開戦の狼煙
夜が明け、東の空に日が昇ったばかりの空の下、迫りくる魔物を迎え撃つドール軍の先頭に、2人の男女が立っていた。
1人は、白くなった髪を腰まで伸ばした、穏やかで優しげな表情の初老の女性。普段、立場上豪華な恰好をする必要のある彼女も、今日ばかりは飾り気のない亜麻色のローブに身を包んでいる。しかしその質素な外観とは裏腹に、彼女の身を包む衣服からは強い魔力が感じられた。同じく強い魔力を放つ、赤い宝珠を戴く長い杖を持ち、日の照らす先をじっと見つめている。王国ギルド長のエピスである。
もう1人は、やや長い煌めく金髪をなびかせた若い青年。整った顔だちに浮かべられた女性を虜にする甘い表情も今は鳴りを潜め、鋭い顔つきで地平の果てを睨んでいる。幾つもの傷が付いた飾り気のない鎧は鈍く輝き、しかし手にする剣だけは曇りなく、冷たい光を放っていた。王国騎士団長のヴァイスである。
ドール防衛軍が王都を発ってから4日目の朝、彼らは地平の彼方に大地に蠢く黒い影を目にしていた。半刻は離れているであろう場所からでも見えるその様子に、彼らは改めて万を超える数がいかに大きいのかを実感した。
王都に敵を通さない為、広く展開している2000余名の兵士や冒険者達。その先で、強敵と戦う戦士と魔法使い達50名ずつが陣を組み、その更に先でエピスとヴァイスを含めた数名の戦士達が魔物達を待ち構えていた。まだ魔物との開戦まで時間はあったが、一部の者を除いて、その顔には大小はあれど緊張の色が見られた
「ヴァイス殿。貴方は今、おいくつですか?」
そんな中、エピスが場違いな質問をヴァイスに投げかけた。
「私ですか……今年で25になりましたが……?」
予想もしていなかった問いに、ヴァイスは戸惑いながらも答える。今から始まる大戦を前にして、一体何の関係があってこんな質問をするのか、と。
「そうですか。ヴェルデさんも同じ年の頃でしたね?」
今度は、近くに控える傍仕えのヴェルデに、同じような質問を投げかける。
「はい、そうですが……」
去る秋の頃、怒れるエピスに殴り倒されたヴェルデであるが、敬愛するギルド長の問いに彼も戸惑いながら応える。
「貴方達は若くしてそれほどの力を身に着けたにもかかわらず、礼節を重んじる素晴らしい人です。力をつければ増長する者が多い中で、貴方達の様な若者はとても好ましく私は思っています」
2人に語り掛けながら、エピスは何かを懐かしむ様に遠くを見つめている。その様子を2人と共に、アルクラドとシャリーも静かに見ていた。魔物の大軍に先陣を切る強者の中にあって、特に秀でた力を持つ者として、エピス、ヴァイス、アルクラド、シャリーがその先頭に立っているのである。
エピスの傍仕えであるヴェルデも強者の部類ではあるものの、アルクラド達に並び立つほどではなかった。しかしエピスの護衛が1人もいないのは問題だ、と何とかエピスを説得しこの場に居るのである。
ちなみにアルクラドのかつての仲間であるライカとロザリーや、その2人と一緒に依頼を受けているマーシル達は、先陣の100名に入るほどの実力はまだなく、悔しいながらも後方で魔物の到来を待っていた。
「貴方達は、暴虐の魔女と呼ばれた冒険者のことを知っていますか?」
遠くを見つめたまま、エピスは続けて問う。ヴァイスとヴェルデは、その冒険者のことを知っているのか、または知らないのか、答えに窮している。
「幸運にも幼い頃より魔法の才に恵まれた私は、成長するにつれて魔法の力も伸ばしていきました。成人を迎える頃には大人でも私に敵う者は少なく、まだ成長の止まらぬ私は20の頃には王国一の魔法使いと呼ばれるようになっていました」
