初めての町
どこまでも広がる草原の中、人々に踏みしめられてできた自然の道を、1人の男が歩いている。
真っ黒な靴を履き、上下とも真っ黒な服を着、頬まで隠れる高い襟付きの真っ黒い外套を羽織り、黒い手袋をはめ、広いツバ付きの黒い帽子を被っている。
夏の強い日差しが容赦なく降り注ぐ草原において、その姿は余りにも異様だった。幸いにも未だ他人とすれ違うこともなかったが、人と会えば奇異の目で見られることは間違いない。
見ているだけでも暑くなるような恰好で、夏空の下を男は黙々と歩いていく。ツバと襟の隙間から僅かに見える肌は雪のように白く、この暑さの中にあって汗1つかいていない。
男の名はアルクラド。
千を超える年月を生き、永きにわたる封印から目覚めた、不死なる魔族、吸血鬼の始祖の1人である。
強い日差しの中、幾分煩わしいと感じながらも、陽の照る草原を彼は悠々と闊歩していた。奇妙な恰好をしている人だと思う者はいても、誰も彼が吸血鬼だとは思わないだろう。
男は思う。自分は一体どうなったのかと。
自分が何者であるかは分かっている。自分にどんなことができるのか、その能力も理解している。
しかし自分がこれまで何を為してきたのか、どんな道を歩んできたのか。それが全く分からない、思い出せない。
自分は一体何者なのか。男は考えを巡らせる。
しかしそれも一瞬のこと。
自分は自分。過去に歩んだ道のりに関わらず、自身が決めること。幸いにも時間は男の味方であり、ゆっくりと確かめればいいのである。
世界を識ろう。男は思った。
自分が何故あそこに、いつから眠っていたのか分からない。どれほど眠っていたのかも分からない。
ただ封印をされ、あの場所で眠りから覚めたことが分かるのみ。
ならば識ろう。
自身がこれから生きていく世界のことを。
世界を渡り世界を見よう。世界に生きるもの達を見て、彼らを識ろう。その中で自分を識り、自分を見つけよう。
そう心に思い、男は草原にできた道を、ひたすらに歩き続けた。
どれほど歩いただろうか。一度は沈んだ太陽が再び昇り、空の真上に差し掛かった頃、草原の先に何かが見えた。
何かを囲むような形で、石の壁のようなものが建てられている。遠くに見える木々よりも高く見えるため、かなりの大きさをもっているだろう。また地面にできた自然の道もよりはっきりと見えるようになり、左右へ伸びる道もあるようだ。
アルクラドに、遠くに見える建造物に覚えはない。人間よりも遙かに遠くを見通す彼の眼にはその造りの細部までが映っているが、それが何かは分からない。ただ自然にできたものでないことは確かである。
見たところ雨風には晒されているが、今にも崩れてしまいそうな古びた印象はない。まだあれを造った者があそこに住んでいるのかも知れない。アルクラドはそう考える。
自身との関わりは分からないが、人族はいくつかの種族に分かれていることは知っている。
個々の力は弱いが最も数の多い人間。数は少ないが、総じて高い魔力を持つ優れた戦士で、遙かな時を生きる誇り高き森の民エルフ。樽の様な太く短い身体にとてつもない筋肉を秘めた、物作りの技巧に優れた職人たる岩窟の民ドワーフ。様々な獣の特徴を有し、少ない魔力の代わりに高い身体能力を持つ獣人。
彼らの内、エルフとドワーフは平地を好まない。そのため人間か、獣人あたりの造った町だろうと予想される。
アルクラドは少し歩調を早めた。
人との初めての接触では、彼に敵意がないことが伝わらず戦いとなってしまった。今回はそうならないよう気をつけなければならない、とアルクラドは思う。
人族と魔族は敵対していたが、アルクラドには特に人族に危害を加える気はなかった。彼にとって人族は何の脅威にもなり得ず、攻撃されない限り彼から手を出すことはなかった。もちろん生きるために人の血を吸うが、それも僅かな量で、針の刺し傷から滴る一滴で優に数年は生きられるのである。その一滴の提供を依頼し人族と敵対したことはあるものの、アルクラド自身に敵対の意志は一切なかった。
世界を識る一環として彼らの生活を識るためにも、少なくとも人族とは敵対関係になってはいけない。そのためには自身が魔族であることを隠さなければならないが、アルクラドには大した問題ではなかった。
