ドール王国、再び
まったく酷い目に遭った。
ドールへ向けてラテリアを発ってから、2度目の夜明け。朝日が昇ろうとする空を見ながら、シャリーはそんなことを考えていた。まさか冗談のつもりで言ったことが、現実になるとは思っていなかったのだ。
しかしアルクラドなのだから、それくらいできてもおかしくはない、とシャリーは改めて思う。その考えに思い至らなかったのは、人は地を往くものとの思い込みのせいであったのだろう、とも。
ラテリアを出発してから1日強の時間、シャリーは一睡もすることができなかった。状況としてはアルクラドに抱えられており、普段であれば別の意味で眠れないが、眠ること自体は可能な状況だった。自分の足で歩いているわけではなく、馬車に揺られている様なものなのだから。
しかしそれ以外の要素が、シャリーに安らかな睡眠を許しはしなかった。
とにかく風が強かった。平地ではついぞ感じたことのない強烈な風がシャリーの顔を叩き、冷たさを増した冬の風が彼女の体温を容赦なく奪っていく。
そして強い風の為か、それとも別の要因の為か、とても息苦しかった。息を吸っても息を吸っても、息苦しさが収まらない。身体を動かさず、深い呼吸を繰り返しているにも関わらず、激しく身体を動かした後の様に身体が常に空気を求めていた。
そして最後に、これが一番の要因であろうが、アルクラドとシャリーのいる場所。
雲が頭の上にある。手を伸ばせば届くほど近くに。
鳥が横にいる。目いっぱい羽を広げ、気持ちよさそうにどこかへ向かっている。
眼下に広がる広い平野と雄大な山々。
地上から遥か離れた空の上を、アルクラドとシャリーは飛んでいたのだ。
アルクラドはシャリーを抱きかかえているわけではない。脇の下に手を入れただけで、シャリーは宙ぶらりんの不安定な状態である。
強い風に体温を奪われるだけでなく、フラフラと身体が揺れる状況の為に、シャリーは寒さと恐怖でガタガタと震えていた。こんな状況で眠ることができるのは、よほど肝の据わった人物であり、少なくともシャリーはそうではなかった。
しかしそれももう終わり。もう真下にドール王国の王都が見えているのだから。
「生きてて良かった……」
途中何度も死を感じたシャリーは、自らの生存を喜び、深いため息を吐くのであった。
だがしかし、生きて王都ドールの上空へ辿り着くことができたシャリーに、最後の恐怖が襲いかかった。
「降りるぞ、シャリーよ」
王都を守る壁の門の前に広がる平地の真上に来た時、アルクラドが言った。
アルクラドは、自身の何倍もの大きさに広げた羽の様な黒衣に、風の魔法を当てて空を飛んでいた。黒衣は風にはためくことなく、その形を保ち2人を空へ浮かべていた。
アルクラドが降りると言った瞬間、黒き羽はただの布となった。閉じた蕾の様に細く形を変えた黒衣は、朝焼けの空にぼんやりと浮かび、徐々に縮みその姿を消していく。
フワリッ……
腸が浮き上がる様な、途轍もない不快感を覚えた。
のも束の間。
先程まで前方から吹き付けていた風が、下から吹き上がっていた。否、アルクラド達が、落下しているのである。
「っ!!!???」
手に収まる様な小ささに見えた王都が、みるみる内に大きくなっていく。余りの風の強さに、息をするのも目を開けているのも辛い程だったが、それでも目を閉じることができなかった。もの凄い速度で、大地が迫ってくる。
「っぃあぁああぁぁぁあぁぁぁぁ!!!!!!」
シャリーの魂の叫びは、風に流され消えゆくのだった。
アルクラド達が王都の前に降りたってから半刻もしない内に、開門となった。
それまでの間、シャリーは雪に濡れるのも構わず、地面に座り込んでいた。不安定な宙ぶらりんのまま一日中空を行き、遙か上空から落下するという、彼女の人生において2度とは経験しないであろう出来事に、足の震えが止まらないからである。
落下の勢いを感じさせない軽やかな着地を見せたアルクラドは、何故うずくまっているのか分からないといった様子でシャリーを見下ろしていた。その心底不思議そうな表情が、この時ばかりは、この上なく憎たらしいものに感じられた。
