山鎮めの伝説
黒い煙が空高く昇っていく。泉から水が湧くかの様に、山の頂から赤く輝く液体が流れ出ている。所々が黒くドロドロとしたその液体が流れる様子は、とてもおどろおどろしいものだった。時折、轟音を響かせ、大地を揺るがすその様は、まさしく怒りと形容するに相応しいものだった。
「赤岩水カ……久シク見ルナ」
大いなるものの怒りに触れた、と怖れ慄くヴィクトルや、辺りに響く轟音や山の恐ろしい姿に震える獣人達をよそに、黒龍は懐かしげに言う。
「赤岩水とは……?」
聞き慣れない言葉に、アルクラドが黒龍に問う。
「アノ山ヲ流レル赤黒イ物ノ事デ御座イマス。アレハ熱デ溶ケタ岩デ、我ラハ赤岩水ト呼ンデイマス。山ノ中ニハ時折、音ヲ立テナガラ赤岩水ヲ噴キ出ス物ガ在ルノデス」
山の怒りが何なのかさえアリテーズの獣人達は知らなかったが、龍の中では知られた現象の様だった。
「その赤岩水とやらは此方へ流れて来ておるが、触れればどうなる?」
「赤岩水ハ龍デスラ火傷ヲ負ウ程ノ熱ヲ持チマス。小サキ者ハ一溜マリモ無ク、森モ立チ所ニ燃エ上ガルデショウ」
「そうか」
長時間、炎にさらされても燃えず溶けずの岩が溶けるほどの熱さである。人も森も、凡そ生きているものは、どう足掻いても耐えることができない。アルクラドは何でもない様に聞き流しているが、黒龍の言葉を聞いたシャリーやヴィクトル達は気が気でない。特にヴィクトルは自分の命だけでなく、常緑の森やそこに住む獣人達の命を預かる身であり、途轍もない焦燥感に見舞われていた。
「黒龍様! 山の怒りを鎮めてはいただけませんでしょうか! このままでは森や国の民がっ……!」
ヴィクトルは黒龍の前で膝を突き懇願する。山の怒りの正体を知り、また古代龍である黒龍ならば、大いなるものの怒りを鎮めることができるのではないか。ヴィクトルはそう考えていた。
「其レハ出来ヌ。赤岩水ヲ全テ吐キ出スマデ、アレヲ止メル事ハ出来ヌ」
「そんなっ……」
無情な黒龍の答えに、ヴィクトルは項垂れる。
「あの……もう赤岩水がここまで来そうなんですけど……」
そんなことをしている内に、赤岩水がすぐ近くまで迫っていた。山を流れる赤岩水の速度はとても速く、山頂から半日の道のりを僅かな時間で滑り降りてきたのだ。
赤く輝く黒色交じりの赤岩水が迫る様子は恐ろしく、夏の盛りよりも熱い風が山から吹き下ろしていた。途轍もない熱を持ったものが迫ってくるのを肌で感じたヴィクトル達は、死を覚悟した。
「氷よ……」
しかしその死は訪れなかった。
アルクラドの小さな呟きと同時に、焼け石に水をかけた時の音が、何倍も何倍も大きくなって辺りを埋め尽くした。音が聞こえた方に目を向ければ、向こうの景色を遮るほどの白煙がもうもうと立ち昇っていた。
大地から立ち昇る白煙の正体は、アルクラドが生み出した氷の壁を赤岩水が溶かしたことによる湯気だった。アルクラドの生み出した氷の壁は、王都を守る城壁の様に、高く広く分厚かった。奥が透けて見えるほど氷の壁は透明で、その向こうに白煙を上げる赤岩水が良く見えた。その勢いは留まることを知らず、音も湯気も全く収まる気配はなかった。しかし徐々に、赤岩水の赤い輝きが弱まっている様であった。
「これで一先ず赤岩水は来ぬであろう。赤岩水は何時まで流れるのだ?」
赤岩水の流れを押し留めたアルクラドは、黒龍に尋ねる。そのアルクラドの言葉を聞き、ヴィクトル達は一先ず命が繋がったことに安堵の息を漏らした。
「直ニ止ミマス。日ガ空ヲ数回巡ル内ニハ、赤岩水ヲ全テ吐キ出スデショウ」
アルクラドの問いに対する黒龍の答えは、数日で赤岩水の噴出が治まるというものだった。龍の感覚では、赤岩水の噴出が数日間続こうとも、ちょっとした火事が起きた程度でしかない。しかしヴィクトルからすれば国が滅ぶかの瀬戸際であり、一刻も早く山の怒りを鎮めたかった。
「アルクラド殿、何とかならないだろうか!?」
山の怒りを鎮めることはできないと黒龍が言ったが、赤岩水の流れを押し留めているアルクラドなら、とヴィクトルは縋る様に言う。
「赤岩水を冷やし固める事は可能だ。あれが治まるかは識らぬが」
「それは誠か!?」
赤岩水の流れを止めるだけでなく、凍らせてしまうことも出来ると言うアルクラド。しかしそれで赤岩水の噴出が治まるのかは分からない。それを聞き、ヴィクトルは僅かな希望を見出し、黒龍に目を向ける。
