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狂気

作者: くりみかん

あるところにとても仲の良い夫婦が住んでいた。

妻は数年前から大病を患っていて完治は難しいとされていた。そんな妻のことを心から愛していた夫は彼女の介護をするために進んで仕事を辞めた。

 その日からは苦労の連続だった。彼女の力ない体を支えるのには普段以上の力を要したし、だんだん体の動かなくなっていく妻に何もしてやれないのが悔しくてたまらなかった。

「あなたは働きすぎね、もう少し休んだほうがいいわ」

ベッドの上で妻は上体を起こして夫を見つめている。その透き通った瞳には呆れと心配が入り混じっていた。

「病人に指図を受ける筋合いはないな、おれは好きでやっているんだ」

「私の事をだけ考えてくれるのもうれしいけど、それであなたが体を壊したら私が悲しいわ」

「……」

返事に窮する。

確かに彼女の言う通り、最近よく眠れておらず目の下には不健康を絵にかいたようなクマができていた。妻にだけは自分の弱いところだけは晒すまいとしていたのが彼女を余計に心配させたらしい。

「君は自分の状態が分かってないからそう」

「いいからちょっとこっち」

彼女は柔らかな笑顔を湛えて手招きしている。どうやら彼の反論に耳を貸す気は毛頭ないようだ。

彼はその手招きを不審に思いつつも、枕元に備え付けてある椅子に腰かける。

「目をつぶってください」

人差し指を立てて目をつぶりながらこうするのだと実演してきた。その自信に満ちた表情はどこからくるのかさっぱりわからない。

「何をたくらんでいるんだ」

心の底から思ったことを率直に伝える。どう考えても怪しすぎるだろう。

「もう早くしてよね!時間ないんだから」

彼女は基本的にベッドの上で生活をしている。正直言って彼女には時間が有り余っている。しかし、そういう意味の「時間がない」でなかったとしたら。

「不吉な事を言わないでくれ」

眉をひそめて彼女をねめつけた。

だが、彼女がわがままを言い、彼が折れるのは日常だ。

おとなしく目を閉じるに越したことはない。渋々、目を瞑る。

人に何かされると分かっていて目を閉じることほど怖いことはそうそうない。

拳を固く握り、次なる行動に怯えていると耳元で

「目、開けちゃだめよ?」

次の瞬間にはもうベッドに倒れこんでいた。

ゆっくりと背中に手をまわされ布団の上に引き込まれたようだ。

彼女の体温が布団越しにも伝わってくる。温かくて体全体の緊張がほぐれていくのを感じた。

すると彼女はいたずらっぽく笑って

「それでもやっぱり働きすぎです」

彼の頭を子どもをあやすようになでおろした。

今度こそ本当に抵抗できそうもない沈黙を押し付けられて、そのままあとはなされるがままだ。

彼女のぬくもりはとても心地よくて、甘い眠気が寄り添ってくると目を開こうとする気力も湧いてこない。

「このままずっとこうしてたいな」

その呟きは彼女がささやいたものなのか、それとも自分の口から零れ落ちたものなのかはもうどうでもいい。

ただこの温みに包まれていたい。たったそれだけの願い。

そのままベッドに半身を起こしている彼女の上に覆いかぶさる形で眠ってしまった。

体の不自由な人間を一人の人間の力で支え続けるのに肉体的にも精神的にも負担がかかることは覚悟の上だ。ただ、たまに気が滅入ってしまうことある、しかし彼はそれでも満足していた。

愛する妻とこうして二人きりで過ごしていけるのならそれでよかった。


 

 

そんなある日、妻が死んだ。

 病魔は彼女の体をゆっくりとむしばんでいった。そういう意味では安定的な病状と言えた。

だが、最後の三日間で急に体調が悪化していき、あっという間に死んだ。

 顔も声も急激にしわ枯れていったが、幸せそうな表情で死んでいった。

 「ごめんなさい、ありがとう」

それが妻の最後の言葉だった。感謝の言葉を言われる筋合いはないが、謝罪の言葉を受け取る道理はもっとない。

結局なにもできなかった自分へのいら立ちと妻を失った喪失感は彼を容赦なく責め立てる。

彼女の世話がいくら続いたっていい。どれだけ自分が苦労したって彼女があの日みたいに笑ってくれるならそれでよかった。

固く閉じられたまぶたは彼女の透き通った栗色の瞳を再び見ることを許さない。

ねむっているみたいだ。

声をかければゆっくりと起き上がってきそうだが、口はきつく引き結ばれていて言葉が出ない。

死の実感が近づいてくる。

彼女に呼びかけるための言葉の代わりに

「おれはどうしたらいいんだよ」

ずっと見ないようにしていた自分への言葉が不意に口からこぼれた。

視界がじわじわと滲んでいく。一度堰を切った不安はその流れを止めない。嗚咽に喉をつまらせて肩を抱いても震えがおさまらない。むしろその勢いを増していく。急に立ち眩みがしてその場にへたり込む。汗が噴き出て止まらない。

