あ
までうす。
居間に近付くと音を聴いた。歌だ。女性の高音域が切なく朗々と交響楽団を伴奏に響いていた。そろりと居間を覗くと父がソファーに横たわりじっとしている。僕は今三十四歳だが、父がFMラジオ以外を聴いているのを初めて見た。CDプレイヤーに近付く、これが動いていたのを最後に見たのは十年以上前だ。CDケース、プラスチックのを見る。ローマ字だ。
Wolfgang Amadeus Mozart。
鎮魂歌だ。居間に死にそう感が漂い積もり続けている。僕はそっと居間から離れた。外は曇り、雨が降りそうだ。倉庫へ。逃げ出した。
○
腕輪。
一つの水晶の平らな仏と二十四の水晶の玉を連ねた腕輪。
着けるように言われて渡され着けている。次の満月まで。
着けていると影が天女になるのだとか。
天女と聞いて思い出すのはある壁画の天女だ。すごく目付きが鋭くて天女というのはおっかないモノだと見た当時は思ったものだ。それを本で見たのかネットで見たのか。どちらだったか。どちらにせよ、見るものに不埒な考えなど浮かばせぬ見事な眼力が天女と聞くと今でも思い出される。
○
死にたくない。
道場で死にたくないと思った練習があった。回転前受け身の練習だ。腕を胸の前で輪っかにし手のひらを外へ向け、自らのへそを見つつ丸くなり、前へ身を倒せば転がる。背中が床を一撫ですれば、転がった方を向いて片膝立ちになる。何もなければそのまま立ち上がれば出来上がりだ。
これを道場生全員が一人づつ行う。一周すればおまけが一つ追加される。机だ。折り畳みの長机を脚を畳んだまま床に置く。お行儀が悪いがそこに素足で乗ってまた回転前受け身を行う。一枚なら何も変わらないと感じる。それが一枚もう一枚と少しまた少しと追加され高くなる。
普通、転がる時は身体は遠心力で外へ広がろうとする。それを伸びない様に広がらないように小さく丸くしようと心掛ける。しかし一枚もう一枚と追加された高さはいつしかそれを逆転させ、落下の衝撃が身体を押し潰そうとする。それが嫌なら潰されない様に外へ張るように心掛けねばならない。丸まりつつ。
出来るだけ足で跳ばないようにそうっと机の縁から落下し、一瞬の浮遊と硬い床の感触。丸まって顎が胸に押し付けられて潰されるという恐怖を感じながら転がる。膝立ちになる。その時勢いが足の甲を床へ激突させるが、爪先を立てると突き指しそうだから足先は立てずに寝かしていた。床に当たる、当然痛い。
自分の番がとりあえず終わると、次また次と床への落下をやり過ごす皆の様を眺める。生きた心地がしない。次の一周はあるのか。次こそ耐えられなくなるのでは。疑念と恐れが流れる汗をことさら冷たく感じさせる。
あのときは死にたくないと心から思った。
有難い事にその日その時の一回だけの練習でそれっきりその練習はやらなかった。
先生はそういう一回試しにやらせる練習がごく稀にあった。
その練習がごく稀な練習になったのは幸運だったと思う。
積み上げた机の高さは最後にはどれだけだったろう。
手を着かないと上がれない程度だったか。大人のへそまで積み上がっただろうか。もうおぼろげだ。あんなに恐ろしかったのに。忘れてしまうものなのか。二十年以上経てば。




