山の怒り
アリテーズの国王である竜人族ヴィクトルの願いにより、彼と漆黒の古代龍を会わせることになったアルクラド。アリテーズの森の中に喚ぶわけにはいかず、シャリー達と共に火を吹く山の麓を目指していた。
山の麓に着くまでの4日間、獣人達は龍へ捧げる食材を獲り、また日々の食事を獲り、アルクラド達の身の回りの世話をした。それらを行いつつアリテーズから酒の入った大きな樽や簡易ではあるがアルクラド達の寝具を運ぶ獣人達の一行は、しかしかなりの速度で山の麓へと向かっていた。流石は森に慣れ、また身体能力に優れた獣人であった。
そうして3日目には森を抜け、4日目の朝には麓に着いていた。
麓へ着くや否や、竜人族達は慌ただしく動き出した。誰かは簡易の神座を作り上げ、誰かは神膳を拵える。またヴィクトルも森の中でついた汚れを落とし、豪奢な衣装を羽織っている。神前の儀式の様であり、まさしく彼らは神に会うつもりなのだろう。
アルクラドはその様子を静かに見つめていた。ヴィクトルの邸宅ではすぐに黒龍を喚びだそうとしたが、今は食事の準備が整うのを待っていた。食事を大事に思うアルクラドは、他者の食事を妨げる様な無粋はしないのである。
「アルクラド殿。後は肉が焼けるのを待つばかり。いつ黒龍様をお呼びいただいても構わない」
食事の準備以外が整った様で、ヴィクトルがアルクラドの傍にやってくる。龍の頭を模った様な冠を被り、龍の顎が宝玉を咥えた杖を持ち、龍の刺繍が施された法衣を纏っている。アリテーズの王としての正装であり、黒龍へ対する最大限の敬意であった。
「うむ」
アルクラドは頷き、神座に目をやった。森に生る種々の果実と酒樽が供えられ、ヴィクトルの言う通り肉が焼けるのを待つだけであり、食事を始めるには充分な様子だった。
アルクラドは立ち上がり、神座へと歩いてく。腰から龍鱗の剣を引き抜き、神膳の前で立ち止まった。
「皆さん、離れてください! あと気をしっかりと持ってください!」
アルクラドの次の行動を察知したシャリーが叫ぶ。アルクラドがどれだけの魔力を放つのかは分からないが、場合によっては多数の失神者が出てしまうかも知れない。シャリーは大げさな身振りで、獣人達にアルクラドから離れる様に言う。
その様子を一瞥した後、アルクラドは眼前に漆黒の剣を掲げる。そしてゆっくりと、剣に魔力を込める為に、自身の魔力を解放していく。
辺りがしんと、静まり返っていく。風が凪ぎ、空を行く鳥が失せ、木々のさざめきや鳥の囀りが消えていく。雲だけが流れゆく空の下、鏡の如く揺れの無い湖面が波打つ様に、アルクラドの魔力が奔流の様に周囲に広がっていく。
はたはたと揺れる黒衣と銀糸の髪。その手の中で、アルクラドの魔力に呼応した龍力が、威を示す咆吼の様に辺りに広がっていく。
他を圧倒する濃密な魔力と猛々しい龍の威。まるで龍の眼前にいる様なその威に、この場にいる者だけでなく常緑の森の獣人達までもが、跪き、また平伏していた。
レアンやバックシルバまでもが平伏する中、この場でアルクラドの様子を見続けることができたのはシャリーただ1人。ざわめく精霊達の気配を感じながら、息苦しさと身体の震えに耐え、アルクラドが黒龍を喚ぶ様を見つめていた。
皆が平伏し震える中にあって尚、アルクラドは剣に魔力を込めていく。そして、膨大な魔力を込められ、龍の威が極限まで膨れあがった龍鱗の剣を、一閃した。
風が吹き、空や森から音が聞こえてきた。周囲に満ちていた魔力も龍の威も、僅かな気配だけを残し、失せていた。
