未知なる香り
皆さま、お待たせしました。
本日より8章の始まり、隔日更新で頑張っていきます。
頬に当たる風が冷たさを増し、冬の深まりを感じる平野を往く2つの黒い影。
1人は、頭の上から手足の先に至るまで全て黒い衣装に身を包んだ、長身痩躯の人物。外套の上に垂れる長い銀糸の髪は、冬の風に晒されながらも艶やかで、曇天の中でも煌きを放っている。ツバの広い帽子から僅かに覗くのは白磁の如く白く滑らかな肌。固く閉じられた薄い唇は朱を引いた様に紅く、美しい鼻梁を辿れば形の良い眉の下で深紅の瞳が煌めいている。
もう1人は、黒い布を首に巻き付け寒さを凌ぐ、これまた全身黒に包まれた小柄な人物。冷たい風になびく長い髪は、金を熔かし込んだ様に煌めき、その中に夜の如き黒が1条走っている。黒衣の上の、新雪の様に真っ白な肌も、今はその寒さの為、頬や鼻先、木の葉の様な尖った耳も、赤く色づいている。エルフらしい整った顔立ちの中で一際目を惹くのが、潤んだ新緑と黒紫の瞳である。
ラテリア王国の都を目指す、アルクラドとシャリーである。
ラテリア王国最北の町であるノルドを出た2人は、街道を南へと進んでいた。ここ数日は晴れが続いていたが、今朝から空は分厚い雲に覆われ、今にも雪が降りだしそうなほどであった。冬の深まりと相まって吹く風は一層冷たく、シャリーはいつにも増して身体を縮こまらせていた。
この日は、ノルドを出て7日目の朝であり、昼頃には次の町に着く予定であった。それまでの町は全て小さな宿場町であり、簡単な食事と補給、休息を取ることしかできなかった。ノルドの人曰く、次の町であるセルトは比較的大きな町であり、宿や食事も期待できる、とのことだった。
そして夜が明けてから6刻ほどが経った頃、2人はセルトの町に着いたのである。
セルトの町に着いたアルクラドとシャリーは、まずは身体の温まる食事を、と料理屋を探して町を歩いていた。
ノルドの町で聞いたように、往来では少なくない数の人が行き来し、大通りに面した店はどれも賑わっている様に見えた。その中を、2人は匂いを頼りに、美味しい料理を出すであろう店を探していた。
最初にその匂いに気が付いたのは、やはりアルクラドであった。
「この香りは……」
アルクラドがふと立ち止まり、視線を宙に彷徨わせる。
「アルクラド様、どうしたんですか?」
「得も言われぬ香りがある。……あちらだ」
シャリーが尋ねると、アルクラドはあちらこちらへと鼻先を向けながら応える。そしてすぐに香りの出所を掴んだようで、そちらへ向けて歩き出す。
「得も言われぬ、ってどんな香りなんですか?」
「上手く言えぬ。食物らしからぬ香りではあるが、不思議と食欲をそそる。刺激が強い様にも思えるが、不快ではない」
シャリーの問いに対する答えは要領を得ないものであった。しかしアルクラドにとって初めてのもので、上手く言い表せないのも無理はなかった。
程なくして不思議な香りを放つ場所に到着した。
そこは大通りから1本路地に入った所にある料理屋で、通りに面した店と変わらぬほど繁盛していた。シャリーには、不思議な香りを嗅ぎ取ることは出来なかったが、とても美味しそうな匂いがしているかとは確かだった。
「ここだ。この店で食事を取るとしよう」
「はい、分かりました」
丁度飯時で腹を空かせていたシャリー。アルクラドの言う得も言われぬ香りの正体が気になることもあって、一も二も無く頷いた。
店の中は大勢の客がいるものの幾つか空席はあり、アルクラド達はその内の2つに腰掛けた。すぐに給仕を呼び、料理を注文する。
「この香りのする料理をもらおう」
「はい?」
宙を指差しながら言うアルクラドの素っ頓狂な注文に、給仕は面食らう。店の中は様々な料理の香りで満たされている。これと言われても、ただの人間である彼に、それがどれを指すのか判別できない。
「アルクラド様……その言い方じゃ伝わりませんよ。もっと詳しく言わないと」
苦笑いを浮かべながら言うシャリーに、若干首を傾げつつもアルクラドは言い直す。
「この、鼻を刺す様でありながら不快ではなく、甚く食欲をそそる香りのする料理だ。得も言われぬ甘美な香りだ」
店に入りより強く謎の香りを感じているアルクラドだが、未だにそれを言い表す言葉が見当たらない様だ。しかし給仕は、その説明でアルクラドの言いたいことを理解したようだ。
「もしかしてシャプロワの香りですか? 凄いですね、よく分かりますね」
シャプロワという言葉は聞いたことのないアルクラド達であるが、給仕は1人で得心顔だ。
「シャプロワとやらは識らぬが、それが香りの正体か?」
「はい。独特な良い匂いと言ったらシャプロワですから。それを使った料理でいいですか?」
「うむ」
香りの正体が分かるとあって、アルクラドはすぐに頷く。
「そっちのお嬢さんはどうしますか?」
「私も同じ物を、お願いします」
もちろんシャリーも謎の香りは気になる為、シャプロワを使った料理を注文する。
注文を取り店の奥に下がった給仕は、すぐにまた別の客の注文を取り、料理をそれぞれの客のテーブルへと運んでいく。その様子は慌ただしく、店の忙しさが窺える様子であった。
その後しばらくして、アルクラド達の料理が運ばれてきた。
「お待ちどお様! セルトの名物料理ファルシーです」
テーブルの上に置かれたのは、鳥の丸焼きだった。人の頭ほどの大きさの鳥で、シャリーは問題ないが、小柄な女性では食べきるのが大変な大きさだ。