2人が答えずにいるのも構わず、エピスは語りを続ける。
「私は増長の絶頂だったのでしょう。気に入らぬものは身に着けたこの魔法の力で押さえつけ、自分の思った通りに物事を進めてきました。幸か不幸か、当時の私を止められる者はなく、気づけば不名誉な名で呼ばれ、恐れられていました」
「今のお姿からは、とても想像ができません」
エピスの独白に、言葉を選びながらヴァイスが応える。
「いつだったか、これでは駄目だと気付いたのです。この国の為に、と陛下が迎え入れてくれたこともありましたが、この力に見合った人物になろうと決心したのです」
暴虐の魔女の名を知らなかった2人は、未だに何故エピスがこの話をしているのかが分からずにいた。
「さて、私がこんな話をしている理由ですが」
2人の考えを読んだかのようにエピスが言う。
「当時の私は全く愚かしい者でしたが、貴方達と同じ年の頃がまさしく全盛期でした。魔法は己の意思を乗せて撃つものなれば、敵を殺すという意思を最も強く持っていたあの頃に戻り、力を存分に発揮しよう。そう考えているのです」
魔法に限らず、敵を討つという意思は、戦いにおいてとても重要である。実力が同じ者同士であれば、心優しい者よりも血気盛んな者の方が強いのは明白である。それ故、エピスが若かりし頃の気持ちを思い出そうとするのも不思議ではない。しかしやはり、エピスがわざわざ昔の話をしたのかは分からない。
「昔の様に振る舞う私を見ても驚かないでくださいね。簡単に言うと、そういうことです」
エピスの昔語りの理由が分からずに困惑していた2人であるが、今度は別の意味で困惑する。戦いを前にして語られる言葉に、何か深い意味があるのではと考えていた2人。まさかそれが、驚くなと言う為だけのものだったとは思いもしなかったのだ。
加えて言えば、ヴェルデは豹変したエピスの様子を1度だけ見たことがあった。いつも温厚な彼女が荒れ狂う姿には驚きはしたが、あれ以上の驚きはないだろう、と彼は思っていた。
「さて、それでは戦いの最後の準備に入りましょう。ヴェルデさん、笛を」
「はっ」
遠くへやっていた視線を元に戻し、エピスはヴァイス達に向き直る。彼女の指示に従い、ヴェルデが笛を大きく吹き鳴らす。彼らの立つ場所は、後方の戦士達より1000歩は離れたところであり、声が届く距離ではなかった。ヴェルデの笛の音は、間もなく戦いが始まる、という合図であり、後方の戦士達は不備が無いかを確認するとともに、戦いに臨む為に気持ちを昂らせていった。
「アルクラド殿。申し訳ありませんが、ここに壇を造っていただけませんか。私の背丈の倍ほどの高さがあると助かります」
「うむ」
ヴェルデの次にアルクラドを向き、エピスは自分の姿が後方からもよく見えるように、高い台を作ってもらうようにお願いした。アルクラドは大地に目を向け、エピスの望む壇とそれに続く階段を造り出した。
彼女が一番槍を務める理由は、強力な魔法で敵に大打撃を与える為であるが、それ以外にも仲間の士気を高める目的もある。龍殺しの英雄たる彼女は、半ば伝説的な存在であり、そんな彼女と共に戦えることはある種の名誉でもある。それに加え、王国屈指の魔法使いが放つ大規模な魔法を見れば、戦士達に自分達の勝利を確信させることができる。その為にも、自分が魔法を放つ様を見せる必要がある、とエピスは考えているのである。
「さて、参りましょうか……」
そう静かに呟き、エピスは壇上へと続く階段を、ゆっくりと登っていくのであった。
まだ薄暗い朝の空の下、エピスは土の壇の上に立ち、ゆっくりと深い呼吸を繰り返していた。