皆が下げていた頭を上げてアルクラドを見れば、空を見上げながら、振り抜いた剣を納めているところだった。
「アルクラド殿……い、今のは……?」
空を覆う雲が割れたのを確認し神座に腰掛けるアルクラドの下へ、ヴィクトルが歩み寄る。空とアルクラドとを交互に見ながら、身体が震えるのを抑えて問う。
「黒き老龍への呼び掛けである。直に来るであろう」
皆が震えながら平伏している様子を見ながらも、アルクラドは事も無げに言う。
「……では皆には準備を続けさせよう」
今まで感じたことのない魔力を目の当たりにし、ヴィクトルはひどく動揺していた。
古代龍は人など及びもつかぬ、遥か高みにある存在。人の身であるアルクラドがあれだけの魔力を放ったのだから、それが古代龍ともなればどうなるのか、ヴィクトルは思いもつかなかった。
もしかするとその威にあてられ、命を失う者が出るのではないか。一際大きな震えが、頭から尾の先へと駆け抜けるのを、竜人族の王は感じた。
そんなことにならない様にヴィクトルが祈る一方で、レアンやバックシルバは呆然とした様子でアルクラドを見つめていた。共に強き獣人の戦士である2人は、アルクラドの強さを本能で感じ取っていた。しかしそれが、アルクラドの強さのほんの一端でしかないことを知ったのである。
「黒龍様はどれくらいで来るでしょうか?」
そんな獣人達の様子を見ながら、シャリーは問う。アルクラドがどんな方法で黒龍を喚ぶか、正確には分からなかった。龍鱗の剣を通して、両者だけが分かる合図の様なものがあるのだと勝手に考えていた。しかしまさかそれが、ただ大きな魔力を放つだけという力技だとは思いもしなかった。空に向けて魔力を放つなど、狼煙と対して変わらない方法であり、黒龍が気付くかさえ不明瞭あった。
「然程時は掛かるまい」
しかしアルクラドは、黒龍が来るのに時間はかからないと言う。その言葉に、シャリーは若干の不安を覚えた。
長命なエルフは、1年という時間を少しと言ってしまう程、人間と時間の感覚が異なる。そんなエルフよりも更に永きを生きる吸血鬼の少しは、エルフ以上に信用ならない。
数日の内に来てくれれば、まだいい方だろう。そんなことを考えるシャリーであるが、それは要らぬ心配だった。
数刻を待たぬ内に、空から途轍もない力の気配がやってきたのである。獣人達は力の方へ視線を向け、力が近づくにつれ、再び頭を垂れていく。
そうして少しもしない内に、火を吹く山の上空を強大な力が覆い尽くした。
「我はここである」
雲の割れ目の、更なる高みに見えた、小鳥の様に小さな影。それに向けて、アルクラドは小さく呼びかけるのであった。
空を覆う雲が割れ、その裂け目から途轍もなく強大な力が降り注いでいる。
その裂け目の中心で、小さな黒い影が翼を広げている。その影が段々と大きくなっていく。小鳥の様に小さなそれは、見る見る内に大きくなり、最後には空を覆い尽くす漆黒の影となった。
この場にいる者の眼から、雲の切れ間を隠す程の巨体。艶やかな黒き鱗に包まれた、しなやかな身体。禍々しくねじくれた2本の太い角、ズラリと並ぶ鋭い牙。大きな翼をバサリと広げ、音も無く地面に降り立った。翼を優雅に折りたたみ、長い尾を大地に横たえ、荒れた大地を睥睨する。
「アルクラド様。御呼ビヲ聞キ付ケ、罷リ越シマシタ」
そう言って巨大な漆黒の古代龍は、アルクラドに頭を垂れた。
「シテ……愚カナ我ガ同胞ハ何処ニ……?」