「確カニ赤岩水ヲ凍ラセレバ噴出ハ止ミマス。然シ此ノ地ハ極寒ニ閉ザサレルデショウ」
「極寒に閉ざされる!? それは一体どういうっ……!」
噴出が止むという黒龍の言葉の後に続いたのは、決して聞き逃すことの出来ないものだった。
「赤岩水ハ此ノ大地ノ下デ、泉ノ如ク湧イテオル。其ノ泉ガ凍テ付ケバ、一体何ガ此ノ地ヲ暖メルト言ウノダ?」
黒龍の言葉に、ヴィクトルは血の気が引くのを感じた。それは燃え上がる一瞬の死と、凍える緩やかな死の2つの道しかないことを示していたのだから。
「ヴィクトルよ、どうするのだ?」
そこへアルクラドが追い打ちをかける様に、決断を迫る。常緑の森に生まれた者は、冬の本当の寒さを知らない。もしこの森が雪に覆われる様なことになれば、多くの者が寒さに震えながら命を落とすことになる。しかし木々が燃え森が炎に包まれれば、逃げる間もなく焼け死んでしまう。アルクラドが数日間も赤岩水を押し留め続けるなど不可能だと考えるヴィクトルに、選択の余地はなかった。
「アルクラド殿……赤岩水を凍らせ、山の怒りを鎮めていただきたいっ……!」
常緑の森が極寒の地になろうとも、他所の土地へ移り住むことは出来る。ヴィクトルは絞り出す様な声でアルクラドに言った。
「うむ」
静かに頷き、火を吹く山に目を向けるアルクラド。魔法を使う準備に入ろうとする彼の腕をシャリーが叩く。
「あの、アルクラド様。赤岩水を凍らせる以外で、何とかならないでしょうか……?」
ヴィクトルが覚悟を決めたにもかかわらず、他の方法がないのかとシャリーは問う。
「シャリー殿、良いのだ。僅かでも時間があれば他所へ移る準備が出来る。それに多少の寒さなど、我らなら問題ない」
冬への備えがない彼らであるが、森の動物を狩りつくせばかなりの食糧を得ることが出来る。また強靭な身体を持つ獣人は、多少の無茶であれば無理を押して旅をすることも出来る。死者を1人も出さずに済ますことはできないが、少しでも減らす為にはどうするべきか。それが今から考えるべきことだと、ヴィクトルは思っていた。
「ですけど、赤岩水の噴出の原因は、多分アルクラド様です。なのでここはアルクラド様が何とかするべきかと……」
「何……?」
「えっ……?」
思いもよらない言葉が、シャリーの口から発せられた。誰も考えもしなかったその言葉に、辺りに沈黙が流れるのであった。
段々と立ち昇る白煙が治まってきていた。しかし赤岩水が氷の壁を溶かす音は、小さくなっているにもかかわらず、より大きく聞こえていた。
「シャリーよ、どう言う事だ?」
初めに沈黙を破ったのはアルクラド。シャリーの言っていることが分からず、その意味を問う。
「アルクラド様が黒龍様を喚ぶ為に魔力を解放した時、火の精霊達が騒ぎ出したんです。それはすぐに治まったんですけど、今、赤岩水と一緒になって騒いでるんです」
気まずそうに言うシャリーの言葉を要約すれば、アルクラドの魔力に怯えた火の精霊達が山の怒りを引き起こした、ということだった。シャリーにも確証はないが、辺りに溢れていた火の精霊が、今は赤岩水や山の方に集まり大いに騒いでいる。シャリーは自分の考えが正しいのだろう、と考えていた。
「我の魔力が火の精を騒がせたならば、我の責か……」
全てが全てアルクラドの責任ではない。黒龍を喚べと言ったのはヴィクトルであり、詳しい方法も教えずに自分を喚べとアルクラドに伝えたのは黒龍だ。しかし精霊達を怯えさせた直接の原因はアルクラドである。
「シャリーよ。火の精を鎮める事は出来るか?」
「これだけ数が多いと、赤岩水を凍らせるか無くすかしないと、無理だと思います」
精霊の扱いに長けたエルフに尋ねるも、具体的な解決策は見つからない。そもそも精霊は手足の様に使役できる様な存在ではなく、精霊魔法を使えるシャリーにもそれは出来ないことだった。
「アルクラド殿、何とかなるだろうか……」
「赤岩水を凍らせる事は容易いが……」
森を捨てる覚悟が揺らぐヴィクトルへの、アルクラドの応えは歯切れが悪い。後に影響を及ぼさずに山の怒りを治める。さしものアルクラドも、どうすればいいのか皆目見当がつかなかった。赤岩水が尽きるまで、数日間でも数旬間でも押し留めることは可能だったが、それは余りにも面倒だった。
無言で俯くアルクラドを皆が見守ることしばし、はたとアルクラドは顔を上げた。
「赤岩水を無くすか……龍よ、赤岩水は泉の如く湧いておるのだったな?」