見た目は何の変哲もない鳥の丸焼きだが、その中から甘美な香りが漂ってくるのを、アルクラドは感じていた。シャリーも微かではあるが、食欲をそそる芳しい香りを感じていた。
「ファルシーは、鳥の中に色々な具材を入れて焼く、この辺りに昔からある料理です。腹を割って中の具材と一緒に、鳥の身を食べてください」
給仕の言葉通り、アルクラド達は鳥の身にナイフを入れる。その瞬間、切れ目から強い香りが吹き出した。
まず感じたのは、強い刺激。鼻を覆いたいと思ったのは一瞬のこと、すぐにその刺激が心地よいものだと気付く。甘美な痺れが鼻の奥から脳天へと突き上がっていく。
雨上がりの森のむせかえる様な草木と土の香り、甘く香る脂の様な動物的な香り。ともすれば臭いと言われてしまうような香りでありながら、そこ臭さはなく意識を惹きつける極上の芳香が、肉の中から溢れていた。
中の具材は芋や豆やキノコであり、鳥の脂とシャプロワの香りを一杯に吸い込んでいた。口に入れれば鳥の旨味と脂の甘味が広がり、鼻の奥からシャプロワの香りが抜けていく。ナイフを入れた瞬間の強烈さはないが、肉や野菜を口にする度に、甘美な香りに浸ることができた。
鳥は絶妙な火加減で焼き上げられ、肉汁が身の中にしっかりと閉じ込められている。芋はとろける様に柔らかく、豆はホクホクしていながらプツリと弾ける様な食感がある。キノコも心地よい歯ごたえを残しながら、噛めば旨味が溢れ、肉の旨味と混じり合っていく。
味付けは塩だけであったが、シャプロワの香りがそれぞれの味と香りを引き立たせ、コク深く後に引く味わいを作り上げていた。
「すごい香りですね……本当に何て言ったらいいか分かりませんけど、虜になっちゃいますね……」
肉を頬張りながらシャリーが言う。料理を前にして初めてシャリーにも、アルクラドが得も言われぬと言った意味が理解できた。何か1つに例えられるものではなく、様々なものが混じり合った様な香りであった。
「うむ。だがシャプロワとやらが見当たらぬ」
ファルシーの味わいとシャプロワの香りを堪能しつつ、アルクラドは首を傾げる。料理の中に香りの正体が見当たらないのだ。肉にも野菜にも香りはあるが、それは香りが付いているだけ、そもそもの香りを発しているわけではなかった。
「給仕よ、シャプロワとはどれだ?」
アルクラドは料理の中から香りの元を探すことを諦め、近くを通りかかった給仕を捕まえた。
「あ~……シャプロワ自体は入ってないんですよ。使ってるのは香りだけなんです」
先ほどアルクラド達の注文を取った給仕は、少し済まなさそうにアルクラドに説明する。
「シャプロワの香りを塩に移して、その塩で味付けしてるんです。シャプロワは冬にしか取れないんですが、そうすれば1年中シャプロワの香りを楽しめますから」
まさか塩に移った香りだとは、アルクラドもシャリーも思いもしなかった。ファルシーから立ち昇るシャプロワの香りはとても強いものだった。塩に移った香りでこれほどなのだから、シャプロワ自体にはどれほどの香りがあるのか、2人は強く興味を持った。
「シャプロワ自体を使った料理はあるか?」
もちろんアルクラドはすぐに追加で注文をする。ファルシーはそれなりに量のある料理だが、アルクラドの腹を満たすには程遠い。未知の料理を前に、アルクラドが注文しないはずがなかった。
「シャプロワを使った料理は色々あるんですが……」
興味津々なアルクラドの追加注文に対して、給仕は非常に申し訳なさそうな表情を作る。
「シャプロワは、ここから東に行った町でよく取れるキノコで、冬になるとこの町にも入ってきます。けれど今年はまだ入ってきてないんです……」
給仕曰く、シャプロワはこの町の名物の1つで、毎年、冬の訪れと共に町に入ってくるようだった。しかし今年はシャプロワの入荷がなく、シャプロワ塩も去年の物らしい。
「旅人さんの話では、シャプロワの取れる森で魔物が大量に出て、森の中がすごく危険になってるらしいです。そのせいでシャプロワがほとんど取れなくて、僅かに取れた分も王都に行ってるみたいで、しばらくこの辺りには出回らないだろうって」
王都へ送られたシャプロワは王族や大貴族の為のものであり、庶民が口にすることはできないだろう。旅人はこうも話していたようだった。
「何と……」
シャプロワが食べられないと知り、残念がるアルクラド。王都に行けば食べられるのであれば、数日待つ程度のことは苦ではない。しかしそもそも食べられないのだから、いくら待っても意味はない。他人のものを横から無理やり取るわけにはいかず、アルクラドは落胆した様子を見せる。
「シャプロワが取れるっていう町に行って、自分達で取ったらダメなんでしょうか?」
自分自身、シャプロワを味わってみたいシャリーが給仕に尋ねる。森が危険でシャプロワが取れないなら、自分達で取ってしまえばいいのではないだろうか、と。
「どうでしょう? それは向こうに行ってみないことには分からないと思います」
顎に手を当てて考える給仕の言葉を聞き、アルクラドの眼に光が差す。
ないのなら自分で取ればいい。全く以てその通りだと思った。
他の客から声をかけられ2人のそばを離れた給仕をよそに、アルクラドとシャリーは互いの顔を見合わせる。
「往くぞ」
「はい」
2人の次の行き先が決まった瞬間であった。
お読みいただきありがとうございます。
得も言われぬ香りのキノコの正体は……
次回もよろしくお願いします。