白き山の守り手の最期
静まり返った村の広場。
漆黒に煌めく龍鱗の剣を振りぬいたアルクラドの前で、白き魔獣の首が落ちる。穏やかに目を閉じたその首を受け止め、剣を鞘に納める。切り口からはおびただしい量の血が、その臭気と共に流れ出している。
徐々に傾く白き魔獣の身体を、溢れる血に塗れることを構いもせず、アルクラドは抱きとめる。そしてそっと地面に横たえた。魔獣の首を、地面に着かぬようその身体の上に置き、アルクラドは村長に向き直った。
「山に棲まう魔獣は死んだ。これで依頼は達成だ」
アルクラドは、静かにそう告げた。肌や衣服を血で濡らしながらも無表情なその様子が空恐ろしいものに感じられ、村長はしばし言葉を失ってしまう。闇夜に浮かぶ紅い瞳は、どこか根源的な恐怖を呼び起こしていた。
しかし村を苦しめてきた魔獣が討たれたことに、喜びが沸き上がってくるのを村長は感じていた。それが恐怖を上回ると、ハッと我に返った様に瞬きを数度繰り返し、村長は大きく息を吐き出した。
「アルクラド殿、ありがとうございます。これで我らの村は、本当の意味で平穏に暮らしていくことができます」
そう言って村長が深く頭を下げると、広場が村人達の歓声で埋め尽くされた。皆、口々に生贄がなくなったことを喜びあっている。今年生贄となるはずだったヴィラの家族は、その喜びも一入でむせび泣くようにしてお互いを抱きしめ合っている。
そんな村人達の様子を見て、シャリーは複雑な気持ちだった。ヴィラ達親子が離れ離れにならなかったことは、素直に嬉しい。家族を失うことの哀しさは、シャリー自身よく分かっているからだ。しかし誤解を受けたまま死んだ白き魔獣や、村のこれからのことを考えると、重い気持ちになってくる。この結果を引き起こした原因が自分にあるのだからなおさらだった。
そんな村人達やシャリーの様子に構うことなく、アルクラドは白き魔獣の亡骸の前に立ち、動くことのなくなったその姿を見下ろしている。白き魔獣の亡骸に何を想うのか、変化のない表情からは窺い知ることはできない。
そんな中、動かぬ魔獣に向かって、石が飛んできた。背を向けたままそれを払いのけたアルクラドは、石の飛んできた方へ振り返る。村人達の何人かが、石を拾い投げる構えを取っていた。そして口々に誰かの名前を呼び、その仇だと言って石を投げつけた。
屍に鞭を打つ様な行為に、シャリーは顔をしかめる。理由はどうあれ彼らが大切な家族を失ったのは事実であるが、白き魔獣が長きにわたり村を守り続けてきたのもまた事実である。恨みはあろうが、死後もこのような仕打ちを受ける謂れはない。そう思ったシャリーは、村人達を諫めようと一歩前へ踏み出す。そしてその口から、言葉を発することができなかった。
「止めよ……」
静かな声と共にアルクラドの魔力が、吹き荒れる風の様に、村中に広がっていく。白き魔獣を斬った時よりも大きな魔力に、村人達は身体を縛られ、息苦しさに喘いでいる。
「この者の骸を穢す事は、我が許さぬ」
しんと静まり返った痛いくらいの沈黙の中に、静かな声が響く。風にかき消されるような声は、しかし村人皆の耳に確と届き、その視線をアルクラドに集める。感情の読めない爛々たる紅き瞳に、村人達は皆、身の竦む思いだった。息をするのも大変で、指1本動かすことができなかった。
そんな村人達から視線を切り、アルクラドは白き魔獣の亡骸に向き直る。再び魔獣の首を抱え、漆黒の布を創り出し、その身体を覆う。黒布はひとりでに動き出し、白き魔獣の身体を包み込んだ。そしてそのまま宙に浮かび上がり、アルクラドの背後へと移動した。
「アルクラド様。その御首は私が……」
シャリーはアルクラドの前に立ち、両手を差し出す。アルクラドの行いに驚きつつも、想いが同じであることを嬉しく思った。
誇りある者に相応しい最期を。
「うむ」
アルクラドは白き魔獣の首をシャリーへと預け、視線を山の方へと向ける。シャリーは無言で頷き、アルクラドの視線の先へ向けて歩き出す。その後ろに白き魔獣の亡骸を納めた黒布の棺が続き、アルクラドが殿となる。
たった2人の葬列が、山へと向かっていく。
その様子をただ見送っていた村人達は、アルクラドの姿が山に消えるまで、その場を動くことができなかった。