妻に縋るようにその手を握った瞬間、全てを理解した。

あまりにつめたすぎるのだ。いてつくような温度は彼女のたましいがここにはもう存在しない事を彼に突きつける。

「あぁやっぱりそうか」

この呟きはだれのものかはわからないが、きっと彼のものだったに違いない。

彼女のなきがらと彼のぬけがらだけが寝室に転がっていた。

今日の日が悪い夢であってほしいと心の底から思う。





 誰だって見たくない現実からは目を背けてしまうものだが、いつか必ずその現実と向き合う時がやってくる。

 彼の場合は不思議なマッチと出会うことでつらい現実から目を背けたのだった。


 彼女が死んでひと月がたったころだ。彼はとある闇市に来ていた。

 やけに人が多いが、どこか虚ろな雰囲気の裏路地だ。

いや、虚ろな目に映るものは何でも虚ろに映ってしまうのかもしれない。今すぐにでも帰りたい衝動にかられるも、ただでは帰れない。

 ある情報をつてに彼はマッチを探していた。普通のマッチではない。

 これは自分の望む光景を実際に体感することができる魔法のマッチである。そんなおとぎ話のような信ぴょう性のない話を信じてここに立っているのだ。

 しかし、事の真偽とは関係なしに、今目の前に件のマッチが商品棚に並べられているのを目撃した。

 早速それを引き取り、持ち帰る。

だがその裏面には


――使用にあたっての注意――

一本の使用につき一年の寿命を消費します。


と書いてあったのだ。

こんな副作用のことを購入以前は全く知らなかったが、彼女のいない人生に生きる価値の見いだせずにいる彼にとってはさしたる障害ではない。

彼は今は亡き妻に会いたくてたまらなかった。

カーテンを閉め切ってコップに防火用の水を注ぎ、部屋の明かりを落とした。固唾を飲み下し、朱色の先端部分をざらついた箱側面に擦りつけると、聞き慣れた音が空気中にはじける。

瞬く間に天井一面がプラネタリウムみたいな星空に変わっていき、気がつけば優しい手触りの野原に座っていた。

薄暗がりの静寂に虫のさざめきだけがこだましている。

「やっぱりだ」

夏の夜風が頬をゆっくりとなぞってはまた消える。

見覚えのある、いや、忘れもしない。

煌々と輝きを放つ月と広い夜空に無数に散らばる星々、そして見渡す丘には彼とその隣には

「そんなに驚いた顔をしてどうしたの?まるで死人でも見たみたいね」

あの日のままの妻がいた。

あの時と同じように、いたずらっぽく笑って。



いつの間にか意識を失っていたようだ。

眠りから覚めると手のひらにあった柔らかな感触はどこかへと消え去っていた。しっかりと握っていたはずの手はもうどこにもなく、虚しさだけが漂っている。

ここは妻のいなくなった世界。彼女の残り香を追い求めるように彼はそれから夢中でマッチに灯をともし続けた。

買い物袋を一緒に提げて帰る夕暮れ

内容が全く入ってこなかった映画鑑賞

こたつに向かい合ってする他愛もない会話

どれもかけがえのない思い出だった。妻と過ごした時間全てが宝物だった。


そうして何度目かの覚醒で変化は訪れた。



身体が重たいのだ。上体を起き上がらせるのにも難儀するほどの重さだ。

「一体何がおれの体に起こっているんだ」

不測の事態にたじろぎつつ、自分の身に何が起こったのかを確認するために姿見のある部屋へとふらふらとよろめきながら必死に進んでいく。

大の大人一人は余裕をもって映してしまう鏡の前に立つとそこには見覚えのある老人が立っていた。

とてもくたびれていて、そしてどこか寂し気である。

否、その老人が宿していたのは見覚えではなく面影だった。順当に生きていればいつかはそうなったであろう自分が今、目の前にいるのだ。

注意書きに記されていた寿命の消費とは自分の寿命の総量が減っていくのでなかった。

導火線の火の勢いが増すように、自分の寿命に向かって急激に歳を取っていたのだ。

だが今更その真実が彼にとってどんな影響を及ぼすのだろうか。妻への愛だけで動いてきたこの体だ。これからいくら歳をとっても構わない。そう思う心は決して揺らぐことはなかった。



