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小屋の引き戸に手をかけると、するりと扉が開いた。
着物も肌も、頭からとっぷりと水を含んでいたが、雨粒の直撃にさらされなくなっただけでも安堵する。有吾は飛び込んだ土間で、大きく息を吐きだした。
濡れそぼった着物は体に張り付き、笠をかぶっていたにもかかわらす、髪も顔も、びしょ濡れだった。滝のように流れてくる水滴に、目を開けていることすら辛い。
「だれか、いませんか?」
問いかけながら、顔を手で拭う。
ぴたりと閉まった板戸は静かだったが、ふいに何かの気配が、その奥で動いたような気がした。雨音がひどくて声が届いていないのかもしれないと、有吾は声を大きくした。
「どなたか、お住いではありませんか?」
古びた板戸が、思いのほかするりと開く。
「はい……どちらさまでしょうか?」
顔をのぞかせたのは女であった。
年の頃はそう若くもなさそうだが、美しい顔立ちの女だ。
「まあ!」
有吾の様子を目にした女は、驚きの表情を作った。
「びしょ濡れではありませんか。いま、手ぬぐいをお持ちします」
小走りに部屋の奥に消えたが、すぐに戻ってくる。
「これで、体を拭いてくださいませ」
差し出された手ぬぐいはあっという間に水気を吸い、有吾は何度絞らなければならなかった。存分に雨水を吸った袴は、ちょっとやそっと手ぬぐいで拭ったからといって、肌にぴたりと張り付いたままである。
「どうぞ、上がってお休みになっていってください」
と言われたが、濡れた着物のまま上がり込むことは、ためらわれた。
「いや、雨を凌ぐことができれば十分です。申し訳ありませんが、土間でしばらく雨宿りさせていただいてもよろしいでしょうか?」
女は「ご遠慮なさらずに」と、さらに家の中へ入るように勧めたが、それでも有吾が遠慮していると、何かを思いついたように小さく手を叩いて、再び部屋の中へと消えていった。
今度は奥へ入ったきり、しばらく出てこない。
有吾が着物を絞っていると、女の声がすぐ背後に聞こえて、慌てて振り返った。
女の手の中には一枚の着物があった。
「どうぞこちらを」
男物であるらしい。亭主のものでもあるのだろうか。
それにしても、家の中からは女の気配の他に、誰かいるような気配は感じられない。
「これにお着替えになってください。お侍様には、少し短いかもしれませんが……」
「いえ、そんな……」
ためらう有吾に女は着物を押し付け、板戸を閉めると、奥へと戻っていってしまう。
「お茶を淹れます。着替えたらいらしてください」
閉まった板戸の向こうから、くぐもった女の声が言った。
「すいません! ではありがたくお借りいたします」
それ以上の遠慮はしなかった。
古びた着物ではあるが、きれいに洗濯され、しっかりと乾いている。
袖を通せばふわりと太陽の匂いが鼻腔に届き、有吾は乾いた着物の心地よさを、じっくりと噛みしめるのだった。
しばらく後、有吾は部屋に上がり、女の差し出してくれた茶を口にしている。
雨足が弱くなり、屋根にぶつかる雨音が気にならなくなってくる頃には、もうすっかり日が落ちていた。
「どちらに向かわれていたのでしょうか?」
女が問いかけた。
「この先の井沢村に、知り合いを尋ねていくところなのですが。ここから遠いでしょうか」
「遠くはありませんが……。今日は雨模様ですから月もありません。夜道は危険です。どうぞ泊まっていってくださいませ」
願ってもない申し出だった。
それにしても、近くで見れば見るほど、こんな山奥に暮らしている女とは思われないような、美しい女だった。
細いけれども、胸や腰には成熟した女のまろみがある。何よりも、着物からすっと伸びる首筋の白さは、百姓女のものとは思えない。顔色も透き通るように白く、微笑む唇だけが紅く色づいている。どこか疲れたようなけだるげな雰囲気は、女に儚さを添えて、男なら庇護欲を掻き立てられるに違いない。
そういう種類の女だった。
女は夕餉の支度をはじめた。
「ところで、ご主人はいつお帰りになるのですか?」
こんな土砂降りの雨の中、暗くなっても帰らないのに、心配ではないのだろうか。
「……」
女は答えなかった。
けれども目をしばたかせ、涙を堪えるような表情になる。
いけないことを聞いてしまった。そう有吾は感じた。
「すみません、差出たことをお聞きいたしました」と謝ると、女は首を振る。黒いほつれ毛が、ふわふわと小さく揺れた。
「冷めないうちにどうぞ。おかわりもありますので」
しばらくすると、茶碗に大盛りのご飯が差し出された。それから味噌汁に香の物。これだけでも十分なのに、煮物まである。わざわざ炊いてくれたらしく、ホカホカと温かいご飯がおひついっぱいに入っている。
雨の中あるき続けた有吾の腹は、匂いをかいただけでぎゅるぎゅると音を立てた。
自分でもその音に驚き、女の方を見る。
残念なことに女の耳にもその音は届いていたらしい。
ずっとうつむき加減だった女と、有吾の視線が初めてぶつかった。
とたんに二人は声を立てて笑い、今まで二人の間にあった緊張がはらりと解けていった。
有吾は恥ずかしさを紛らわすために、ひときわ大きな声で「いただきます」と手を合わせる。
それぞれの料理を順に口に運ぶ有吾を、女は神妙な顔つきで見守っていた。
一通りの菜を食べると、有吾は一旦箸を置いて姿勢を正す。
「うまいです」と頭を下げると、女が安堵したように笑った。
「どうぞ、たくさん食べてくださいませ」
「かたじけない。ええっと……あなたも、一緒に食べませんか?」
「みやぎです」
「みやぎ……」
「はい。みやぎと申します」
「じゃあみやぎさん。私が言うのも変ですが、一緒に飯を食べませんか」
有吾の誘いにみやぎは小さくうなずくと、自分自身の茶碗にご飯をよそい、箸を手にした。