村と魔獣の契約
月が空に浮かぶ夜。誰もが寝静まる夜、身の毛もよだつ獣の咆哮が村に響き渡った。
「一体何事だ……!?」
獣の雄叫びは村長の家の前の広場で発せられたものであった。家の目の前で起こったそれに、村長は飛び起き、外の様子を窺う為に家から出てきた。
「アルクラド殿、こんな夜更けにどうしたのでっ……」
家の前に立つアルクラドを見つけ、声をかけるも、その後ろに立つものを見て、村長は絶句した。世にも恐ろしい狼の魔獣が、鋭き黄色の瞳で以て彼を見下ろしていたからである。
「村長よ、皆を集めよ」
驚き言葉を失う村長にアルクラドが告げる。が、村長はそれどころではない。彼らの恐れる山の魔獣が、目の前にいるのだから無理もない。
「山の魔獣が其方らに話があると言っておる故、こうして連れ帰った」
見れば、魔獣の長い前足は黒い布で縛られ、黒布の先端は首へと繋がっている。丁度、手を縛られた罪人の様な恰好である。
身体の自由を奪われながら暴れる様子のない魔獣を見て、村長はひとまず落ち着きを取り戻す。黒布がすぐに切れてしまいそうなのは、一旦頭の隅に置いておく。
「アルクラド殿、これは一体何事ですか!?」
そして先程言い切れなかった言葉を、もう一度叫ぶのであった。
「今言った通りである。生贄に関わる事柄故、直ぐに皆を集めよ」
アルクラドは、村長の驚きを気にすることなく、先程と同じように淡々と告げる。その様子を見かねたシャリーが、村長に言う。
「驚く気持ちはよく分かります。私達がおかしなことを言っているのも。けど村と生贄に関わる大切な話なんです。どうか話だけでも聞いてください」
シャリーの言う通りおかしな話だと、村長は思った。討伐依頼を受けた者が、その首ではなく生きた魔獣を連れ帰る。それだけでもおかしいというのに、話を聞けと言う。村としては生贄という魔獣の被害には困り果てるばかりで、今更話を聞く必要はどこにもなかった。しかし相手の眼をじっと見つめながら訴えるシャリーの姿に思うところがあったのか、村長は渋々といった様子で頷くのであった。
「皆を集めましょう。魔獣を暴れさせぬよう、くれぐれもお願い致します」
村長はそう言って、村人達を集める為、家族とともに村の各所へと向かっていった。
ちなみに魔獣が咆吼を上げたのは、そうすればすぐに村人が集まるだろう、と考えたアルクラドが命じたからだった。もちろんシャリーは逆効果だと思ったが、止める間がなかった。
恐ろしい雄叫びに震え上がった村人達は家から出ることを拒み、村長達が彼らを集めるのに余計に時間がかかってしまった。そのことを、アルクラドは知る由もなかった。
始まりは、300を超える季節の巡りの、そのまた前であった。
1匹の魔獣が山で瀕死の傷を負っていた。成体にはほど遠い、狼の様な白き魔獣であった。
その魔獣は、どういうわけか、山の近くの村に住む人間に助けられた。狼の様でありながら前脚が異常に長い異形の魔獣に、村人は薬草を塗り包帯を巻き、飢えに苦しむ身でありながら食糧を与えた。
魔獣は一命を取り留めた。しかし魔獣は村人から与えられた食糧を決して食べなかった。人の血肉以外、魔獣の糧とならないからである。
それに気付いたのか、はたまた偶然か、村人は魔獣に自らの血を分け与えた。村人の血を飲んだ魔獣は、すぐに回復へと向かった。傷は癒え、その身体もみるみるうちに大きくなっていった。
その村では、土地の貧しさによる作物の不作だけではなく、凶暴な獣や魔獣が山や村を荒らすことにも悩まされていた。山の恵みは獣に食い荒らされ、山から来た魔獣に村人が食い殺される。村はそんな苦しい日々を過ごしており、また白き魔獣に瀕死の傷を与えたのもそんな魔獣であった。