「往くぞ、シャリー」
「……はい」
本当はまだ膝が笑っているシャリーであるが、意地でも待ってくれとは言わなかった。言えば待ってくれたかも知れない。けれどまた不思議そうに首を傾げるのは目に見えており、そんな目で見られるのは何だか癪だったのである。
震える膝を何とか抑え、シャリーはアルクラドの後を追っていく。アルクラドの歩く速度はいつもと変わらないが、今日はそれがやたらと速く感じられた。
門に着けばやや寝惚け眼の門番が2人を迎えた。2人が近づくにつれて、彼の目付きが食い入る様なものに変わっていく。その様子を見て、空から降ってくるところを見られたのか、とシャリーは思ったがそうではなかったようだった。
「あの、もしかして、アルクラド殿ですか……?」
門番は恐る恐るといった様子でそう尋ねた。
「うむ。我はアルクラドである」
「やはりっ! お待ちしていました、どうぞ中へ!」
どうやらギルド長からの通達が門番にまで行き届いている様で、2人の出で立ちを見てアルクラドだと分かったのであった。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、ギルドの方へお願いします」
アルクラド達を見かけたら、ギルドへ向かうように、と伝言を命じられていたのだ。アルクラド達は元よりそのつもりであり、彼に頷きを返し門をくぐっていった。
大通りを真っすぐ進み、別の大通りと交差するところで左に曲がる。
かつては王都の余りの広さに半信半疑で通った道であるが、今は不安に思うことなく2人は歩を進めている。
夜が明けたばかりの町は人通りが少なく、しかし冒険者や兵士など、戦いを生業とする者達の姿が多く見受けられた。魔物の襲撃が近いからだろうかとシャリーは思ったが、そう考えると町の様子もどこか物々しく感じられた。
そうして1刻ほど歩いた後、王都のギルドへと到着した。
中に入ると、そこにいた冒険者達の視線が一斉に向く。いつものことであり、しばらくすれば視線も散るのだが、今日は一向にその気配がなかった。仲間内で何かコソコソとしゃべりながら、窺う様な視線を絶えず向けている。
「あれが、ギルド長が探してる冒険者か?」
「中級が前線に参加って、なんの冗談だよ……」
「隙だらけじゃないか……」
当人達は囁く様に話しているつもりだが、アルクラドの耳にはしっかりとその声が届いていた。どうやら冒険者の間にもアルクラド達のことが知らされており、ギルド長が探す冒険者に興味が湧いていたようだった。そんな冒険者達の様子を気にかけることもなく、アルクラドは受付へと向かう。
「我はアルクラド。報せを受けて来た。エピスは何処だ?」
ギルド内がざわめいた。龍殺しの英雄にして王国ギルドの長であるエピス=トラミネルを呼び捨てにするなど、一体何様のつもりなのだ、と。階級があがるにつれて、龍殺しという偉業がどれほど凄いものかを理解する為、上級冒険者の中でも上位の者達はエピスに畏敬の念を抱いているのである。しかし実力が伴わないうちは強がりたくなるものだ、と自らを納得させ、アルクラドを咎めることはしなかった。
受付のギルド員も驚いたものの、すぐにアルクラドが件の冒険者であると分かった為か、ギルドの奥に消えていった。そして少しもしない内に、慌ただしく駆けてくる音が聞こえてきた。
「アルクラド殿っ! 来ていただけたのですね、よかった……」
ギルドの奥からやってきたのは、老境に差し掛かった年嵩の女性、王国ギルド長のエピスであった。夜が明けたばかりの時間であり、休んでいたのかいつもの豪華な衣装ではなく、簡素な衣服の上にゆったりとしたローブを羽織っているだけであった。アルクラドの来訪を聞き急いで来たのか、僅かに息が上がっている。
「うむ。其方の報せを受け来た」
「こんなに早く来ていただけるとは思いませんでした、ありがとうございます。シャリーさんもお久しぶりですね」
「お久しぶりです、エピスさん」
