口に運ぶ有吾を、女は神妙な顔つきで見守っていた。

 一通りの菜を食べると、有吾は一旦箸を置いて姿勢を正す。

「うまいです」と頭を下げると、女が安堵したように笑った。

「どうぞ、たくさん食べてくださいませ」

「かたじけない。ええっと……あなたも、一緒に食べませんか?」

「みやぎです」

「みやぎ……」

「はい。みやぎと申します」

「じゃあみやぎさん。私が言うのも変ですが、一緒に飯を食べませんか」

 有吾の誘いにみやぎは小さくうなずくと、自分自身の茶碗にご飯をよそい、箸を手にした。

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