傷の癒えた白き魔獣は、村の一員として迎えられ始めていた。初めは殺してしまえ、と村の誰もが思っていた。しかし白き魔獣は、山を荒らす獣を狩り、村人達の糧とした。更に人の血肉しか糧にすることができないにもかかわらず、白き魔獣は決して村人を襲うことはなかった。それ故に、村人達の白き魔獣に対する意識も変わってきたのである。
白き魔獣が山で獣を狩り始めてから、村人達の食糧事情は少なからず改善した。美味くはないが肉を食べることができ、今まで荒らされていた山の恵みを得ることができるようになった。村人達の貧相だった体つきが、少しずつまともになったきた。
それに対し、白き魔獣は日に日に痩せていった。白き魔獣を助けた男は、変わらずに自らの血を与えていたが、白き魔獣の成長に与える血の量が追いついていなかったのだ。
男は困った。男を殺さぬよう最低限の血しか飲まない白き魔獣は、再び死に近づいていた。
男は村人達に請い願った。白き魔獣に血を分けてやってほしい、と。
村人達は、思いの外、あっさりと男の願いを聞き入れた。白き魔獣が村に来てからそれほど時間は経っていないが、白き魔獣は村の一員である、と村人全員が思っていたのだ。村人達は自分達の血を、少しずつ白き魔獣に分け与えた。そのおかげで、白き魔獣は生きるのに十分な血を得ることができたのである。
村人達から血を得た白き魔獣は、その身体を更に大きく成長させていた。人間の大人の腰辺りであった白き魔獣の顔は、すでに人の頭より高い位置になっていた。森の獣など相手にならず、村を襲う魔獣とも戦えるほどになっていた。自らが傷つくことを厭わず魔獣と戦い、その脅威から村を守るようになっていた。
傷ついた身体は村人達の血で癒し、白き魔獣は幾度となく山の魔獣と戦った。その内に魔獣が村を襲う頻度が、段々と減ってくるようになっていた。季節ごとに数度あった襲撃が1度になり、半年に1度となり年に1度となり、1年を通して襲撃のない年も出てくるようになっていた。
そうして幾度の季節が巡った頃か、村は魔獣の被害に悩まされることのない、平和な村となっていた。山からは獣や果実など山の恵みを得ることができ、畑からもある程度安定して作物が穫れるようになっていた。ようやく飢えと死の恐怖に悩まされていた日々から抜け出すことができたのだ。
白き魔獣を助けた村の男は、すっかり老け込み、老人となっていた。しかし食糧事情が改善された為、白き魔獣を助けた壮年の頃よりも、血色がよく肉付きもよくなっていた。白き魔獣も更に成長し、今では見上げるほどの大きさになっていた。村の人口が増え、村人達から与えられる血の量が増えた為だ。
しかしそれでも、村人達が与える血の量は、白き魔獣の生命を維持するだけで精一杯だった。背丈は大きくとも身体はやつれ、血が足りていないのは明らかだった。
白き魔獣は自覚していた。日に日に募っていく飢えが、意識を奪おうとしていることを。身体の奥底に眠る魔獣の本能が、目覚めようとしていることを。人を襲え、血肉を喰らえ、と視界が紅く染まっていくことを。
このままではいけない、と白き魔獣は思った。このままでは、村人達を襲ってしまう、と。
白き魔獣は、幼い頃から人間と在った為か、人語を操ることができるようになっていた。白き魔獣は、村長となった命の恩人である男に告げた。
山の魔獣が姿を見せることも、飢えに苦しむこともなくなった。俺が居らずとも村は大丈夫だ。俺がこのまま村に居続ければ、いつかお前達を喰ってしまう。そうならない為にも、俺は村を離れ、山へ還る。
