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鬼宿り  作者: 観月
帰趨
32/36

2


 文月、二十三日。処暑、である。

 暦とは裏腹に、蒸し暑い一日だった。それでも夜になると、そよぐ風には秋の気配が混じっている。


 有吾、六助と打ち解けたひさは、興奮したためかなかなか寝付けないようだった。寝たと思ってもちょっとした物音で目を覚ましてしまい、すっかり寝入るころにはもう下弦の月が顔を出し、文月二十四日がはじまろうとしていた。

「寝ましたか?」

 寝間であるある奥の座敷の様子を見てきたみつに六助が声をかけた。

「ええ、すっかり寝てしまったみたいですね。おとっつぁんが、見てくれてます」

 二人の会話を耳にしながら、有吾は刀の手入れをしていた。

「ところで、おみつちゃんたちのおっかさんは……」

 みつたち姉妹の母親については、有吾も気になっていたことであったので、耳をそばだてたが、みつの答えはなかなか聞こえない。

「いや、言い辛かったらいいんで! 余計なことを聞いちまった!」

「いえ、そうじゃないんです! ええと、何処から話したものか、悩んでしまって」

 みつの慌てたような声が、六助の声に重なっていた。

「ええと……おっかさんはひさを産んでしばらくした頃、突然いなくなってしまったので。おっかさんは綺麗で、働き者で、とても優しい人でした。集落のみんなも一生懸命探してくれましたが、まるで神隠しにあったみたいに、いなくなってしまったんです。もともとおっかさんはこのあたりの出身の人ではないらしく、身よりもなかったので、あれは妖しではなかったかなんてその後噂になって……。私達も妖しの子ではないかという、変な噂になったりして……それで、そんな家に来てくれる人もいなかったものだから、おとっつぁんは後添いをもらうこともせずに、男で一つで私達を育ててくれたんです。」

 ここまで一気に話し終えると、みつの言葉は途切れた。

「さあ、私たちの身の上話で夜が明けちゃいますよ」

 言葉をかわしていた二人の視線は、自然と有吾に向いているようだ。

 有吾はちょうどなかごを柄に収め、目釘を打ったところだった。

 万が一のためにと、荷物の中に油紙に包んで打ち粉やら拭い紙といった手入れに必要なものを用意していたのが、役に立った。

 刀にこだわりはない。

 今はもうない山瀬家には、名刀と言われる刀があり、かつての有吾はそれを誇りにもしていた。

 しかし、名刀だからといって、人と切り結べば刃こぼれもするし錆もする。名刀といわれるような美しい刀――あれは、実戦向きではないのだと思い知るのに時間はかからなかった。それ以来刀に対する執着はなくなった。よほどの鈍らでなければ、新しいもののほうがよい。血に曇れば捨てる。一本で何人とも切り結べるような刀があるとしたら、それこそ妖刀だ。

 有吾にとっての刀は、羅刹であるのかもしれない。

 どんな刀を手にしても、有吾が振るえば、そこには羅刹が宿る。

 しかし、とよの腹を切るのだ。

 少しでも良い状態の刀を使いたい。


 ――羅刹。


 心のなかで呼びかければ、有吾の前に赤い巨躯が現れる。

 上半身は裸であるが、下半身はいつものボロ布ではなく、やけにゆったりとした、白い股引きのようなものを身に着けていた。たっぷりとした布は柔らかそうに波打っており、羅刹の大きな体に似合っていた。

 額から突き出した角は歪に天を向き、黒い髪がごわごわと広がっている。

 六助とみつの二人には見えていないのだろう。二人の様子に変化はない。

 有吾は右手に刀を持つと、腕を真っ直ぐに伸ばしなるべく身体から離して、刀全体をじっくりと眺めた。

 昨夜、蜘蛛の化けものと激しく切り結ぶようなことがなかったことが幸いして、刃こぼれもあまりしていない。

「では、そろそろはじめましょうか」

 有吾が言うと、部屋の中には重苦しいような緊張感が瞬く間に漲っていった。


 土間の脇の囲炉裏のある板の間に布団を敷いて、とよは寝かされていた。黒く煤けた壁や天井に、行灯の灯りが三人の影を映す。

 寝ているとよの脇には、みつが家中からかき集めてきた手ぬぐいやら、たらいになみなみと注がれた水などが用意されている。血を拭ったり、止血をするために必要なのではと、考えたらしい。今の有吾はとよの腹を切ることでいっぱいいっぱいなので、言わずとも動いてくれるみつの存在はありがたかった。

『有吾』

 羅刹の声が聞こえた。目を上げると、腕組みをした羅刹が、白目のない真っ黒な瞳で有吾を見下ろしていた。

 ――なんでしょう。

『吾が斬ってやろうか?』

 ――あなたが?

『ああ、お前の身体を吾に明け渡せばいいのだ。お前が切るなら吾は刀に宿り、お前に必要なことを助言してやることができるだろうが、切るのはお前自身だぞ。お前、それを一生背負えるのか?』

 黒い羅刹の瞳が、わずかに緑がかり光っているように見えた。深刻な話だと言うのに、相変わらず口元にはにやにやとした笑みが浮かんでいる。

 もしうまくいかなかったとき、お前はとよ殺しの事実を背負ってこれから生きていけるのかと問う羅刹は、有吾の逡巡を楽しんでいるのだろうか。

 それとも――

「で? だんな、あっしたちはどうしたらいいんで?」

 羅刹の瞳に引き込まれてしまいそうな感覚を断ち切ったのは、六助の声だった。

 有吾ははっと息を吸い込む。

 自分自身を落ち着けようと深い呼吸を数度繰り返した。

「ではおみつさん。まずは、とよの着物を脱がせてください」

 神妙な表情でみつはうなずいた。

 今のとよはいくら大声で話しかけようが、頬を張ろうが目を開けることはない。

 それでもみつの指先は、静かにとよに触れた。ゆっくりと、みつが妹の着物を脱がし終えると今度はとよが舌を噛んでしまわないようにと、猿轡をかませる。

「私がとよに馬乗りになり、足を抑えますので、六助さんとおみつさんは、右と左の腕と肩を抑えておいてください。暴れて、おかしなところを傷つけてしまっては、おとよの命に関わります。しっかりとお願いします」

 二人は神妙な顔でとよの右側と左側に別れた。

 ごくりと生唾を飲み込む音がする。

「御免」

 一言発すると、有吾はとよの腿のあたりへ馬乗りになり、腹の底に気合を込めた。

「羅刹。助言を――」

 有吾は刀の切っ先をとよの腹へと向けた。

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