そんな彼の思いを嘲笑うように雫は落ちる。

防火用に用意していたコップの水がテーブル一面に広がっている。

これは悲劇だ。

残りのマッチは全て水に浸かってしまってダメになってしまった。それはそのまま老いた体で余生を過ごすことを強いられているのと同じことだった。

自分の作り出した虚像を慰み物とした業に対する罰なのだろうか。

彼にはどうすることもできず途方に暮れることしか許されないらしい。



彼女の本棚に触れてみる。今は主を失った本棚ではあるが、彼女が生前、その最後を迎えるまで愛用した品である。確か、彼女が息を引き取る前に読んでいた小説があったはずだ。蔵書の数はそう多くはないのですぐに見つかるだろう。

左の本から右の本へと背表紙を指先で撫ぜていく。

「これだ」

簡単に見つかると思っていたのだが案外時間がかかってしまった。

彼女はこの本を読み終わってから旅立てただろうか。

ぱらぱらとページが軽やかな音を立ててめくられていく。

ちょうど冊子の真ん中のあたりにメモ用紙が挟んであるのが目に入り、取り出した。


あなたへ

お元気ですか。

この手紙を読んでいるころには私はきっともうあなたの隣にはいないと思います。

実はあなたに最後まで伝えられなかったことが一つだけあります。

これを伝えたらあなたにしまうかもしれないと思うと、すこしこわいです。


あなたは魔法のマッチというものを知っていますか?

自分の望んだ夢が実体験を伴って見られるというマッチです。

マッチ売りの少女に出てくるあのマッチにとてもよく似ているわよね。あなたはおとぎ話だって言って笑うかもしれないけれど、このマッチは確かに実在しました。

でも夢を見るにはそれなりの代償が必要だったの。

その代償っていうのが寿命一年だったのだけれど。

私の望みはあなたとずっと一緒にいること。ただそれだけでよかった。でも、もう私には時間があまり残されていないみたいだし、あなたには気づかれないようにしていたけれど、もう目もあまり見えないの。

もうすぐ死ぬっていうのに、あなたの顔もよく見えないんじゃ死んでも死にきれません。

だから、せめて夢の中であなたに会いたかったの。

あなたに無理言って買い物袋の片方の口を持ってもらった時、すごく恥ずかしがっていたわね。話しかけても適当な返事しかくれないし、こっちを見てくれないし。あなたのそういうかわいげのあるところ私はすきよ。

あ、そうそう映画もよく見たわね。あなたはたくさん映画を見たがるくせに感想を聞いてみると、面白かったの一言しか言わないんだもの。ほんとに映画好きなのかしら?

ま、そういうよくわからいところもすき。

結局あなたと何度同じ冬を過ごせたでしょうね。

外は寒いからって、こたつで向かい合って何でもない事ばかりしゃべったのはいい思い出ね。

あなたはミカンばっかり剥いて、それで上手に皮がむけたミカンは自分で食べるんじゃなくて、私にくれるんですもの。どこかの高級レストランで指輪を渡すプロポーズなんかよりも私はこっちのほうが嬉しいわ。

そういうロマンチストなところもすき。


ほんとうにあなたのことがすき。

でももうお別れみたいだから、私もう、行くね


こんな私だけれどずっと一緒にいてくれてありがとう。

あなたがこれからも幸せであることを心から祈っています。


妻より




メモがふやけてぐしゃぐしゃになってしまった。

彼女が唯一遺してくれたものなのに。そう思ったら余計に溢れ出る涙が止まらなくなった。

彼女の事を嫌いになる?そんなわけないじゃないか!こんなにも愛しくて愛しくてたまらないのに、嫌いになんてなれるわけがないだろう。

彼の中で止まっていた時間が動き出す。

このまま泣いてばかりじゃ彼女に合わせる顔がない。


「君が最後に過ごした相手は本当のおれじゃなかった。でも、それでもいい」

彼女が予定より早く旅立ったこと。彼女が隠していたこと。

それらは傍から見れば、裏切りもいいところなのかもしれない。

それでも、それでもいいんだ。



だって君がすきだから


 

 

 人間だれしもが持っている狂気「愛」

 これはそんな狂気の沙汰の物語。

 


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