閉じたその瞼の裏に描くのは、かつて退治した強大な龍。思い起こすのはそれと対峙した時の恐怖心。そしてそれを上回る圧倒的強者へ立ち向かう高揚感。
準備万端だという後方からの笛の音を遠くに聞きながら、エピスは静かに魔力を巡らせていく。この一撃でより多くの敵を倒さねばならない。仲間の士気を高める様な魔法を放たなければならない。そんな思いと同時に、無様な姿を晒してはいけない、と思いながら。
エピスはちらとアルクラドを見やる。
エピスの魔力の高まりを感じ、近くにいる者達はシャリーを含め、顔を引き締めている。中には圧倒された様な表情をしている者もいる。その中にあって、アルクラドは全くの無感動な様子であった。驚くことも感じ入ることもないその様子は、エピスの魔力がアルクラドにとって取るに足らないものである証左であった。
そんなアルクラドの様子を見て、エピスは悔しさを感じることはない。アルクラドとの格の違いを彼女はよく理解しており、比べることすらおこがましいということも分かっている。しかしここにいる者達のほとんどは、その差を理解していない。エピスはアルクラドに手加減をしてほしいと言ったが、その手加減した魔法であってもエピスのものを遥かに凌駕するかも知れない。
自国の英雄が、名も知られていない冒険者よりも圧倒的に劣っている。そんなことを、この場にいる者達に思わせるわけにはいかなかった。
それは自分の誇りの為ではなく、ここにいる者達の為。自分を尊敬している、と言ってくれる者達の為。その為にも、アルクラドに勝る魔法を撃つことは叶わずとも、少しでも近づけなければならない。そんな思いがエピスの胸にあったのだ。
目を開け、迫りくる敵を見据える。敵の足は予想外に速く、到着までに四半刻を切ったという所であったが、まだまだ遠い距離であった。しかしそれでいい、とエピスは思う。余り近いと味方にも被害が出てしまうかも知れないから、と、
エピスは今一度深く息を吐き、頭上に掲げた杖を目の前に突き立てる。そして更に魔力を高めていく。
敵の数は甚大。けれど多くは取るに足らない相手。
狙うは敵の将、あるいは中核となる存在。
どこにいる。だが視認するには遠すぎる。
関係ない。雑魚ごと纏めて灼けば良い。
「はっ……! ごちゃごちゃ考えても始まらないね」
悪態を吐く様に零れたエピスの呟き。唇を吊り上げ歯を剥くその様子に、ヴァイスは驚きヴェルデは苦い顔をする。
「死にたくない奴は下がってな! 巻き込まれても知らないよ!」
エピスの周囲が、燃え上がる炎の様な魔力で満たされる。彼女の髪やローブがバサバサとはためき、その姿が陽炎越しの様に揺らめいている。僅かに朱色に染まった薄絹の向こうで、魔女が詠う。
「始まりと終わりを目する者よ……夜を払う朱き光、立ち昇る紅蓮のうねり、温もりと滅びの運び手よ……其は征く途に屍重ね、血肉を喰らい肥え太る……地を嘗め灰燼撒き散らし、巡る命を噛み砕く……其の身悉く果てる迄、飽食の限りを尽くせ…… そらっ餌だ、貪り喰えっ! ……悪食の朱き顎ァッ!!」
エピスが朱き宝珠の輝く杖を再び天に掲げ、そして勢いよく振り下ろした。それに合わせ、彼女の頭上で渦巻いていた猛る灼熱の光が、激流となって魔物の大軍へと飛び出した。
形の定まらぬ朱き奔流は、しかし鋭い牙を持つ獣の顎を模り、黒き巨獣へと喰らいついた。
朝焼けを眺める西の空が、夕焼け空の如く茜色に染められた。
ドール軍と魔物の大軍の戦いが、今始まったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
久々の魔法詠唱……様になっていればいいのですが。
エピスさんの本気魔法、その効果は後程。
次回もよろしくお願いします。