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雨のせいだろう。部屋の中はずいぶんと暗かった。
勝手知ったるで、六助は部屋の隅の行灯に火を灯す。何しろ狭いので、行灯一張もあれば、十分に明るい。
濡れた着物を手ぬぐいで払っていると「ちょいと、センセ、戻ったのかい?」と、戸口の方から声がした。
返事をする間もなく、戸が開く。
「おやぁ、六助さんじゃあないか~」
現れた人物は、六助の姿を確認すると、鼻にかかったような声を出して身をくねらせた。
隣に住んでいるおかみさんだ。名前までは覚えてないが、見覚えはあった。
「旦那はまだ帰ってねえんで」
「ふうん、あれまあ! どこの子だい!」
早速とよを見つけたらしい。
「まさか六助さん、子どもが……」
「旦那のお客だよ」
「あら、びしょ濡れじゃないかい? ちょっと、待ってなよ」
あっという間に部屋を出ていったと思えば、外からわいわいと騒がしい声がする。今度は別のおかみさんが有吾の家に顔を出し「子どもの着物だってえ? これで小さくないかい?」と言いながらずかずかと部屋に上がってきた。
とよがきょろきょろと目を泳がせているうちに、ちょっと太めのおかみさんのもちもちした手が、とよから濡れた着物を剥ぎ取ると、持ってきた着物を着せる。
「どうかねえ?」
土間に立って様子を眺めていた女が「いいじゃないか」と満足そうな笑顔を浮かべた。
「よかったよ。うちの子のがまだあってさあ。いつまでもとっておきゃしないからねえ」
よく見ると戸口から部屋を覗く、数人の子どもたちの姿も見えた。
雨が降っているからこれくらいですんだが、そうでなければ、有吾の家の戸口には人だかりができていただろう。一つの長屋なんていうのは、みんな家族みたいなもんだ。
「あ……ありがとう」
おかみさんたちの勢いに飲まれていたとよがようやく口を開いた。
「ちゃんとありがとうが言えるなんて偉いねえ」
「いくつだい?」
「旦那のお客?」
「お客って、化け物屋のかい?」
数人のおかみさん連中が一気に話し出すものだから、答える暇もない。しばらくの間大騒ぎだったのだが「とよぼうは、江戸に出てきたばっかで疲れてるんだ、ちょっと休ませてやってくれるとありがてえんだがねえ」と、おかみさんたちのおしゃべりが少し収まってきたとみて、六助はすかさず言った。
折よく暮六つの鐘が鳴る。
「あらやだよう」
「ごめんねえ」
「うちの人もそろそろ帰ってくるわあ」
土間に陣取っていたおかみさんたちは、愛想笑いを振りまきながら、姿を消した。
室内は一気に静かになる。とはいえ、雨の音やら隣近所の生活の音やら会話やらが小さな部屋の外側からひっきりなしに聞こえていた。
とよはよほど疲れていたのだろう。
おひつに残っていた冷や飯を食っているうちに、こっくりこっくりと舟を漕ぎだした。
◇
すっかりと日は落ちたらしい。
いつの間にやら雨音はしなくなっていた。
とよは、六助がひいてやった布団の中ですやすやと眠っている。
まだ、有吾は帰らない。
まさか小さな子どもを一人だけ置いて帰るわけにもいかない。六助は暗闇の中で壁にもたれた姿勢のまま、わずかに眠ってしまっていたらしい。
「う……うう……っ!」
とよの声にハッとして、目が覚めた。
「とよ?」
覗き込むと、とよは汗をびっしりとかいていた。
「うぅっ……」
食いしばる歯の間から、言葉にならないうめきがもれる。
「くるな……こっち、来るなあっ!」
「とよ! とよぼう! おいっ!」
六助はとよの小さな体を抱き起こして、ぎゅっと腕の中に抱き込んだ。
小さな手が、六助の肌にしがみつこうとする。
「あいつが……あいつが……」
「大丈夫だよ、おとよぼう。ここは江戸で、化け物屋の旦那の住んでいなさる長屋だ。どんな怖い化け物だってやっつけてくださる旦那の家だよ」
耳元でそう言い聞かせ、腕に力を込めてやると、しだいにとよの身体の震えは治まっていった。
「六助あんちゃん?」
「そうだよ、六助あんちゃんだ。もうすぐ旦那も帰って来なさる。それまであんちゃんがとよの側についてるよ」
六助は濡れた着物を乾かすために脱いだので、裸である。直接肌に触れるとよの暖かさが、胸の奥をジンとさせた。こんな年端もいかない娘が、うなされて飛び起きるほどの、どんな恐ろしい思いをしたというのだろう。
「よく頑張ったな……こんなにちいさいのによう……さあ、あんちゃんがちゃんとここにいるから、眠っちまいなよ」
そっと布団に横たえてやると、背中に回っていたとよの手から力が抜けていく。
「あいつは、おれに声をかけてきたんだ……」
「うん」
「初めは、きれいな女の人の姿だった」
「うん」
「江戸までは遠いよって、家で休んできなよって……」
「うん」
「おれ、あいつのうちに入ろうとしたんだ。そしたらさ、家の奥の方から何か、きらきらしたもんでぐるぐる巻きにされた男が飛び出してきたんだよ。それで、逃げろって言われたんだ」
そこまで話したとよは、ぶるりと身を震わせた。
「それで……それで……そうしたら……あいつが、その男を……」
また暗い恐怖の中に落ちていきそうだったとよの頬を六助はなでた。
「とよ、わかったよ。その男がひどい目にあったんだな? とよはそれを見てたんだな? それでここまで逃げてきたんだな? 大丈夫だよ」
六助の腕の中で固まっていたとよの恐怖が、ゆるゆると弛緩していく。
「六助あんちゃん……」
「うん。ちゃんとそばにいるよ」
「……」
眠気がとよを包んでいく。
すっかりととよが寝入るまで、六助は添い寝をしながら、じっととよを見つめていた。