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照りつける陽の光のせいで、湿っていた地面はあっという間に乾いていく。
しとしとと長い時間に渡って降り続いた雨とは違い、ざっと短時間に降った雨は、地面の表層にしか染み込んでいない。
有吾は立ち上がった。
「薪割りを、やってしまいましょう」
「まあ、もう?」
「地面もだいぶ乾いてきました、遅くなると、今度は暑さにやられそうです」
外はもうすでに気温が上がってきている。昨夜降った雨のせいで湿度も高い。午後になってからでは、仕事にならないに違いない。
有吾は太い材木をいくつか土間から運び出すと、もろ肌を脱いだ。
みやぎは縁側から物珍しげに有吾の様子を眺めている。
「そんなに見ないでください。恥ずかしくなります……」
顔を隠すようにうつむくと、みやぎの方でも「あら」といって顔を背けた。
「ごめんなさい。でも、有吾様のように大きな体の方を見たのは初めてでしたので、びっくりしたんです。その、とても力強そうだったので、思わず見入ってしまいました……すいません」
みやぎはそそくさと立ち上がり、家の奥へと消えていった。
薪割りを始めると、あっという間に汗だくになる。
みやぎは家の仕事をしていたり、針仕事をしていたり、かと思うと敷地の隅の小さな畑の草をむしったりしている。
ただ一心に薪割りをしていると、今はもう戻ることのできないであろうふるさとの……山瀬家の家屋敷が思い出された。父は小さな藩とはいえ御用人を勤めていたから、このあばら屋とは比較にならないような立派な屋敷に住んでいたのだが、江戸にはないのどかな風景や濃い緑の匂いが、自分を過去へと誘うのだ。
夏が置き忘れていったような湿った暑さのように、過去の思い出は自分自身に張り付いて、この先も、一生剥がれることはないのだろう。
父がいて、母がいて、奉公人たちがいて、青年だった有吾はこうして薪割りの手伝いをすることもあった。
薪割りなど下人にやらせればいいではないか、と友人たちに笑われたりもしたが、これも鍛錬の一つです、などと生真面目に答えたものだ。
道場で一番の腕前だなどと、あの頃の自分は奢ってはいなかったか。
他人の気持ちを踏みつけにしてはいなかったか……。
今このような身分に自分を貶めたのは……。
思考の路地に迷い込み、ふっと視線を上げると、畑の中にしゃがみこんだみやぎがこちらを見ていた。
有吾は取り繕うこともできずに、ただ見つめ返した。
「お疲れになったでしょう」
みやぎは立ち上がり、家の中へと戻っていく。
「お風呂と食事の用意をしますね」
眩しさに目を眇め、空を眺めれば、もう日差しは西に傾いでいた。
割った薪を軒の下に積み上げ終わると、ちょうど頃合いを見計らったかのように「お風呂を沸かしましたから、入ってくださいな」と声がかかる。
「ありがたい!」
素直に答えて、手ぬぐいで汗を拭った。
江戸っ子は風呂好きである。銭湯がいたるところにあり、毎日、いや、下手をしたら一日に数度は風呂に入る。有吾は根っからの江戸っ子ではないが、数年の江戸暮らしで、すっかり風呂好きになっていた。そうでなくても、絞ったら水が滴りそうなほど汗だくだ。
家の東側に五右衛門風呂があった。
少し熱めの湯に浸かり、みやぎが用意してくれていた新しい着物に着替えると、生まれ変わったように清々しい気持ちになる。
風呂から上がると、飯の支度ができていた。
飯と味噌汁と漬物。それにきんぴら。つやつやと輝くきんぴらからいい匂いがして、有吾の腹は『はやく、飯を食わせろ!』と大騒ぎを始める。
飯は炊きたてではなかったが、壺の中から取り出した梅干しをのせ、茶漬けにしてくれた。
「お疲れになりましたでしょう? ゆっくりしてくださいな」
と、酒が出てくる。
注がれた液体は、白くにごり、ふくよかな香りが部屋の中に広がった。
口に含めば、濃厚で、甘い。
「これは、うまいですね。どぶろくですか」
「ええ。私が作ったんですよ」
「おや、もしかするとみやぎさんもいける口なんですか」
そう尋ねると、みやぎはわずかに頬を染めて、頷いた。
「なんだ、では一緒に飲みましょう」
とくとくと酒を注いで差し出すと、みやぎは指先を揃えて受け取った。
ちょっと突き出した唇になみなみと酒の注がれた茶碗を当てると、そのままくいっと飲み干してしまう。
「ああ、おいしい」
口元を拭い、ほうっと深く息をつく。
「けっこういける口じゃあありませんか! さあ、飲みましょう」
「はい」
二人で飲んだり食べたりしているうちに、いつの間にやら日は落ちて、空には昨日とはうってかわって、満天の星が揺らめいている。
二人は縁側に並び、夜空を眺めていた。
「誰かと一緒に食卓を囲み、笑い合って、お話をして、お酒を飲む」
みやぎのつぶやきが有吾の耳に聞こえる。
「ずいぶんと長い間忘れていたような気がします。いいものですね」
「ええ、いいものです」
空を見上げたまま、有吾もみやぎに同意した。
いいものだ。
こんなふうにしみじみ思うのは、いつぶりだろうか。
「床の用意をしてまいります」
みやぎは立ち上がった。
思いがけなく訪れた心安らかな時間が終わろうとしている。
小さな胸の痛みを感じながら、有吾も立ち上がると、片付けの手伝いをした。
雨戸を閉めてしまうと、星の瞬きも、草木を揺らす風の音も、虫の声も、すうっと遠のいていき、部屋の中が静けさに包まれる。
小さな行灯の光が、心もとなげに室内を暗く照らしていた。
「今日は本当に助かりました」
有吾の寝床は座敷にとってある。
「いいえ、こちらこそ、本当に助かりました」
就寝の挨拶をして、みやぎは座敷から寝室へと続く襖を開ける。
「有吾様……」
しかし、襖を開けたままみやぎの足はとまった。
「明日は、本当にここを出ていかれてしまうのですか?」
「みやぎさん……」
振り返ったみやぎは、有吾の胸に身を預けていた。
「行かないで……」
受け止めた柔らかな重みを、有吾は思わず抱きしめてしまいそうになった。