この状況を何とかしろと言われたアルクラドは、シャリーの言葉に何か思うところがあったのか、山の怒りについて知っていた黒龍に問う。
「ソノ通リデ御座イマス。噴キ出シ減ジタ赤岩水ハ、再ビ泉カラ湧キ地ノ下ヲ満タシマス」
「そうか」
黒龍の言葉を聞き、アルクラドは少しの間、再び何かを考える様に俯く。そして顔を上げ、黒龍に告げる。
「龍よ。我を乗せ、山の上へと飛べ」
「御意」
何か策を思いついた様なアルクラドの言葉だが、それを聞いた誰もが何をするのかが分からなかった。それは黒龍も同じで、しかし間を置くことなく、アルクラドの言葉に承服の意を示す。
「其方らは、山より離れておれ」
伏せて地面に顎をつけた黒龍の鼻先に乗り、アルクラドはシャリー達を振り返りながら言う。
「アルクラド様、何をするんですか!?」
「赤岩水を更に噴出させる。往け」
アルクラドが何をするのか、若干の不安を覚えたシャリーが問う。その問いに一方的に答え、アルクラドは黒龍に命じた。
黒龍は大きく翼を広げ、1つの咆哮と共に勢いよく空へと飛びあがった。
荒野に風が吹き荒れ、辺りに立ち込めていた白煙が晴れる。
火を吹く山からは変わらずに赤岩水が溢れ出し、その山肌が赤黒く輝いている。黒煙は激しさを増し、時折轟音と共に赤岩水が空へと噴き上がっている。
今でさえ恐ろしいほど赤岩水が噴き出しているというのに、これを更に噴出させるとアルクラドは言う。赤岩水がこれ以上に噴き出せば一体どうなってしまうのか、シャリーを含め地に残された者達は不安を覚えずにはいられなかった。
ともかく少しでも生き残る可能性を高める為にも、空に浮かぶ漆黒の影を見ながら、シャリー達は森の方へと退避するのであった。
全く面倒な事だ、と黒龍の鼻先で強い風に打たれながら、アルクラドは思っていた。しかし自分が引き起こしたことなら仕方がない、と空から山を眼下に見る。
煮え立つ釜の様に、山頂に空いた大穴の中で赤岩水からボコボコと泡が生まれ消えている。穴から溢れた赤岩水は山肌を駆け下り、氷の壁にぶつかっていく。1度は弱くなった白煙が、再び勢いを取り戻していた。
その様子を見ながら、アルクラドは手に魔力を込める。この魔力のせいで火の精霊が怯えたと言われたが、今からその拠り所たる赤岩水を無くすのだから、知ったことではなかった。
「我が赤岩水を噴出させ、冷やし固める。其方はそれを龍の吐息で消し飛ばすのだ」
「御意」
アルクラドの指示に黒龍が応える。アルクラドの魔力は、いつの間にか真っ赤に輝く三叉の槍となっていた。その槍を、山の真上に来た時、大穴目がけて投げつけた。
「穿ち……爆ぜろ……」
アルクラドの小さな呟き。煮え立つ赤岩水の中に赤き槍は吸い込まれる様に沈み、1拍の間を置いて、大地に激震が走った。立つこともままならないほどの大きな地の揺れ。山が更に激しく怒り出したかの様に、今までと比べ物にならない量の赤岩水を噴出した。
まるで流れ落ちる滝が逆さまになったかの様に、赤岩水の柱が勢いよく空へと伸びていく。
「凍て付く風よ……白き疾風は滅びの手、全てを閉ざす死の腕……森羅万象、其の声までも死に閉ざし、万世の先へと連れ往かん……久遠の箱庭」
赤岩水の柱が、白い風に包まれていく。湯気を立てる間もなく、赤き輝きは失せ、ドロドロとした液体は岩石へとその姿を変えた。岩石となった赤岩水は、噴出の勢いそのまま空へと飛んでいく。
「消し飛ばせ」
神樹よりも太く長い岩石は雲にも届き、大地に大きな影を落とした。黒々とした岩石が勢いを失い地に落ち始めるその瞬間に、アルクラドは黒龍に命じる。
炎の様に揺らめく青い魔力が黒龍の牙の合間から漏れ出ている。
轟っと唸りをあげて、龍の吐息が放たれた。
青い光が空を走り、巨大な岩石を飲み込んだ。
灰色の空を覆い尽くした青い光が消えると、同時に黒い岩石も跡形もなく消えていた。
山の頂に赤岩水はもう残っておらず、大穴が深く深くまで続いていた。
常緑の森を滅亡に追いやろうとしていた山の怒りは、それを上回る吸血鬼と古代龍の力を以て、鎮められたのであった。
お読みいただきありがとうございます。
ちょっと大げさでしたが、黒龍との共同戦線で無事、
山の怒りを治めることができました。
ほとんどご飯の話ばっかりでしたが、次話で10章は終わりとなります。
次回もよろしくお願いします。