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鬼宿り  作者: 観月
籔の宿
11/36

5

「お願いです、有吾様……」

 みやぎが頬を擦り寄せるから、ささやき声が直接胸の奥を甘く震わせた。

「みやぎ、さん」

 厳つい外見をしているが、有吾はこれでも二十歳そこそこの青年である。みやぎのような美しく艶のある女性から言い寄られて平静を保つのはかなりの努力を要する。

 身体の脇でためらっている両腕を、みやぎの背に回してしまえば、もう歯止めは効かないのではないか。好ましく思う故に、拒むことが難しい。開いたり閉じたりする手のひらが、彼の中の葛藤を表していた。

 ここにいるのが六助ならと、有吾の脳裏に役者のように線の細い、整った面差しの男の相貌が浮かんだ。

 六助だったなら、自分のようにぐだぐだと悩むことはないだろう。さっさと女を抱きしめ、その奥へ腕を伸ばしているに違いない。あっけらかんと幾人もの女を渡り歩きながらも、決して曇らない類の男もいるのだと、六助と知り合って有吾は知った。

 朴念仁。などと言われるが、果たして自分は朴念仁なのだろうか。

 恐ろしいのだ。女というものが。

 じっとりとまとわりついて、混ざり合ってしまいそうな情念が。その肌が、その芳香が。

 恐ろしいと思いながらも惹かれてしまう自分自身が。

「お願い……どうか……有吾様?」

 ついと有吾の胸から顔を上げたみやぎを見下ろしてしまった。

 お互いの目の中を覗き込むように、見つめ合う。

 有吾は自分の腕が、みやぎの細い背中に回されていくことにすら気がついていなかった。百姓女にしては白すぎるその頬。そのくせ赤い唇。

 少なからず女というものには魔性の力が眠っているのではないかと思う。

 虫を誘う甘い蜜のような、暗闇で灯る光のような、そんな仄かなものなのだが、男はどうしようもなく惹かれ、吸い寄せられてしまうのだ。

 小さく唇が触れた時、みやぎの腕が有吾の首筋に回った。

 こうして引き寄せられてしまうのを、女のせいにばかりするのはお門違いなのかもしれないな、などと、まだ往生際の悪い頭の片隅が余計なことを考える。

 みやぎの唇が開いて、小さな吐息が漏れた。

 ああ、だめだ。

 みやぎの中に開いた隙間を、埋めてしまいたい。

 嵐のような衝動が己の中を吹きすぎて、思わず腕に力がこもった。

 吸い上げ、貪り尽くしたい。

 が、身体が火照れば火照るほど、キンと冷えた何かが、違和感を唱える。

 渾身の意志の力でもって、ぐいっとみやぎの身体を自分から引き剥がした時、有吾は痛みを感じた。もうすでにこの女と自分自身の何かが混じり合ってしまったのだと感じて、有吾は叫び出したいような感覚に陥る。

 有吾は自分の中の理性というものを掻き集め、大きく(かぶり)を振った

「すいません!」

 自分から遠ざけるように肩を押したまま、身体をそむけるように捻る。

「有吾様?」

 みやぎと自分自身の荒い息遣いが沈んだ部屋に聞こえていた。

「すすす……すいません」

 目を背けたまま謝る。

 みやぎはどんな表情をしているのか。振り返ることが怖かった。

「私では、抱けませんか……」

「そんな、そういうわけでは。でもあなたには待っている人がいるのでしょう?」

 一番当たり障りのない言い訳がするりと出てくる。

「あの人は……もう、帰ってきません」

「え?」

「もう何年も、待っているのです。帰ってきませんでした。どこかで所帯でも持ったのか、それとも死んでしまったのか……。それすらもわからぬまま。私は置き去りにされたんです」

 有吾は振り返ったが、うつむいたみやぎの表情はうかがうことができなかった。

「私は汚い女です」

 ぽたりと水滴が落ちる。

「女一人で生きていくことがどれだけ大変か……」

 うつむいたまま、みやぎはとつとつと話し始めた。

「ある日ここから近くの村の庄屋様が、私の面倒を見てくれると言いました。そのかわり……庄屋様は私の体をよこせといいます。私は庄屋様の囲われものになりました」

 ぽたり。

 落下した涙が有吾には血の色をしているように見えた。

 だがそれは一瞬のことで、黒光りする床の上にできた丸い染みは、すぐに透明に変わった。

「けれども、庄屋様もしばらくすると通ってこられなくなりました。それからまたしばらくして、盗賊がこのあばら家にやってきました。有吾様のように降り出した雷雨に追われて。それから男たちは数日この家に留まりました。私は……」

 有吾はみやぎの身体を引き寄せた。

 床に落ちるはずだった涙が、有吾の胸を濡らす。

「賊の世話をさせられました。飯を作り、風呂を焚き、背中を流し、繕いをして、それから、昼といわず夜といわず、私の体は彼奴等に押し開かれるのです」

 腕の中でみやぎが顔を上げる。

 そこにはもう涙はなかった。

 挑むように有吾を見上げている。

「そして私は、ずっと死んだようにしてこのあばら家で、一人暮らしてきたのです。男なんて……!」

 みやぎの瞳に現れたのは、悲しみだとか絶望なんてものではなかった。真っ赤になって燃え上がる、怒りだ。男というものへの。みやぎを傷つけようとする者への。

 みやぎは、癒えることのない傷口から血を滴らせながら、それでも体中の毛を逆立てて威嚇する、野生の獣だ。

「だったら!」

 有吾の手は、細いみやぎの体を揺さぶっていた。

「だったら私があなたを大切にします。このあばら家に、また来ます。薪割りも、草刈りも手伝いましょう。あなたにその代償を求めたりはしません!」

 揺さぶられるみやぎの顔から、表情が抜けていった。

 そして……。

「ああああああああ!」

 眉間にシワがより、苦悶の表情になる。

「どうしました? みやぎさん?」

「くっ……お前……まだ……いたのか! 渡さぬ、お前など……認めぬ……」

 有吾には理解できない言葉を漏らしながら、ガクガクと震えだすと、そのまま糸が切れたように気を失ってしまったのだった。


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