静かな山の中を、川のせせらぎと雪を踏む音が響いていく。空に浮かぶ満月は、真っ白な雪を青白く照らし、照らされた木々が黒々とした影を落としている。
死者の首を抱く、愁いを帯びた瞳の美しい少女と、作り物めいた美貌の表情の無い麗人。
暗い森の中に浮かび上がるその光景は、酷く不気味でありながら、厳かで神秘的なものだった。
白き魔獣を弔う、たった2人の葬列は、ゆっくりと山を進んでいく。
真円を描く月が山を照らし、雪が月光に煌めく。
木々の黒い影が、白い雪の上に落ちる。
緩やかな風が木々を僅かに揺らす。
木々が雪の衣を脱ぎ捨て、地面へ落とす。
川がせせらぎ、瀑声が遠くに響く。
いつもと変わらない、冬の山の景色。その中を死者が往く。
少女の腕に抱かれた死者の首。
閉じられた瞳は何も映すことはなく、音も匂いも彼の者には届かない。
雲一つない夜空から落ちる、月の影。
美しく浮かび上がる、雪と影の明暗。
そよ風が、サラサラと雪をさらう。
滝が飛沫を上げ、川が流れる。
酷く美しい、いつもの景色の中を死者が往き、最後に眠る場所へと辿り着くのであった。
静かな山の中を、白き魔獣の亡骸と共に、ゆっくりと登ったアルクラドとシャリー。白き魔獣の棲処がある山の開けた場所に着くと、黒布の棺を解き、亡骸を地面に横たえる。その様子を見ながら、シャリーは未だに、白き魔獣の首を腕に抱いている。
「アルクラド様……あの村が見える所に、眠らせてあげてください」
シャリーが、滝の落ちる崖の上を見ながら言う。
木々に囲まれた山間のこの場所からは、村を見ることができない。高い崖の上でなければ、麓の村を見ることはできない。
「何故だ? この者は死した故、もう何も見る事は叶わぬであろう?」
白き魔獣の首を抱えるシャリーを、アルクラドは不思議そうに見つめる。死ねばそれでお終いなのだから、と。
「それでも村の見える場所で眠りたいって思ってたんじゃないでしょうか? 私の勝手な思い込みかも知れませんけど」
そう言って、シャリーは緩く笑う。
「私はセーラノの町を守っていたわけではありませんし、町の人からも疎まれていました。けれどあの町が大好きなので、死んだ後は、あの町が見える山の上で眠らせてほしいと思ってます。きっとこの方も同じだと、私は思います」
村人達に恐れられ憎まれたまま死んでしまったが、あの村には白き魔獣の大切な思い出があり、大切な人が眠っている。同じ場所で眠ることが叶わないなら、せめて見ることのできる場所で。そういう思いがあったのではないかと、シャリーは考えてしまう。
「それにアルクラド様が亡骸をここへ運んだのも、何か思うところがあったからじゃないんですか?」
シャリーの言葉に首を傾げるアルクラドに、彼女は少し嬉しそうに問いかける。死者が何も感じないというのなら、わざわざ亡骸を山に運ぶ必要はなかったはずだ。村人達が死者の亡骸をどう扱おうとも、どうでもいいはずだ、と。
「この者は、言葉違えず交わした契りに殉じた、誇り高き者だ。その亡骸を辱める事はあってはならぬ」
「私もそう思います。けどそれも、生きてる側の勝手な考えじゃないですか?」
当然の様に答えるアルクラドに、シャリーは少し笑いながら再び問う。どこで眠ろうとも、どの様な扱いを受けようとも、死者にとっては同じこと。そこに何かを感じるのは生者の側であり、アルクラドとシャリーの考えも根幹は同じであるのだ、と。
「……ふむ。確かに其方の言う通りであるな」
1拍間を置いた後、アルクラドは静かに頷いた。
誇りある者に相応しい最期を。
このことを、アルクラドは当然のものとして考えていた。そこに感傷の類はなく、そうすべきである故に誇りある者の死を弔う。ただそれだけのことだと考えていたが、確かに死者には関係のないことだ、とアルクラドは思う。
またシャリーに言われ、白き魔獣の亡骸に思うところがあったことにも気が付いた。物言わぬ骸となった白き魔獣を見て何を想ったのか、それは分からなかった。しかし何か感じることがあったのは、事実であった。
「この者の亡骸は、其方の言う通り、崖の頂に葬るとしよう」