吸血鬼の最大の弱点である太陽の下で歩き回れるのである。最大の特徴である牙さえ見られなければ、あとは人間と大して変わりない。その牙にしても血を飲む時以外は小さなもので、まず吸血鬼の牙だとは分からないだろう。
特に問題はない、大丈夫だろう。アルクラドはそう確信した。
気付けば太陽は少し傾き、石の壁が大きくなってきていた。
やはり石壁は大きなもので、人を縦に5人重ねても更に大きい高さだった。先へ続く道は石壁にぶつかり、そこには馬車が優に通れる大きな門があった。
その前に大勢の人が並び、町の警備兵らしき者たちが彼らに対応している。町に入る人の中に不審者がいないかの確認をしているのだろう。アルクラドもそれに倣い列の後ろに並ぶ。
アルクラドが列に近づくと最後尾の数名が振り返り、彼の恰好に訝しげな目を向ける。が、すぐに前を向き直す。アルクラドも周りの視線など気にも留めず、列が短くなるのを待っている。
アルクラドにとってはあっという間の時間で列は進み、彼の順番が回ってきた。
「次の者……何だお前、その恰好は……」
アルクラドの姿を見た門番が、眉をひそめる。照りつける太陽の下、肌がほとんど見えない黒ずくめの姿をした者を見れば当然の反応だろう。
「肌が弱く、長く光に晒す事が出来ぬのだ」
帽子を取り、外套の襟を開き顔を晒す。アルクラドの整った真っ白な顔立ちに門番が息を飲む。
「そうか……何か身分を示すものはあるか?」
「身分を……その様な物は持っておらぬ」
魔族であるアルクラドが身分証を持っているはずがない。自身の牙と不死性を見せれば吸血鬼であることは証明できるが、町に入れなくなってしまうので意味がない。
「では紹介状のようなものはないか? それもないのであれば通行料として銀貨1枚を支払ってもらうことになるが、いいか?」
銀貨1枚あれば宿に数日は泊まることができ、庶民が気軽に出せる額ではない。そして魔族であることを抜きにしても、アルクラドに現在の貨幣の持ち合わせがあるはずがなかった。
金もない、と言いかけたとこらで、遺跡で自分が殺した男達のことを思い出した。何か使えるものはないかと、彼らの荷をいくらか拝借したのである。
中に硬貨らしきものの入った袋もあり、アルクラドは大して中身も確認せずそれを懐にしまっていた。それを門番へと差し出す。
「これで足りるか?」
「……ギリギリ大丈夫だ」
門番は銅貨や鉄貨の混じった硬貨を計算し、銀貨1枚分はあることを認めた。
「これが通行証だ。町の中で提示を求められることもあるから、肌身離さず持っていろよ。それと町を出る時には返却してもらうからなくすなよ」
門番から通行証を受け取ると、それは通行料を納め町への滞在を認める旨が刻まれた木板だった。
「1つ聞きたい。町の中で金を得るにはどうすればいい?」
通行料を払った後、アルクラドの手元には銅貨と鉄貨が数枚残っているだけだった。これがどれほどの価値になるのか分からないが、通行料として手持ちのほとんどが消えてしまったことから大した額でないのだろう。金が必要な場面で金が足りず、暴力で無理を通すのは彼の望むところではない。
魔族らしい行動ではないが、人族の町で彼らと諍いを起こさずに過ごすには、彼らの方法に倣わなければならない。そのための1つとして金を稼ぐ必要があるとアルクラドは考えた。
「金か……それなら冒険者ギルドに行くといい。何の伝手がなくても腕っ節さえあれば食うに困らない。あんたにそれがあるかは分からねぇが、とりあえず行ってみるんだな。それより後ろがつかえてるんだ。他に聞きたいことがないなら早く行ってくれ」
アルクラドの後ろには後から町へやって来た者達がまだ列を作っていた。1人1人にそんなに時間をかけていられないと、門番は追い払うようにしてアルクラドが町へ入るのを促した。
気怠そうに仕事へと戻る門番を尻目に、アルクラドは門をくぐり町の中へと入っていく。襟を閉め帽子を被りなおしながら町を眺める。
