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鬼宿り  作者: 観月
帰趨
34/36

4

 自分が井沢村から江戸に帰ってきてから、今の今まで有吾に会わなかったのは、あのときのことを思い出したくはなかったからではないのか。それを仕事のせいにして逃げていたのではないのか。そんな思いが六助の中に湧き上がってくる。

 そして、それに気がついてしまえば、知らないふりをしてやり過ごせるような六助ではなかった。

「とよは、無事なんでしょうかねえ」

 声に出してしまうと、幾分気が楽になった。今まで、六助自身が語らなかったものだから、周りのみんなも気を使って詳しいことを聞いてこようとしなかったのだ。

 親方にしろ、女将さんにしろ、口うるさいようでいて、変なところに気が回る。いや、周りのせいにするわけにも行かない。確かにいままで六助は、あの日のことを思い出したくないと思っていたのだ。

 酒を傾けていた有吾の手が止まった。瞬きするほどの間の後に、有吾は酒を煽ると

「さあ、どうでしょうか……」

 と、静かに言った。

 有吾が飲み干した椀に、六助はまたなみなみと酒を注いでやる。

「おみつの奉公先に探りを入れれば、少しは様子もわかるのでしょうが」

「ああっ! そうですよ旦那。もうひと月だ、おみつが江戸に戻ってるならなにか連絡があったっておかしくねえや」

 六助が腰を浮かせると、わずかに有吾の唇は笑みのような形をつくる。

「連絡がねえってことは、まだ江戸に戻ってない?」

「かも知れませんね。奉公先にくらいは連絡を入れてるでしょうから、どんな理由でみつがまだ江戸に戻っていないのか探りを入れればいいのですけど」

 そこで有吾は大きな肩を少し竦めた。

「実は、理由を知ってしまうのが怖いのです。とよの看病のためにまだ戻っていないというのならいいのですが、とよの弔いのためだと言われたらと思うと……」

 有吾の言葉は、そのまま六助の気持ちに重なる。

 有吾と自分は同じだ。忙しいという言い訳で、時間を作ろうともせずに有吾に会おうとしなかったのは、怖かったからだ。

 知らなければ、とよは六助の中で生きている。そう思えたからだ。


 しかしそれとは別に、六助はあの事件だけではなく、有吾からも逃げていたのだ。

 自分でも薄々気づいていた。あの事件の後、極力見ないように目を背けていた自分の気持ちに。

 ――それは、自分の中に生まれた、有吾に対する冷たくゴロリとした、暗い感情の塊だ。この塊をなんと表現したら良いのか、六助にもわからない。自分の中にこんな感情があると、初めて知ったのだから。

 まるで何かに憑かれたようにとよの腹に刃を向けた有吾を、恐ろしいと感じたのだ。

 あの晩、有吾はとよの腹に刀を当てると、すうっと目を閉じた。

 目を閉じ、なにかに耳を傾けるような仕草をしながら少しずつ刀の位置や傾きを変えていく、そしてピタリとその動きが止まる。

「行きます」

 一言六助とみつに声をかけたと思った途端に、刀は真っ直ぐにとよの体内へ飲み込まれていった。

 その時だ。

 有吾の体が、真っ黒な炎となって燃え上がるのを、六助は見たのだ。

 あれは、恐れおののいていた自分の恐怖心が見せた幻だったのかも知れない。

 しかし、どんなにあれは幻なのだと自分に言い聞かせても、どんなに忘れようとしても、あのときの様子がまざまざと目の裏に浮かぶのだ。

 黒く燃える有吾。炎の中にくり抜いたように白く吊り上がった目がある。そしてその真っ黒な炎は一度ギロリと六助を睨むと、白い亀裂のような口を開けて笑った。

 炎はやにわに収縮し、有吾の腕を通り細い刀の刀身を通り抜けて、とよの体内に消えていく。

 とよの悲鳴が聞こえて、のけぞる身体を押さえつけるために、六助はもう有吾を見ることができなかった。だからあれはほんの一瞬の、瞬きするようなほどの時間の出来事だったのだろう。

 有吾はたった一度刀をとよの腹に突き入れただけだった。

 腹を割いて、その中から蜘蛛の卵とやらを取り除かなければいけないのではと思っていた六助やみつにとっては、あっけないほどだった。

 妖しの卵というのがどんなものなのか、ついに六助は目にしていない。たったの一突き、あれだけで本当に腹の中の卵を取り除くことができたのか?

 それでも痛みに身を捩るとよを押さえつけ、傷口の手当をするのは至難の業で、疑問を口にする機会は失われてしまった。

 たったの一突きだったために、傷口は極めて小さい。刺しどころがよほど良かったのか、出血も殆どなかった。

 そのお陰で、傷口に蒲黄と蓬を刷り込み柿の葉をあてて晒で巻く程度の治療で済んだのだ。針と絹糸を用意していたみつは、どれだけ安堵したことだろう。

 いいことなのだ。とよのためには。

 けれど、その鮮やかさが更に六助の心のうちに冷たい澱を作った。

 井沢村からの帰り道、有吾と六助は、互いに言葉少なだった。

 黙って江戸に帰り着き「お疲れさまでした」と言葉をかわし、互いの長屋に戻った。

 それ以来、目を背ければ背けるほど、六助の中の得体のしれない黒いものは膨れ上がり育っていたのだった。


 けれども、今こうして有吾を目の前にしてみると、膨れ上がった塊は、どんどんと小さくなっていく。

 困ったように額を撫でる仕草も、うつむきがちに酒をすする仕草も、まったくもって普通の……普通より体はでかいが、江戸っ子としちゃあ多少野暮な男でしかない。

「へへ……へ」

 酒をなめながら、変な笑い声が出てしまった。

「どうしました?」

 突然笑い出した六助に有吾が目を丸くしている。

「いえね、いろいろ心配して、一人でぐるぐるしてたんですが、もっと早く旦那に会いに来りゃあよかったなと思ってるところなんで」

 いなり寿司を大口で頬張った。

「人の考えることってえのは、大抵ろくでもないもんですねえ。下手な考え休むににたり。昔の人はよく言ったもんだ。考えてないで、動かなきゃなんにも始まりません。あっしは、明日にでもみつの奉公先に行ってみますよ。いや、なあに、あそこには知り合いがいるんです」

 もぐもぐといなり寿司を噛みしめると甘辛い味が口いっぱいに広がる。

「こいつだって、食ってみなけりゃあどんだけ美味いかわからないわけですよ」

 うまいなあと笑ってみせると、びっくりしたような顔をしていた有吾も、ようやく笑顔になった。


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