2
「とよは……とよは無事なのですか!」
這いつくばるようにして、見上げる有吾を、せんは変わらぬ表情で見下ろしていたが、一つまばたきをすると、ほんの少し眉根を寄せた。
「生きて、います」
ほう、と気の抜けた有吾が、その場に崩折れる。
「お願いでございます!」
突然せんは、二人の前に平伏した。
「あの子は……とよは、とても強い子です! 私などには及びもつきません。己の汚さに目を背け、ただただ惰眠を貪っていた私を揺り起こしたのは、あの子の声でした。私に助けを求めたあの子の声でした。あの子は自分を助けて欲しいと頼んできたのではないのです。姉のみつを助けて欲しいと、ただそれだけを願っておりました。その思いが私に届き、私は目を覚ましました」
せんは顔を上げ、有吾と羅刹を順にみつめた。今までにないほどに強い力を宿した瞳に、有吾は気圧されそうになる。せんのこれほど必死な表情は、初めて見た。
「それまでは、みやぎの目覚めている間は私は微睡み、私の目覚めている間はみやぎは身を潜めていました。みやぎと表裏一体であった私は、その時初めてみやぎから離れて行動したのです」
「それがあの”百度参り”かよ」
「そうです。情けないことですが……みやぎから離れたとはいえ、妖と結びつき現世に干渉できる力を持っていたのはみやぎで、私はなんの力もない幽鬼でしかありませんでした。とよを、あの子を助けたいと思った時、私はあの場で百度を踏んでいたのです。誰か力のあるものに見つけてほしくて……。そして見つけてくださったのが……」
「おれかよ!」
羅刹は大きく舌打ちをした。
「まんまと釣られたってわけだ。面白くねえ」
二人の会話を聞いているうちに、有吾にも大体の事情が飲み込めてきた。
「化けもの屋を探せ。その言葉にとよが動きました。あの子は……おそらく大きな力を持った娘です。私には幽鬼のように姉のみつに取り憑いて、みつの出立を遅らせることぐらいしかできませんでしたが、とよは化けもの屋を、有吾様を見つけ出しました」
「奉公人たちの間で噂になっていたみつの枕元に現れる女というのは、おせんさんだったのですね」
「はい」
お騒がせしてしまいましたと、せんは再び顔を伏せた。
現とも夢ともつかないようなこの空間でも、時というものは過ぎていくらしい。こうして会話をしている間にも、日は暮れていく。
太陽の名残の光が夜に溶け込み消えていくと、もう互いの表情を伺うことは難しくなる。
ぼうっ。
部屋の隅の行灯に灯がともる。
「いよいよだと考えた私は、みつの元を離れました。みつはもう、明日にも村へ向かって出立するはずです。ですから今夜。今夜なのです」
今夜が正念場なのだと言った羅刹の声が、有吾の中で蘇った。有吾の少し後ろにいる羅刹からは、高揚した気配が伝わってくる。
羅刹に取り憑かれてからというもの、有吾にはなんとなく羅刹の気分を感じ取ることができるようになっていた。
面倒くさい、おもしろくないは羅刹の口癖のようなもので、おそらく今の羅刹は、この状況を楽しんでいるのだろう。
『しかしなんだ、話をしているだけなのに、腹は減るものだな』
「嘘をつかないで下さい」
有吾はわずかに後ろを向き、じっとりと羅刹を睨んだ。
しかしせんは、声を立てて笑いながら立ち上がる。
「そうですね。最後に腹ごしらえをしましょう。今夜、自分の身が危ないとなれば、みやぎも黙ってはいないかもしれない。何が起きるか、私にも見当がつきません」
食べてしまいましょうと、残っていた握り飯と酒を運んでくる。
「みやぎが大人しく私の中で眠ってくれているといいのですが。有吾様に、私を斬っていただいて、そして……」
盆から数日が過ぎていた。まだ登らぬが、今日はおそらく下弦の月だ。
薄暗い行灯の光の中で、みやぎをその身に宿したせんと、有吾と、有吾に宿る羅刹が三人で、飯を食う。
握り飯は、冷たくてもうまかった。
うまいのだ。ここで食べた飯も、漬物も、味噌汁も。みんなうまかった。
しかし、今食べてるこの飯は、現実のものなのだろうか。
貉だの狐だのに化かされて、うまいうまいと言いながら、とんでもないものを食わされていたなんていう昔話を聞いたことがある。せんがそんな事をするとは思わないが、食っていると思いこんでいるだけなのではないか。
そう思うと、一向に腹が満たされないような気もしてくる。
「どうかしましたか? 有吾様?」
せんは握り飯を手にしたまま動かなくなってしまった有吾を気にしているようだった。
「いえ、この飯は実際腹の足しになっているのでしょうか」
素朴な疑問に、せんの目が大きくなる。そして考え込むように少し上を見上げた。
「そうですね……おそらく、現実のお腹の足しにはならないかもしれませんが」
『またお前は小難しいことを……食っとけ! ここまできて、考えたところでどうする。仙人とかいう輩は、霞を食っても生きていけるそうじゃねえか』
そう答える羅刹は、すっかり六助のならず者風に戻っていた。確かに筋骨隆々とした鬼の本性を丸出しにされるよりは、かなり異様ではあるが、この姿のほうが威圧感はない。
「おそらくお二人の力になると思います。ご仏壇のお供えも、ご先祖様は食べ物の気をいただいているのだと言いますし」
「はあ」
私は仙人でもなければ、ご先祖様でもないんだがという言葉は飲み込む。
「さあ、有吾様も一献」
有吾は差し出された酒坏を手にすると、一息に飲み干した。腹の底が熱くなり、覚悟が決まる。
「それで、とよは今どこに?」
ずっと聞きたかった疑問だ。
疑問ではあったが、有吾の目は、自分でも自覚しないままに、庭の奥の鶏小屋の方向をむいた。
「ええ、おそらく有吾様のお考えのとおりです」
せんは苦しげに目を閉じた。
背の高い草に囲まれた、崩れかけた鶏小屋。木はあちこち腐り、苔むしている。
「あの小屋の中で、とよは有吾様を待っております……」




