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せんは静かに有吾の前に進み出て、そのまま膝をつく。
「どうぞ、私をお斬り下さい」
「あなたを、斬って、どうなります」
食いしばる歯の隙間から、唸るようにして絞り出した言葉は、ずいぶんと聞き取りづらい。
「今、この化けものの体を支配しているのは、私です。私を斬れば、化けものも消える。そして、おそらくみやぎも消えます」
せんは優しく教え諭すように、微笑みながら有吾に詰め寄ってくる。
「それが何になります!」
有吾は肩口で、ぐいっと頬を拭って、それでようやく、自分の流した涙に気がついた。
こんなところまでやってきて、結局誰も救うことができない自分が、情けない。
化けもの屋などと言っておきながら、自分には、羅刹の力を借りて、斬ることしかできない。斬って捨てるだけだ。誰も救われなどしない。
「有吾さま」
せんの声が、ひどく遠く感じる。
「少なくとも、私たちが消えれば、次なる犠牲を防ぐことはできるでしょう」
せんのひどく落ち着いた声が、有吾には腹立たしかった。
「なぜ私があなたたちを斬らねばならない? 犠牲者を出したくなければ、襲わなければ済む話でしょう。あなたは……あなたは……」
みやぎでもあるわけでしょう?
不思議な事だが、このとき有吾はみやぎに同調していた。
せんに悪気はないのだろう。
男の言葉を信じ、弱さ故に、そして美しさ故に、男たちに食い尽くされたのだ。
けれどせんは、決して納得して、ただ自分の無力に打ちひしがれて死んでいったのではない。
心の底に渦巻くようなドロドロと黒い泥流を抱え、呪い、恨んで死んだのだ。
しかも、その感情を全てみやぎというもう一人の自分に押し付けて。自分はその淀みを知らないふりで、清いままだとでもいうように、涼しい顔をして……。
思わずせんを詰りそうになるが、その言葉を発することはできなかった。
『おい』
羅刹が有吾を蹴り飛ばし、せんの視線の正面に立ちはだかったからだ。
『お前を斬るのなんか、簡単な話だがな、このとよとかいう娘はどうするつもりだよ』
そうだ、問題はとよなのだ。
己の感情に振り回されて、有吾自身も見失いそうになっていた。
「まだ、卵は孵っていませんから、とよの中から卵を取り出して下さい。そうすれば、少なくとも子蜘蛛に生きながら食われることはないでしょう」
「どうやって!」
「……」
有吾の問いかけに、初めてせんの顔がくしゃりと歪む。
「とよに傷をつけないで、卵だけを潰すことはできないでしょうね」
「だからどうしろと……」
『腹を割きゃあ、いいんだろ』
「そんな、そんな事をしたらとよは……」
『腹ぁ割くんだから、気絶するほどの痛みだろうぜ。しかも、助かりゃあいいが、その可能性も薄いとなれば、バッサリ卵ごとあの世へ送ってやったほうがコイツの為じゃあないのか?』
助からない。助けられない。
「羅刹っ!」
有吾はとよを藁屑とちぎれた卵嚢の散らばる地べたの上に寝かせると、腰の刀に手を伸ばした。
『ふん』
羅刹が笑う。
有吾が一歩足を踏み出しながらぎらりと刀を抜いた。
刀身に月明かりが反射する。
とたんに羅刹の姿が消えた。
きいぃぃぃぃんん、と澄んだ音がして、銀の刃が怪しく光る。
跪いたまま、大きく目を見開き、その様子をほうけたように見つめていたせんが、ゆっくりと目を閉じると、胸の前で手を合わせた。
そして、有吾の前に首を差し出すように身体を前に倒す。
『さあ、吾は何を斬ればいいのだ、宿主よ』
手にした刀から、鬼の本性に返った羅刹の声が直に有吾の体の中に響いてきた。
『この女の望み通りにすればよいのか。お前が願わねば、吾は斬れぬ』
羅刹の声は、刀から手に伝わり、肩から脳天へと、有吾の体を震わせて、突き抜けていく。野太い咆哮のように有吾の体を揺さぶる。
これが本来の羅刹だ。
中段に構えた切っ先の向こうには、全てを受け入れたかのようにじっと白い項を差し出せんがいる。
せんを斬れば、全ては終わるのか?
せんも、とよも救えずに、哀れな妖魔も救えずに……そんな結末しか、残らないのか。
『心の底から、願わねば、斬れぬ』
他に方法はないのか……。
踏み込もうとする足が、動かない。
心のゆらぎを写すように、刃の切っ先が、揺れた。
うなだれていたせんの顔が上がる。
閉じていた目が開き「斬れませんか……」とため息を吐く。
「仕方ありません……」
一度ふわりと微笑むと、せんの面から表情が抜け、糸の切れた繰り人形のようにその場に倒れた。
「おせんさん?」
思わず倒れたせんに近付こうとすると、手にした刀が勝手に動いた。ぐっと持ち上がり、そのまま後ろに倒れる。あっという間の出来事だった。
倒れた有吾の上をキラキラとした何かが通り過ぎていく。
「……してやられたわ!」
せんの声がした。
有吾が顔を上げると、倒れたはずのせんが、そこに立っている。
「ずっと私の中で眠っていると思っていたら、せんのやつ!」
有吾の中に、ゾワゾワとした黒いものが広がっていく。
眼の前の女は、せんではない。
「みやぎ!」
有吾の声に振り返ったみやぎは、目を細め、唇をきゅうっと引き上げにやりと笑った。
「有吾さま? 残念でしたわね。さっさとこの体、斬っておけばよろしかったのに。ああ! いらつく! いらつくんだよ!」
叫びながら、みやぎは何かを投げつけるような仕草をした。その指の先から銀に輝く蜘蛛の糸が放たれる。
おそらく、倒れ込んだ自分の上を通り過ぎていったキラキラしたものの正体はこれだろう。
『コイツは、糸を自由に操る』
すうっと動いた刀が、とんできた蜘蛛の糸を払う。
有吾から動いたのではない。羅刹だ。羅刹が宿主を守ろうと、動いているのだ。訓練された有吾の体は、その動きにピタリと沿った。
ミシリ。
どこか粘着質な小さな音が聞こえ、みやぎの身体が二つに裂けていった。