そう告げる白き魔獣の言葉を、村長の男は苦虫を噛み潰した様な顔で聞いていた。村を想う白き魔獣の言葉が、嬉しくもあり哀しくもあった。
しばしの沈黙の後、村長の男は頷いた。最後に見送りをさせてくれ、と言いながら。
白き魔獣が村人達から離れると言った日の夜、村にはいつものように穏やかな時間が流れていた。飢えに喘ぐ声も、傷の痛みに呻く声も、家族の死を嘆く声も聞こえない。そんな誰もが静かに眠りに就く村の様子を、白き魔獣は穏やかな様子で眺めていた。
その次の日、村長から話を聞いた村人達が、別れの挨拶の為に白き魔獣の下を次々と訪れた。彼らは白き魔獣との別れを惜しみ、最後だから、といつもより多くの血を分け与えた。内なる衝動を抑えながらも、白き魔獣はゆっくりと村人達の血を飲んでいった。そうして皆が別れを告げる頃には日も傾き、夜の帳が下りようとしていた。
そして日が落ち夜になると、村長の男が、白き魔獣の下を訪れた。山へ戻る村の一員を見送る為だ。
白き魔獣と村長の男は、ともに山へと向かって歩き出した。薄く積もった新雪の上に、大小2つの足跡を残しながら。その間、彼らは一切言葉を交わさなかった。獣の顔の魔獣は元より、男もずっと無表情であり、何を考えているのか分からない様子だった。
彼らが山を登り始めて数刻が経った頃、山間の開けた場所に出た。山頂へと続く道、切り立った崖、流れる滝のある、広場の様な場所。崖には魔獣が中に入るのに十分な大きさの穴が開いていた。雨風を凌ぐことができ、水場もある。山中の棲処として十分な場所であった。
ここでいい、と魔獣は言った。洞穴を背に座り、男の眼を、じっと見つめている。
男は、無言のまま、じっと魔獣の瞳を見つめている。
男は、おもむろに腰に手をやる。そしていつも腰に提げているものを抜き放った。山仕事で使う鉈である。
魔獣は、驚きはしなかった。何も言わず男の眼を見つめている。穏やかな瞳で、男が鉈を振り上げる様子を見つめていた。男の眼には、強い覚悟の光が宿っていた。
魔獣が慌てたのは、次の瞬間だった。
男が鉈を逆手に持ち替えた。
魔獣が止める間もなく、男は自らの腹部に深々と突き刺した。くぐもった声が男の口から洩れる。
慌てて駆け寄る魔獣に、地面に横たわりながら、男は途切れ途切れに言った。
俺を喰え、と。
長い間、あの村はお前に守ってもらった。なのに、そのお前を見殺しにするに忍びない。
だからこれからも俺達の村を守ってくれ。代わりに俺達がお前の糧となり、お前の命を守ろう。
そう言う男の声は、段々と弱くなっていく。身体が震え声が震え、その瞳から徐々に光が失われていた。
男は、絞り出す様に言葉を続ける。
村の皆もお前に感謝している。村を守ってくれるのならお前の糧になろう、と言ってくれた。
魔獣が全ていなくなったわけじゃないんだ。お前にいなくなられると、俺達も困るんだ。
男は死が眼前に迫る中にあって、冗談めかした様に魔獣に笑いかけた。だがその眼はもう、恐ろしき姿をした村の仲間を捉えてはいなかった。
後のことは息子に任せてある。また後で、よく話し合ってくれ。
さぁ早く、喰え。無駄死には御免だ。
囁く様に言う男の目は、虚空を見つめている。
弱々しく息をする男に、白き魔獣はゆっくりと顔を近づける。そして耳まで裂けた口を、大きく開く。太く鋭い牙が男に迫る。
骨を砕き、肉を裂き、血を啜る。
冬の満月だけが見下ろす中、血に濡れた獣の、物悲しい遠吠えが、3度山に響き渡るのであった。
お読みいただきありがとうございました。
かつての村長に助けられた恩の為に、魔獣は村を守っていました。
次回もよろしくお願いします。