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「人手が向こうから来る」という羅刹の言葉を飲み込むことができないうちに、近づいてくる人の気配がした。
ガサガサと木立をかき分ける音がして、その中に人の話し声が混じる。
「へえ、こんなところに……」
「ええ、一休みするにはいい場所ですよ」
男と女。旅の夫婦でもあろうか。
しかし、街道から少し脇にそれたこの水辺は、地元の者でもなければ知らない場所ではなかろうか。有吾とて、羅刹の案内がなければこの水辺へたどり着くことはなかっただろう。
そう考えるとこのあたりの集落の人間かもしれないし、ここからもう井沢村は近いはずだから、とよのことを知っている人かもしれない。
「人手」と羅刹は言ったが、そうすんなり協力してもらえるものだろうか。
有吾は自分自身の姿を見下ろした。片腕のない着物。あちこちほころび、破れ、血が滲みている。とよは怪我こそしていないものの、青い顔をしてぐったりと気を失っているように見えるだろう。
どこからどうみても、怪しい。尋常ではない。
普通の人が、こんな状況の旅人に出くわしたら、なんと思うだろうか。
有吾は途方に暮れた。
これから繰り広げられるであろう騒動を想像すると、安堵よりも先に、気が重くなってくる。
「あっしまで、ご一緒させていただいて、すいませんねえ。でも暑くて参ってたところなんで、一休みできる場所ってえのは助かりやすねえ」
男の声が、ずいぶんと近くで聞こえた。
ぴんとはった若い勢いと、どこか和やかな雰囲気を持つ、聞き心地の良い声だ。
この声には、聞き覚えがある。
声を聞いた途端、有吾はしばし忘れていた江戸の町並みや、賑やかな長屋を思い出した。
ガサガサと揺れる熊笹の木。その葉陰から見えた女は男を案内するために後ろを向いていて、まだ有吾に気づいていない。
「ここですよ」
小柄な女だ。
風呂敷を背負って、絣の着物を着ている。若い娘らしいはっきりとした声は、凛と澄んでいる。
女の影から出てきた男は、有吾の姿を見た途端に、顔面に貼り付けていたにこやかさを、凍りつかせた。一瞬固まった表情が次第に緩み、眉がハの字に下がる。
そして「旦那ぁぁぁ!」と、なんとも情けない声を上げた。
「六助さん……」
有吾の想像通りの人物がそこにいた。
「いったいどうしてここへ……」
「ど……ど……ど……」
いつもなめらかにおかみさんたちを口説く六助が口ごもっているのが、どこかおかしかった。
「どうしたもこうしたもありませんよ、山瀬の旦那ぁ! ちょ! ちょいと旦那、笑ってる場合じゃあ、ありませんぜ!」
つかつかと近づいてきながら、堰を切ったようにまくしたてるが、六助の口調の中にも安堵が混じっているようだった。
「旦那はなかなか帰って来ねえし、おとよちゃんはいなくなっちまうし、おみつちゃんは在に帰ることになったって言うし……って、旦那、すごい怪我じゃあ……」
「……おとよ!」
ようやく有吾の腕の中にいるとよに気づいたらしい。六助は口ごもり、六助と一緒にやってきた娘はとよを抱く有吾へと走り寄ってきた。
「とよじゃないの! どうしたの?」
跪いた娘は、ぐったりとしたとよの頬をさすったり、体を触ったりしている。
おそらくこの娘がとよの姉のみつなのだろう。
くりっとした目が似ている。
みつは有吾の腕からとよをもぎ取ると、そのくりっとした目を吊り上げて有吾と六助を交互に睨んだ。
「あなたたち……誰なんですか? とよとはどういう関係で? あたしのことも、知ってるんですか? 六助さん、あたしのこと、もしかして最初から騙してたの!」
みつの凛とした大きな声が、空きっ腹に響いて、有吾はめまいを覚えた。
「おみつちゃん。説明する。ちゃんと説明するよ。だから少し落ち着いて。あっしたちはおとよちゃんに頼まれて……おわあ! 旦那!」
混乱から立ち直ったらしい六助がみつをなだめにかかったが、ばったりと仰向けに倒れた有吾に驚きの声を上げる。
「旦那、旦那、どうしたんで? 死にゃあしませんよね? しっかりしてくださいよ。化けもののやつは倒したんで?」
六助に揺さぶられ、ますます気が遠くなる。
「ちょっと、六助さん、落ち着いて」
そう声をかけたのはみつだった。
「一つ聞かせて。六助さんたちは、とよを知ってるの?」
「知ってるも何も、山瀬の旦那はおとよちゃんに頼まれて化けもの退治に出かけたんで……」
そう答えながら六助はあたりを周囲に視線を走らせた。化けものを警戒しているのかもしれない。
「化けもの?」
「……もう、いない」
「退治しなすったんで?」
有吾のつぶやきに、六助が飛びついた。
声をだすのも億劫で、有吾はわずかに顎を引いた。
ふう、というみつのため息が聞こえる。
「それより山瀬様? どうしたの? 具合が悪いの?」
とよを抱いたまま、みつは首を伸ばして有吾を見下ろしていた。その瞳から、もう怒りの色は消えている。
「腹が……減りました」
有吾の言葉を証明してくれるかのように、ぐるるるると、腹の虫が盛大に鳴いた。腹が減っているのだと言葉に出した途端に、空腹感はますます激しくなる。
「まあ!」
元来優しい娘なのだろう。
もしくは、有吾のあまりにも情けない姿に、警戒心が薄れたのかもしれない。
みつはそっととよを大岩の上に横たえると、背負っていた風呂敷包みを開き始めた。
「持ってきてて、よかった」
ごそごそと荷物を弄っていたみつが、はい、と手を有吾の前に差し出した。みつの手のひらには、竹皮の上に白い握り飯が乗っていた。たくわんまでついている。
どうやら有吾に食べろということらしい。
「かたじけない」
有吾はむくりと起き上がると、飲み込むようにして、握り飯を腹の中へと詰め込んだ。