垂れた頭を空へ向け、黒龍は視線を彷徨わせる。アルクラドに牙を剥く龍が現れた時には自分を呼んで欲しい。かつての邂逅でそうアルクラドに願った黒龍は、アルクラドと龍が戦っているのだと考えていた。しかしその龍の姿が見当たらない。その気配すらも感じられなかった。
「龍よ。其方を喚んだのは、この者達が其方に会いたいと言った故である」
他の龍の姿が見当たらないことを不思議に思う黒龍にアルクラドは言う。黒龍はアルクラドの指し示す先に視線を向け、そこにいた竜人族達は一斉に膝を付き、頭を垂れた。
「此ノ、小サキ者共ハ……?」
人が龍を呼びつけるなど何たる不遜か、と思う黒龍だが、アルクラドの手前その感情を表に出すことはなかった。そしてそう思うと同時に、僅かな、本当に小さな龍の力を感じ取った。
「其方ら龍を祖とする、竜人族の一族である」
「お初にお目にかかります、偉大なる黒龍様。私は獣人の国の王を務めるヴィクトルと申します。その御姿を拝しましたこと、幸甚の至りでござます」
アルクラドがヴィクトル達を紹介すると、ヴィクトルは膝を付き視線を下げたまま、黒龍への挨拶を述べる。高くにある黒龍の耳に届く様に大きく張り上げた声は、恐怖と緊張の為に震えていた。
「貴様ガ我ヲ呼ンダカ、龍ノ力ヲ継グ竜人族トヤラヨ」
「誠に不遜ながら拝謁賜りたく、アルクラド殿にお頼みした次第でございます」
平伏したまま応えるヴィクトル。その言葉に黒龍の目つきが鋭くなる。
「アルクラド様ニ、其ノ様ナ雑事ヲ頼ンダト言ウカ……!?」
人が龍を呼びつけるだけでも不遜だと言うのに、剰え龍よりも上位である吸血鬼の始祖に人如きが頼み事をするなど、黒龍には考えられないことだった。どこまでも不遜で愚かな小さき者、と黒龍は怒りが湧いてくるのを感じた。それが知らずの内に龍の威として身体から漏れ、アルクラドを除く皆が恐怖に震え出した。
「龍よ。無用に喚ばれ腹を立てる気持ちは分かるが、そう怒るな。食事と酒を用意した故、存分に食すと良い」
「然シッ……!」
その怒りをアルクラドが鎮める様に言うが、黒龍は承服できなかった。人に殿呼ばわりされるのを許していいのか、雑用に使われることを許していいのか。黒龍は、そうアルクラドに問おうとして、しかし口をつぐんだ。
アルクラドに口答えをするなど許されない。ましてアルクラドが良しとして行ったことに異を唱えることこそ不遜でしかない。黒龍はその怒りを鎮めた。
「……承知致シマシタ」
そう言って黒龍はアルクラドの指す、食事と酒に目を向ける。森の獣の丸焼きに果実、酒の入った樽が置かれており、それらにそっと手を伸ばす。
大きな鋭い爪を器用に使い、丸焼きをつまんで口の中に放り込んでいく。獣人達が捕らえた獣は比較的大きなものだったが、龍からすれば余りにも小さい。人が豆を食べる様に次々と丸焼きを口に放り込み、果物は台座ごと持ち上げ口に流し込む。酒樽も壊さない様に持ち上げ穴を開け、雫を舐める様に樽を乾していく。あっという間に、数日間の宴でもなくならない量の食べ物が、黒龍の腹に納まったのである。
「黒龍様、お伺いしたいことがございます」
捧げた供物を黒龍が納めたところで、ヴィクトルが口を開く。黒龍に会いたいと言ったのは、その姿をただ見る為だけではない。聞きたいことがあったからだ。龍の怒りが収まり何とか話せる様になったヴィクトルは、いまだ声を震わせながら尋ねる。
「……何ダ?」
「黒龍様は何故、アルクラド殿に鱗をお与えになったのですか?」
アルクラドが強大な力を持っていることは、黒龍召喚の際に嫌というほどに理解した。黒龍が鱗を分け与えたの要因の1つが強さなのは間違いないだろうが、他にも何かあるではないか。そうヴィクトルは考えたのである。