アルクラドはそう言って、もう1度、黒布で白き魔獣の亡骸を包み込む。そして地面に手をかざし魔力を込める。地面がせり上がり、崖の上へと続く螺旋状の階段が現れた。
「往くぞ」
「はい」
シャリーが階段に足をかけ、1段1段、確かめる様にゆっくりと登っていく。それに黒布の棺とアルクラドが続く。
真っすぐに伸びた木々の梢が、段々と近づいてくる。
木々の影が薄れ、空が明るくなってくる。
村へ続く川のせせらぎが徐々に小さくなっていく。
滝になる前の、水の流れる音が聞こえてくる。
そして崖の上に着けば、山の木々よりも高いそこは、なだらかな山の斜面の一部だった。
山の頂を背にして麓を見れば、眼下は漆黒に包まれているものの、僅かながら村の様子を見ることができた。陽が昇れば、白く染められた広大な野山の中にある村を見ることができる。白き魔獣が眠る場所として、相応しい所であった。
アルクラドは地面に大きな穴を掘り、そこへ白き魔獣の亡骸を横たえる。そしてシャリーが、魔獣の首を、本来ある場所へそっと置く。
シャリーは墓穴から離れ、膝をつき、手を組み、瞳を閉じる。その横で、アルクラドが土をかけ、白き魔獣を土中へと埋めていく。
ドサドサと土の落ちる音を聞きながら、シャリーは一心に祈る。せめて死した白き魔獣の魂が安らかであるように、と。叶うならかつての村長の魂と共にあるように、と。その姿を、アルクラドはシャリーの祈りが終わるまで、じっと見つめていた。
どれほど時間が経った頃か、シャリーは組んでいた手を解き、立ち上がった。
「アルクラド様。1つお願いがあるんですが、いいでしょうか?」
祈りを終えたシャリーは、真剣な様子でアルクラドの眼を見つめて言う。
「アルクラド様の力で、この山にしばらく魔獣が寄り付かないようにしてもらえませんか?」
「何故だ? 魔獣に対する守りは不要だと、村長は言っていたが」
白き魔獣の代わりにしばらく村を守ってほしいと言うシャリーの言葉に、アルクラドは首を傾げる。守りを必要としていない者に、わざわざ守りの手を差し出す必要はない、と。
「村長さんはそう言っていましたが、そもそも魔獣がいないと思い込んでいるんです。だから村が魔獣に襲われるはずがない、って」
村人達は長く魔獣の被害がなかった為に、それに対する危機感を完全に失ってしまっていた。もし魔獣が襲ってくれば、大きな混乱に陥り、大きな被害が出るだろう。
「しかしそれは、村長も覚悟の上であろう?」
シャリーの言葉を聞き、アルクラドは自分の問いに対する村長の言葉を思い出す。契りを破る覚悟がある、と村長は確かに言っていた。
「人は嘘を吐きます。何も考えずにその場の勢いで言葉を言うこともあります。きっとあの人たちは、生贄を出したくない一心で、覚悟なんてなかったと思います」
今回は私も何も考えずに行動しましたけど、とシャリーは自嘲気味に笑う。
「であれば尚更助けは不要であろう? 偽りの覚悟を口にした報いである」
村長が覚悟を偽った可能性を知り、アルクラドは冷たく言い放つ。
「私もあの村の為に言ってるんじゃありません。けど、村を守るのはこの方の願いですから」
村に向けていた視線を切り、シャリーは途中に眠る白き魔獣へと向き直る。
「村を守り彼らの安全を願ったこの方は、村が魔獣に襲われるのを望んではいません。その想いに少しでも応えたいのです」
今もまたシャリーは、後悔に苛まれていた。軽々しく手を出すべきではなかったのではないか。一体何が正解だったのか、と。しかしそれがもう分からない以上、長年村を守り続けてきた白き魔獣の想いだけは無駄にしたくはなかった。
「そういうものか……何とも面倒な事であるな」
そう息を吐きながら言うアルクラド。しかし白き魔獣の墓に歩み寄り、その上に手をかざす。濃密な魔力が渦巻き、1本の杭がその手に現れる。何の飾り気もない漆黒の杭。それを白き魔獣の墓へと深く突き刺した。
「往くぞ」
「はい、ありがとうございます」
アルクラドはそう告げて、螺旋状の階段へと歩いていく。シャリーはその後ろをゆっくりと追っていくのだった。背中にアルクラドの魔力の波動を感じながら。
お読みいただきありがとうございました。
魔獣はついに山へと還りました。
後1話か2話でこの章はお終いになります。
次回もよろしくお願いします。