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太陽は高く、空気ももうすでに生あたたかかった。それでも開いた戸から入ってくる光と風は、薄暗い部屋の中に淀んでいたものを、浄化してくれる。
昨日みやぎと二人で草むしりやら薪割りに精を出したおかげで、庭はずいぶんとこざっぱりとしている。
有吾がはじめてこの家を訪れたときは、人が住んでいるのかどうかも怪しい廃墟のような佇まいだった。今はとりあえず、人が住んでいるようには、見えるだろう。
ふと、崩れかけた鶏小屋が目に入る。
この家以上に、いつ壊れてもおかしくないような、少し傾きかけた小さな小屋だ。長い間放っておかれたのだろう。黒っぽく変色した材木は、ところどころ腐りかけている。鶏を飼わなくなってから、いったいどれほどの年月が経ったのだろうか。
その一帯だけは有吾の腰の高さほどの草がぼうぼうと生えていた。
小屋の後ろには大きな栗の木が立っていて、鶏小屋に影を投げかけている。夏の名残の暑さの中で、その一帯だけがひんやりと湿っているように見えた。
有吾が縁側から庭に降りていこうとした時、家の中から人の動く気配がした。
「おはようございます、有吾様!」
板戸をガタピシと言わせながら現れたのはみやぎだった。
「みやぎさん……おはようございます」
有吾はなんとみやぎに声をかけてよいのかわからなかった。
家の奥から日の差し込む縁側にやってきたみやぎは、けれども昨夜の激しさなど微塵も感じさせないような、さっぱりとした笑顔を浮かべている。
「まあ……お日様がもうこんなに高くなって……」
有吾の脇を通り過ぎ、縁側から身を乗り出すようにして空を見上げた。
「ゆうべお酒を飲みすぎてしまったのかしら。私、途中から記憶がなくて」
みやぎは顔を赤らめながら肩をすぼめた。
昨夜、男が憎いと暗い炎を燃え上がらせていたみやぎとは、まるで別人のように見える。
「なにか粗相をいたしませんでしたか?」
「……」
本当に記憶が無いのだろうか。それともなかったことにするための演技なのだろうか。
有吾には判断がつかなかった。
「いえ、粗相なんて……」
やっとの思いで、それだけ絞り出す。
「いやだわ、恥ずかしい」
有吾の戸惑いを、どう受け取ったものか。みやぎはぽっと頬を赤らめ下を向く。その仕草も、男に抱いてくれなどと自分からせがんだ女のものとは思われなかった。
「少し待っていてくださいませ、残り物ですが朝ごはんを用意してまいりますね。もう、お昼ご飯かしら。あの、私、いつもはこんなに寝過ごしたりしないんですよ!」
顔を赤く染めたまま、みやぎは有吾に背を向けると、土間へと消えた。
昨夜の出来事は、有吾の見た悪夢のうちの一つだったのだろうか? そんな気分になってしまう。
身構えていた自分がまるで阿呆ではないか。
ますます女性というものを恐ろしく感じてしまいそうだ。
みやぎの姿を見送りった有吾は、大きく頭を振った。
と、視界の端に、人影が映ったような気がして、ぎょっとした。
あの鶏小屋の前の、草むらの中だ。
ゆっくりと視線を戻すと、黒っぽい影のような人影が確かそこにあった。
草むらの中に隠れてしまうのではないかと思うほどの小さな人影。大人ではない。子どもだろう。
「と……よ?」
草むらの中から、とよが有吾を見つめている。
「とよ? なぜここに? 江戸で待っているようにと……!」
縁側に降りていこうとしながら、有吾は立ち止まる。
とよは一人でここに来たのか?
子どもの足で?
空を見上げる。太陽の位置は真上にある。
有吾がこの宿に辿り着いた時刻よりもだいぶ早い。
なにか、おかしくはないか?
どくん、どくん、と、こめかみの辺りの血管が脈打っているのを、感じた。
落ち着こうと、胸の合わせのあたりを手のひらで掴んでいた。
栗の木が落としたひんやりとした影の中で、一層濃く、まるで影が寄り集まって人の形になったかのように、とよは佇んでいた。
たしかにとよだ。けれども、こちらをみている瞳には、まるで生気が感じられないのだ。じいっと、ただこちらを見ている。なぜ、声をかけてこないのか。なぜあの場所から動かないのか。
「とよ。どうしたんだ!」
「有吾様?」
背後から、みやぎの明るい声がした。
振り返った有吾の顔を見たみやぎが、ぎょっとしたように固まる。
よほど恐ろしい顔をしていたのだろうか。
「あ……の……話し声が聞こえたものだから、来てみたんです。誰か……来ましたか?」
有吾は、なんとか唇の端を釣り上げようと努力すると「ええ……知り合いの子どもが」と鶏小屋の方を振り返った。
「こども?」
不思議そうなみやぎの声。
あそこにと、指をさそうとしたのだが、光のあふれる庭や畑はもちろん、あのひっそりとした鶏小屋の前の茂みの中にも、とよの姿はなかった。
どうしたというのだ。
「いや……気のせいだったようです」
有吾にはそう言うしかない。
「そうですか」
そうだ、とよがこんな場所にいるはずはないのだ。
今頃江戸で有吾の帰りを待っているはずなのだから。六助も仕事があるから、ずっと一緒にいるわけには行かないだろうが、あの長屋のおかみさんたちが面倒を見ていてくれると、胸を叩いて約束したのだ。
こんなところに、いるわけがない。
有吾は首をひねりながら、あのひっそりとした茂みに、ちらりと視線を走らせた。
それとも、とよの身に、なにか起きたのだろうか。
それを知らせるための生霊。
その可能性は、ないとは言えない。
「ご飯の用意ができましたよ」
無邪気な雰囲気を纏いながら、有吾の手を引くみやぎ。
羅刹に語りかけられないことを歯痒く感じた。有吾は手を引かれるまま、膳の前に座るしかなかった。