とても気安い様子で話す3人の姿に、ギルド内の者達は驚きを隠せなかった。ギルド長であるエピスが気安く優しげに話すのはいつものことであるが、その相手側に一切緊張が見られない。加えて銀髪の男がギルド長を其方呼ばわりしているのだから、それに気を悪くした者達も少なからずいた。
「随分早かったですけれど、まだドール国内に……」
「おい、お前……ギルド長に何て口の利き方してるんだ?」
アルクラドの早い到着の訳を尋ねようとしたエピスの言葉を遮って、1組のパーティーがアルクラド達の傍にやってきた。アルクラドの態度に我慢できなくなった上級冒険者のパーティーであり、ひと目で怒っていると分かる様子であった。
「中級で前線への参加が認められたからって、調子づいてるんじゃないだろうな?」
「本当にその実力があるのか?」
男3人、女2人のパーティーのうち、男達がアルクラドに詰め寄っている。何かを口々に言っているが纏めると、大した実力も無いのに偉そうな態度を取るな、ということであった。
「貴方達、構いません。この方は……」
「力を示せと言う事か?」
慌てて冒険者達をなだめるようとするエピスだが、その言葉を遮り、アルクラドが彼らに問う。毎度毎度、力を見抜けない者達に力を疑われるのは面倒であるが、言葉で以て伝えても埒が明かないことは分かっている。そしてここ最近、その煩わしさを解消する方法があることも学んでいた。
「アルクラド様……魔力を解放するつもりですか?」
冒険者達に問うたアルクラドが何をするつもりなのか、シャリーがいち早く気付いた。何せその方法を教えたのは彼女のなのだから。そして魔力解放というシャリーの言葉に、エピスが激しく反応する。
「ア、アルクラド殿っ!? それは止めてください、お願いしますから! ねっ?」
アルクラドがどの程度、魔力を解放するのか、エピスには分からない。しかしとんでもないことが起こるのは目に見えていた。王都の中には戦いを生業とする者達だけでなく、戦う力を持たない只の市民も大勢いるのだ。アルクラドが膨大な魔力を解放してしまえば、大勢の人達がそれに当てられ大惨事となってしまう。だからエピスは必死に止める。外聞など気にせず、とにかくアルクラドが魔力を解放しないようにお願いする。
そんなエピスの様子に驚いたのは、アルクラドに詰め寄っていた冒険者達である。敬意を抱く王国ギルド長が、一介の冒険者に懇願する姿は余りに異様だったのだ。
「貴方達、下がってください。この方は私を侮っているわけでも調子づいているわけでもありません。私のことは気にしなくて構いませんから、下がってください」
エピスは彼らに向かって、穏やかだが有無を言わせぬ様子で、この場から去るように言う。礼儀を重んじる彼らを好ましく思うし、自分のことを考えての言葉だということも嬉しく思う。しかし今はそんなことはどうでもよかった。さっさとどっか行け、との意思を込めて、3人の冒険者達に微笑みを向ける。
「しかし……」
だが、ある意味予想通りであるが、彼らは引かなかった。実力もなく偉ぶっている奴は、1度その鼻柱を折ってやらないと、後々に本人も困ることになる。彼らはそんな思いだった。
笑みを張り付けたままのエピスが、目を見開く。
「実力どうこう言う貴方達であればこそ、実力を重んじるのでしょう?」
優しげな笑みでありながら、言い知れぬ威圧感をエピスから感じ、3人は後ずさる。
「これが最後です。下がってください」
エピスの瞳が収縮する。ローブから垂れた長い白髪がユラユラと揺れている。ニッコリとした笑顔とは裏腹に、アルクラドが変な気を起こさないかどうか、エピスもいっぱいいっぱいだったのだ。
「っ失礼します!」
男達は、ビクリと身体を強張らせ、冷や汗を浮かべながら仲間の下へ戻っていった。
男達が下がったことで、アルクラドが魔力を解放するのを止めさせることができた。同時に暴虐の魔女が再来することもなかった。
この2つの惨事を避けることができ、エピスはホッと安堵の息を漏らすのであった。
お読みいただきありがとうございます。
皆さまお待たせしました、エピスさんの再登場です。
今章は、彼女が活躍する予定ですので、楽しんでいただければと思います。
次回もよろしくお願いします。