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ずいぶんと梅雨入りが早いんだな、とよく考えなくても自明であることを思いながら、私は階段を登っていた。
八畳一間、風呂場とトイレが別々になっていてとても便利な学生マンションが、今年大学生になったばかりの私の住まいだ。
大学に近いことはもちろん、近場にはコンビニやスーパーもあるから、お金を使いすぎなければ行き倒れにはならないだろう。
激安の二文字に釣られて買った生鮮を使い余してしまったり、まだ慣れない一人暮らしに少し疲れてお総菜に手が伸びることもあるけれど、ここ最近、私のお腹はバイト先の賄いで満たされていた。
三週間前に始めたバイトは、まあ順調な方だと自分では思っている。
居酒屋のホールの仕事だけど、働くことそのものが初めてだからか、面白いって思うし、そう思えるのはいいことなのかも。仕事ってつらくて苦しいものだってよく聞くし。
人とテーブルの間をちょこまかと動き回って、両足のふくらはぎがじんじんと痛むけれど、今夜の賄いはほっくほくのメイクイーンをたっくさん使ったポテトグラタンだった。特製のホワイトソースと焦げたチーズとが、匂いも味も絡み合って、ほっくりとしたジャガイモの食感と一緒に、今も私の口の中に余韻を残している。
余韻だけならいいけれど、ハミガキしないと明日の朝が大変だ。
早く部屋に戻ろう。身の回りのことをして、土臭い地元の家族に今日もメールを送って、それからさっさと寝よう。
急勾配の階段を4階分登り切って、共有廊下を歩きながら、どこかに入っているはずの鍵をカバンに手を突っ込んで探す。
右手が鍵を掴んだのと、その人影を見つけたのは、ほとんど同時だった。
(あの人、同じ学科の人、だったっけかな)
夜の暗がりでも目立つキャラメル色の髪は、頬の線に沿うように切り揃えられている。
化粧をしているのかどうか、間近にいるわけじゃないから分からないけれど、吊りがちの目は大きく見開いていて、睫毛は見るからに長い。俗にいうところの眼力、というものを感じた。
話したことはない。名前も知らない、自分の隣の部屋の人が、偶然にも同じ学科の同じ学年の人だと言うことは分かっていた。
「若生――芙実花さん、だったっけ」
「…………そうですけれども」
その人が私の名前を知っていたことに、ちょっと驚く。
だけれど、若生なんてここら辺ではなかなか聞かない苗字なのかもしれない。だから目立っていたのかも。しかし、地元じゃ湧き出るくらいありふれているものだ。
ふみか、なんて聞こえの名前も珍しくないと思うけど、よく人にはエコロジーっぽい名前だね、とか、お花係とかやってそうとか言われている。芙蓉の花が咲く頃に生まれたから付けたらしい。ちなみに地元じゃ芙蓉なんてどこにも生えてない。北の方だからね。
私の名前の由来はともかくとして。
向こうが私の苗字も名前も知っているのに、私は相手の苗字だけを朧気にしか覚えていなかった。
世の中そんなものである、と片づけてしまいたいのは山々だけど、さすがにそれじゃあ相手に失礼だ。
私の部屋の前で立つ、どことなくマニッシュな雰囲気のこの人は、確か、き――。
「キリンでいいよ、若生さん」
「キリン?」
「そそ、あたしはキリン」
キリンって、動物のキリン? あの首の長い?
それともビールの絵柄の麒麟だろうか?
もしかすると、あの女優と同じ字面の希林だったりして。
人のものにしてはやや奇妙にも聞こえるその名前を繰り返し唱えながら、その女の人はヒールを鳴らして私の方へと近づいてくる。
――湿気た風に乗って、ベンジンの匂いが流れてきたような気がした。
「ねえ、若生さん、お願いがあるんだ。
あたしのモデルになってくれない?」
今夜はお星様もお月様も見えないあいにくさまの曇天だ。
黒ずんだ雨雲が夜空に蓋をしているせいか、べたべたと鬱陶しい湿気はどこにも行ってくれない。
前髪は額にぴたりと張り付いているし、薄手の衣服(少し前に夏服を出したばかりなのだ)は腕やら足やらの汗を吸って離れない。
バイト終わって足はくたくた、賄いにありつけたからお腹はいっぱいだけれど、その分眠い。まぶたも半分くらい落ちている。
――今日は布団を敷いてる途中で寝ないようにしないとなあ。
「ごめん、眠いしお風呂入りたいからまた今度ね」
「え、ええ、はい」
よかった。強気に見えて話は聞いてくれた。
たぶん常識はそんなにない人、なんだと思うけど。
……想像で人を語っちゃいけない。
ともあれ、大きな瞳をまん丸く見開いて私を見つめるその人を後目にして、私は自室のドアを開けた。
髪の毛のキャラメル色が、就寝の直前まで私の目の中に残っていた。