門の前で並んでいる時もそうだったが、町の中は多くの人間で溢れていた。やはり外で予想していた通り、主に人間が住む町なのだろう。門から一直線に大きな通りが伸び、多くの人が行き来している。石造りの建物が並び、通り沿いで物を売る者達の姿もある。
通りを歩きながら冒険者ギルドなるものを探すが、場所を聞くのを忘れていたことに気がついた。その特徴さえも聞いていない。また誰かに聞かなければならない。
「すまない。尋ねたいことがあるのだが、いいだろうか?」
道ばたで串に刺さった何かを焼いている男に尋ねる。肉の焼ける匂いがするためその男が焼いているのは何らかの肉であろうが、それ以上に甘く芳しい香りが漂ってきている。実は門をくぐった時からその香りがアルクラドの鼻を刺激しており、ずっと気になっていたのである。
「いらっしゃい! どうしたんだい?」
男は愛想の良い笑顔を向ける。その間も手はずっと串を動かしている。
「冒険者ギルドまでの道を聞きたい。どう行けば良いのだ?」
男はすぐに答えてくれた。町の中心部にギルドはあるようで、このまま大通りを進めば見えてくるそうだ。特に大きな建物で、外観の特徴も聞いたため、見落とすことはないだろう。
男に感謝の言葉を述べ、アルクラドは男が焼く串を指さす。
「其方の焼くそれは何なのだ? とても良い匂いがしておるが?」
「こいつは猪の肉だ。かなりクセのある肉なんだが、特性の漬け汁に漬けてから焼くから、クセがなくなってより旨くなるんだ。1本どうだい?」
「猪の肉か。ふむ、1つ頂こう」
実は先ほどから食欲もかなり刺激されていた。人の血を求める渇きにも似た渇望に襲われていた。
男に感謝を述べ串を受け取るが、男は手を引かず手のひらを上にして差し出したまま。
「どうしたのだ?」
「どうしたって、金だよ金。串の代金を払っておくれよ」
今にも串に喰らいつきかけていたアルクラドの動きがぴたりと止まる。早速、金が必要な場面がやってきた。
「これで足りるだろうか……」
残りの硬貨を全て男に渡す。
「これで、全部かい……?」
「ああ。町へ入るためにほとんどを使ってしまった。それもあって冒険者ギルドへ向かうところだ。足りなければ、これは、返す」
ぜひ食べたいアルクラドだったが、諍いを起こさないために泣く泣く諦める。
「足りないことは足りないけど……」
アルクラドがじっと串を見つめている姿を見て、男は返せとは言い出しにくかった。ただ不足分も僅かだったため、オマケと割り切ることにした。
「けど、食べな! そんなに食いたそうにしてるのに、食えねぇのはかわいそうだからな!」
「良いのか、金は足りておらぬのであろう?」
「いいんだよ! その代わりギルドで稼いだら、そん時にたくさん買ってくれよな」
「うむ、必ず買いに来よう」
再び男に感謝を述べ、遠慮なく串に喰らい付く。
肉は、アルクラドにとってはだが、柔らかいがほどよく弾力があり、噛むごとに肉汁と旨みがあふれ出てくる。また肉の香りとともに果実に似た甘い香りが漂い、それぞれが絶妙に合わさり互いを高め合っている。
十分に咀嚼し嚥下する。身体が満たされていく。肉が腹の底へ落ち、そこから熱となって身体中へと巡っていくようである。渇きを満たす潤いとはまた違う、満ち足りた心地であった。
「どうだい、旨いだろう?」
「この1本だけしか食せぬ事が残念でならない。これほど旨い物は初めてだ」
自慢げな表情の男に対して、アルクラドは複雑な表情。串は非常に旨かったが、そのために余計に食べたくなってしまった。何としてもギルドで金を得て、存分に串を食べようと心に決めた。
「我はギルドへ向かうとする。金を得て、再びこれを買いに来よう。必ずだ」
アルクラドに金を稼ぐための目的ができた。串の焼ける匂いに後ろ髪を引かれながらも、教えられた通りにギルドへ向かう。手持ちの金はすべてなくなってしまったが、不安はない。ギルドで金を得る手段も確証もないが、不安はない。頭は猪の串焼きのことで一杯だから。
永い眠りから覚めた吸血鬼は、目覚めた食欲と共に冒険者ギルドへと歩いていった。
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