「我ラ龍ガ鱗ヲ他者ニ与エル等、有リ得ヌ事。其レヲ覆スハ、アルクラド様ガ求メラレタ故ダ。其レ以外ニ何モ無イ」
勝手に落ちた鱗を除いて、龍が自ら鱗を与えることはない。もしあるとすればそれは死んだ時であり、龍よりも強い者しか鱗を得ることはできない。黒龍も、圧倒的強者であるアルクラドでなければ、鱗を分け与えるなど決してしなかった。
「何故そこまでアルクラド殿を認められているのですか?」
「強サダ。龍ヲ従エルノハ、強サ只其レダケダ」
龍の常を覆すほどに、黒龍がアルクラドを認めている。そう感じたヴィクトルの問いに対する黒龍の答えは、ひどく単純で、また信じられないものだった。
龍を従えるほどの強さ。それはつまり龍よりも強いということで、人の身で古代龍の力を越えるなど、有り得ることではない。
「そんなまさか! 古代龍であらせられる貴方様より、アルクラド殿は強いというのですか!?」
「然リ」
驚きを隠せないヴィクトルに対し、黒龍はさも当然の様に答える。その様子が、更にヴィクトルや他の獣人達を驚かせることになった。
「……あと1つ。黒龍様は龍の神子をご存じでしょうか? 遥か昔、龍の力を得たと言われる人でございます」
アルクラドの強さについて気になるところではあるが、ヴィクトルは自身が一番知りたかったことを黒龍に尋ねる。自らの一族の起こりに関する伝説のことである。
「龍ノ神子……其ノ様ナ名ハ知ラヌガ、我ラノ力ヲ得タ小サキ者ガ居ルト聞イタ事ガ有ル。何時ノ事カ、覚エテハオラヌガ」
ヴィクトルの問いに、黒龍はその長い生を振り返る。アルクラドに敗れる前か後か、幼龍のころか古代龍に至った後か、龍の力を得た者の話を聞いたことがあった。ただ詳しくは知らず、ことの真偽も知らなかった。
「……そうでございますか。ありがとうございます」
しかしヴィクトルにはそれで充分だった。伝説が真実である確証は得られなかった。しかし古代龍が噂であっても、龍の神子を知っていたのである。また黒龍はヴィクトルに向かい、龍の力を継ぐ、と言った。それはつまり竜人族の中に龍の力があり、神子の血を受け継ぐ確かな証左だった。
「龍よ、ご苦労であった。もう帰って良いぞ」
ヴィクトルが満足そうに頭を下げたのを見たアルクラドは、黒龍にそう告げる。何でもない用事で呼びつけて長居はしたくないだろう、というアルクラドなりの黒龍への気遣いであった。しかし傍からは雑用に対する物言いに聞こえ、ヴィクトル達の目には、その様子が黒龍をひどくぞんざいに扱っている様に映った。
「デハ私ハ行キマス。何カ御用ガ有レバ、何時デモ御呼ビ下サイ」
アルクラドの言葉に頷く黒龍。本当はこの様な些事で呼び出されたくはなかったが、アルクラドにそんなことを言う勇気を黒龍は持ち合わせていなかった。悲しげな様子で別れを告げ、黒龍はゆっくりと翼を広げる。
空が再び、漆黒の影に覆われた。大きな翼をはばたかせ、龍が空へと舞い昇ろうとした、その瞬間。
大地を揺るがす轟音が響き渡った。
世界から音が失せるほどの衝撃が襲い、皆が身を竦ませた。
轟音は火を吹く山から。
皆がそちらに目を向ければ、空に向けて黒煙が立ち昇り、真っ赤に輝く何かが、山肌を勢いよく流れているのだった。
お読みいただきありがとうございます。
唐突に怒りを爆発させた火を吹く山、その原因は次話で明らかになります。
1話出ただけで退場っぽい黒龍さんですが、もう少し出番があります。
次回もよろしくお願いします。