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鬼宿り  作者: 観月
六助
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2

 みつの奉公先の主人は、もともと日本橋の薬問屋の大旦那だった人物だ。

 何人かの妻を娶ったものの自分に子はできず、妻にも先立たれたために、早々に弟夫婦に店を任せた。

 あまり近くにいたのでは弟たちも気兼ねするだろうと、店からは少し離れた場所に隠居家を建てて、悠々自適の生活をしている。

 隠居後は、若い頃から興味があったという浮世絵を描いたりして暮らしているのだが、なかなかの腕前だと評判である。

 そのうえとにかく出歩くのが好きな人で、見世物小屋巡りなどにもしょっちゅう出掛け、絵入りの「見世物小屋見聞録」などという本を出し、それが飛ぶように売れているそうだ。

 羨ましいかぎりである。


 なぜ六助がご隠居についてここまで詳しいかというと、このお屋敷を建て直す際に、鳶として関わっていたからだ。とはいえ、まだ六助が見習いをしていた頃で、五年ほど前になるだろうか。

 その後も細々とした頼まれごとを引き受けたことがあり、このお屋敷には何度か顔を出している。 

 六助は屋敷の前で、膝に手をつき、ぜいぜいと肩で息をしながら、自分の姿を見下ろした。

 何しろ走り通しだったので、汗まみれだ。息も上がっているし、こんな姿で駆け込んだら、怪しすぎるのではないか。

 それにだいたい、何て言ったらいいんだ?

 取るものもとりあえずここまで走ってきたものの、門の前に辿り着いた途端、どうしたら良いものやら途方に暮れていた。 

「おや? もしかして、六助さんかい?」

 まごまごしているうちに、後ろから誰かの声が聞こえて、振り返る。どこかで見たことのあるような顔をした年配の女性が立っていた。

「ああ、忘れちまったかねえ。あんた、ここのお屋敷を立て直す時に来てくれてた六助さんだろ?」

「おりきさんですか!」

 小柄だが気の強そうな痩せた女が、にこりと笑った。口元からは黒く塗られた歯が、こぼれていた。

 まだ若かった六助を随分と気に入ってくれて、ときどきみんなに内緒で菓子を食べさせてくれた。

 差し出されたまんじゅうや羊羹を受け取りながら、自分のことをずいぶん子どもだと思われているようで、あの頃の六助は、実はそれを素直に喜べないでいた。

 おりきの顔を見た途端、そんなことがいっきに思い出されて、六助の心の臓がきゅうと疼いた。

「おぼえていてくれたかい? まあまあ、六助さんずいぶんと男っぽくなって! 旦那様に用ですか? 残念ながら、今日もどこかへおでかけなんですけどね……」

「いや、おりきさん。いや、なんというか……」

 もごもごと言いよどむ六助に「ちょいと寄っておいでよ」と屋敷の中に招き入れてくれる。

 六助が土間の式台に腰を掛けていると、おりきがお茶を運んできてくれた。

 (ぬる)めの番茶が、乾いた喉にありがたかった。

 喉を潤うと、気持ちもずいぶんと落ち着いてくる。

 ずずっと茶をすすり、おりきに話しかけた。

「おりきさん、今日小さい女の子がこの屋敷を尋ねて来やせんでしたか?」

 単刀直入に尋ねると、りきは少し釣り上がった目をくりっと大きくして、首を傾げた。

「さあ、あたしがいる間にはいなかったねえ……ねえ! 茂助さん、あたしのいない間に、だれかお客があったかね?」

 おりきが家の奥に向かって声を張り上げると、少し腰の曲がった下男が奥から顔を出し、六助に挨拶をしながら「いや、誰も尋ねてきちゃいないよ」と、答えた。

 どこまで探りを入れたものかと、六助は思案する。

「おりきさん、ちょっと尋ねますが、ここにおみつちゃんっていう名の娘がいるかと思うんですが」

「おみつちゃん!」

 おりきの声がひときわ跳ね上がり、大きく見開かれた目が、らんらんと輝き出した。

 あ、こりゃあまずい。

 こりゃあなにか勘違いされている。

 あわてた六助が、おりきの顔の前に手のひらを向けて、一生懸命にりきの興奮を押し止めようとする。

「ちが……! おりきさん、違うんでえ! あっしは、おみつさんとは会ったこともねえんですから!」

「あら、そうなの?」

 途端におりきの声色はもとに戻り、手にした茶をズズズッと啜った。

「いえね、あっしはおみつちゃんの妹の方と知り合いなんでして、その妹……おとよちゃんって言うんですがね、藪入にも姉ちゃんが戻ってこなかったって、心配してやして。ああっ、おとよちゃんはまだほんの子どもで」

 六助は手のひらでとよの背丈を示した。変な誤解をされてはたまらない。

「ああ……」

 合点がいったというように、おりきは頷いた。

「そういや数日前にも、そんな事を聞いてきたお侍がいたねえ。よほどおみつの実家には、心配かけちまったみたいだ」

「で? おみつちゃんは?」

「ああ、体調が悪くて臥せってたんだよ。昼間はまだいいんだけど、夜になると熱を出してうなされるのさ」

 そこまで言うとおりきはぶるぶるっと震えながらこの暑さだというのに、自分の腕を抱えた。

「いえねえ、みつの枕元に女の影を見たなんて奉公人もいてさ、なにか悪いもんにでも取り憑かれちまったんじゃないかって話になってたんだけど……でも、昨夜から元気でね。明日にも実家へ戻れるんじゃないかと思うよ。明日弟妹たちに土産物でも買っていってやりなさいって、旦那様にお小遣いを頂いてね、今は出ちまってるからさ」

「……なんですって?」

 六助はギクリとした。

 みつは、明日にも在所に帰る。

 有吾はまだ帰ってこない。

 いったい、江戸から井沢村までの間に巣食ったという化けものは、どうなったのか。

 まだ退治されていないのだとしたら?

 考えても見なかったことだったが、もしも有吾が化けもの退治に失敗していたら?

 みつはどうなる?

 みつに取り憑いてたっていう女も、ここまで来たら、有吾が帰ってくるまでしっかり取り憑いていればいいものを!

「おりきさん、ありがとう」

 茶碗を式台の上に置き立ち上がる。

 ゆっくりしている場合ではなかった。

 みつを救うためにとよは江戸までやって来たのだ。そのために有吾も化け物退治を請け負ったのだ。

「おみつさんが明日帰るってんなら、いらぬ心配をかけちゃなんねえや。今の話は内緒にしておいてくれるかい?」

 そう言って六助は、隠居家を後にした。


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