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鬼宿り  作者: 観月
余燼
28/36

3

 道に出たといっても、今まで通ってきた藪の中よりは幾分歩きやすいという程度の細い道だった。

 草は茫茫と生え、ただでさえ細い道だというのに、それさえ遮ろうとするかのようにあちこちから枝が突き出している。

 行く手を塞ぐ下草や枝を払おうにも、とよを背負った有吾は手が使えなかった。それでも、少しでもとよに枝が当たらないようにと、足や肩を使い、かき分けるようにして歩を進る。

 むき出しになった傷に枝が当たると、思わずうめき声が漏れそうになった。

 つい先程までは爽やかだった空気が、日が昇るにつれ、重さを増し、ベタベタとまとわりつきはじめる。

 痛みのせいで吹き出す脂汗と、気温の上昇による汗が混じり合い、頭の天辺からたらたらと流れ落ちてくる。眉にとまった汗のしずくを拭おうにも、手を使うことのできない有吾は、瞬きをしてみたり顔を振ったりして、汗が目に入るのを防いだ。

 それだけでも十分に鬱陶しいというのに、小さい虫までまとわりついてくる。腕に止まった蚊を見つけたが、叩くに叩けない。

 ジリジリとする不快の底から蘇ってきたのは、幼い頃近所の婆さんから聞かされた、恐ろしい話だった。

 一晩中門扉の柱に縛り付けられ、蚊に血を吸い取られて亡くなってしまったという嫁の話だ。幼い時分には『そんなことあるもんか』と思いながも、腕や足に蚊がたかると、大騒ぎをしながら叩き潰した。潰れた蚊の腹からは、赤い血が滲み出して、ああ、本当に自分は喰われていたのだと、妙な気分になったものだ。大人になってみると恥ずかしくなるような記憶だ。

 人一人蚊に食い殺されるなどということは、めったにあるものではないだろう。いや、この話自体が本当にあった話なのかどうかは、(はなは)だ疑問である。もし似たようなことがあったのだとしても、嫁いびりを面白おかしくしたもので、死因が蚊に喰われたからなどというのは、眉唾ものに違いない。あの頃は蚊を恐ろしいと思ったものだが、この話だってよくよく考えれば本当に恐ろしいのは姑だろう。

 嫌な思い出に、思わずうつむきかけていた顔を振り起す。

 だいたい、どうにもならないものを心配しても仕方がない。有吾は思い出に蓋をして、思考することを止めた。ただただ足を一歩一歩進めていくことに集中する。

 しかし今度は、自分自身の腹からぐるるるる、きゅるるるるという音がひっきりなしに鳴りだした。

 空腹を忘れようとしても、否が応にも耳に入ってくる切ない腹の音に、思わず笑ってしまいそうになる。

 今ここで死ぬのだとしたら、蚊に食われたせいではなく、十中八九飢餓のせいに違いない。死ぬには違いないのだが、そのほうがまだ救いがあると思ってしまう自分自身にも、笑いがこみ上げてくる。

 人というものは浅はかで恐ろしいのだと言いながら、やはり自分もそのうちに一人なのだと、安堵と落胆の入り混じったような心持ちになる。

 ふと気配を感じて顔をあげると、今まで姿を消していた羅刹が、少し先で手招きをしていた。ざんばら髪の、六助崩れのような格好で、暑さなど感じていないらしい涼しい顔で、ついてこいとでもいうように手をひらひらとさせ、道をそれて、林の中に入っていってしまった。

 有吾はとよを一つ揺すり上げると、羅刹の跡を追った。

 自分に宿った羅刹という鬼のことを、有吾は基本信頼している。

 別に、お互いに好意を持っているというわけではない。お互いが必要、というだけの関係だ。

 初めて出会った晩に羅刹は言った。

「吾は、封印されし身。己一つで力を振るうことはできぬ。我の力を貸してやろう。そのかわり、お前の力も吾に貸さぬか?」と。

 要するに羅刹は有吾を通さなければあの不可思議な力を振るうことができぬのだろう。有吾以上に条件に合う人物が現れぬ限り、羅刹は有吾に宿り続けるのに違いなく、そのために有吾を見殺しにするようなことはしないはずである。

 有吾は躊躇なく道を外れて再び木立の中へと入っていった。林の中ですら蒸し暑い。よほど気温が上がっていると見える。

 羅刹の気配を追い、ほんの少し林の中を分け入ると、小さな沢が流れていた。

 羅刹は沢の辺りで腕組みをし、空を見上げるようにして立っていた。

 有吾はとよを苔むした大きな岩の上に下ろすと、吸い寄せられるように沢の中に飛び込んだ。

 ほんの小さなせせらぎが、有吾の中に生気を運んでくれた。

 くるぶしより少し上までしかないような小川だったが、出来ることなら着物を脱ぎ捨てて、小川の中で転がりまわりたいくらいだ。

 とにかく両手いっぱいに水を掬った。

 ゴクリと喉が鳴る。

 清涼な冷たさで、清水は有吾の喉を通り抜け、腹の中へと落ちていく。

「うまい……」

 思わず言葉が口をついて出た。

 後はもう、羅刹がそばにいるのすら忘れて、存分に飲み、汗を流した。

 着ていた着物も水浸しになったが、どうせ汗で濡れていたので、そう大した違いはない。

 乾きが収まった有吾は、はっとしてとよを振り返った。

 とよを寝かした大岩の上に、羅刹が腰を掛けている。

 有吾はとよにも水を飲ませようと、水を手にすくったが『その必要はない』と羅刹の声がした。

『卵が孵るまでは、とよは妖力に守られている』

 と言う。

 そう言えば、有吾に背負われて、この暑さの中を移動していたというのに、とよは汗をかいていない。有吾の背中がぐっしょりと濡れていたのは、自分自身の汗のせいだったらしい。

 つらい思いをしているのは自分だけだったようだ。

 羅刹はともかく、とよがひどい思いをしていないのは、良いことだった。

 有吾は冷えた手をとよの額の上においた。ほんの少しだけあたたかさを感じる。

「すいません、私のために。では、行きましょう」

 とよを抱き起こそうとした時、耳元で声が聞こえた。

『もうすぐ、来るよ』

 女の子の声だった。驚いた有吾はあわててとよの顔を見たのだが、とよが目を覚ました様子はない。先ほどと全く変わらない、少し青ざめてはいるが、静かな寝顔だ。

『ふん。まだ言葉を伝えるくらいの力は残っているのか。人にしておくには惜しいほどの娘だな』

「どういうことです?」

 とよを抱いた有吾に羅刹は『おい、少し休んでろよ。もうすぐ人手が向こうから来てくれるらしい』と、にやにやとした笑みを浮かべた。


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