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キリンのアトリエ  作者: 駄貫 千創
芙実花と友達
4/4

 ある朝、玄関に鍵を掛けてからエレベーターへと歩いていると、階下の道路に男の人が、ぽつん、と立っているのが見えた。

 実は、と隠すほどのことでもないのだけれど。

 私やキリンちゃんが住んでいるこの学生マンションは、女性専用なのだ。

 男性は家族以外立ち入り禁止、そして父兄であっても宿泊は禁止、とかなり厳格なルールも定められていた。

 大学の指定寮とかじゃないんだから、男の人に貸してもいいんじゃないかと思っていたけど、面倒事はなるだけ避けたいという心理は今の私ならばよく分かる。

 男女トラブルは複雑だしね、下手すると退学するような事態にだって発展する可能性もあるわけでして。

 そういう訳で、あそこに立っている人は、十中八九このマンションの住人の誰かに用事があるんだろう。

 しかし、朝っていうのは珍しい。

 もちろん、自分でいうのも気恥ずかしいけど、大学生っていうのは年頃でございまして、お付き合いなるものをしている人たちだって多数いるわけだ。ここに住んでるうちの何割にも彼氏がいるんだろうし。

 大学からの帰り道に、彼女を送りにこのマンションの前まで来る男の人は何回も見たことがあるけど、朝っていうのはまあ、珍しかった。

 ほら、朝は忙しいしね。それに、大学に行けば会えるから、わざわざこんなところで待ち合わせするカップルを、私は今まで見たことがなかった。

 いったい何だろうと、物珍しさは感じつつも、あまり気に留めず、私はちょうど降りてきたエレベーターに飛び乗った。



 私は講義開始の20分前を目安にして、大学に行くようにしている。

 隣のキリンちゃんは、もっともっと早く大学に行っているようだった。

 たまたま大学の事務局に用事があったから、自分にしてはかなり早めに行ったときがあったんだけど、その時もキリンちゃんは私より先に教室にいた。

 端っこの席を確保して、本を読んでいた。

 その時の新書のタイトルは、『近代建築とその材質~竹材からコンクリートまで~』であった。

 ここ、建築学科でもないんですけれども。ますます分からない。

 分からないと言えば、やっぱりこの前のモデルの件である。

 あれはキリンちゃんのことも分からなかったが、自分自身でもよく分からない行動をしてしまった。

 まず、モデルの報酬は受け取らなかった。

 3000円、かける2時間で6000円。

 バイトで2日間合計6時間、ひいこら働いて得られるお給金よりも、少しだけ高い。

 基本的に座っているだけの簡単なお仕事で、休憩時間にはお菓子が出るのだから、二重に美味しい話だ。

 しかしながら、それは唐突に降って湧いた話で、私にとってはただ迷惑なだけだったから、遠慮せずもらっておけば良かったのに、っては思う。

 でも、ここでお金をもらうのは何かが違うなあ、とも思ったのだ。

 そっちの気持ちの方が強かったから、私は報酬を固辞した。

 私の選択に、キリンちゃんは困惑した。

 ちゃんと報酬を払わなければ、モデルの意味がないとか、けじめがつかないとか言って、お金の入った封筒を何とか私に渡そうとしていた。

 キリンちゃんからしてみれば、報酬を渡さなければその分得したってだけの話なのに、話はどこまでいっても平行線で、らちがあかない状態だったので、私はこう言ったのだ。

 おやつのパウンドケーキが美味しかったから、それだけでいい、と。

 いや、本当に、やたらと、美味しかったのよ……。

 くるみがどっさり入ったパウンドケーキは、ざくざくとした食感が実に快く、生地そのものの甘さは控えめではあったけれど、くるみそのものの甘さとコクが噛めば噛むほど染みだして、口いっぱいに頬張っている間に幸せを感じさせてくれる味だった。

 とても手作りとは思えない、と言ったら、キリンちゃんは(たぶん)照れながら言った、天才なんだから出来ないことなんてないんだと。

 絵を描くよりも、こっちの技を磨いた方がいい、と衝動的に思ったことは、口にしなかった。


 

 キリンちゃんは、今日も早く大学に行って、本を読んでいるのだろうか。

 朝の時間帯は決して顔を合わせることのない奇妙な隣人のことを考えながら、マンションのエントランスを出る。

 うわあ…………、まだ、いた。

 キリンちゃんではない。さっきの男の人だ。

 玄関前で見た風景のままに、ぽつーんと独りだけで立っていて、マンションの中腹の階、つまり、3、4、5階あたりをじっと見上げている。

 あんまり知らない人のことを見たりしちゃいけないんですけどね、こんな往来で目立つことされるとどうしても気になっちゃうじゃないですか、不審者でも。いいえ不審者じゃないけど。

 見たことのある顔じゃない。同じ学科の人ということはないと思う。

 たとえ別の学部の人でも、これから講義があるんだろうから、こんなところで油を売っている場合じゃないんだけどな。あるいは、1時限目を取っていないのかもしれない。

 ただ……、人を見た目で判断しては本当にいけないが、そういうことをする人のようにも見えない。

 艶やかでまっすぐな黒い髪、糊の効いた白いワイシャツは清潔感がある。体型は痩身、というほどではないが細身で、背筋は芯でも入っているみたいに、ぴんと伸びていた。

 それでいて、上を見上げて目を眇めるその表情は、切なげである。

 もしかしたら、幻の理工学部の人かもしれない。

 いや……、そもそもにして、違う大学の人だとか。

 私のいる教養学部や、講義棟を共有している人間学部の男子は、よく言えばお洒落で社交的、悪く言えばチャラくてだらしない傾向がある。

 だらしない、っていうのは、まあね、そういうことらしいですよ。

 女子とねんごろになって、紆余曲折の末に退学、という話はそれなりの頻度で耳にする噂だ。聞きたかないよそんな話。

 その点、理工学部の人は実に真面目で、神経質で、理屈でモノを考えて、上の学年は研究バカだと聞いている。

 キャンパス内の大きな森を隔てたところに、理工学部の講義棟や研究棟があり、互いが行き来することはそれほどない。互いが互いにとって幻の存在となっている訳だ。入る学部によって選ぶマンションも違う。同じキャンパスなのにね。

 そんな与太話は置いておき、とにかくその男の人は、痴情のもつれで無理心中を試みるような人物には見えず、かと言って何股もして包丁で刺されるようなことをしているようにも見えず、なぜこんな朝に、ただじっとマンションを見上げているだけなのか、私にはさっぱり検討がつかなかった。


「瑠音…………」


 その人が、うわごとのように口にした、その名前。

 るおん、ねえ。

 そんな響きの名前の知り合いはいない。少なくとも、私には。

 自分との無関係が確定したところで、私は大学への道を歩きだした。

 梅雨なのに今日もいい天気だ。お布団を干して大正解だった。帰ってきたら取り込もうっと。

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