22.海へ
「やめてよ。命令だ、やめて! 溺れている人を助けて」
焦ったバイスは、初めてハデスにお願いではなく命令を発した。
コンピューターは、人間の命令なら何でも聞くという。
「せっかくの命令ですが、聞けません。先日、教えたでしょう。人が滅びないようにコンピューターである「神」が造り出されたとね。争い、滅びの種を蒔く人間を消すのが、最優先命令です。痛みを知るハデスとミコトからなら、争わない人間ができると……」
「やめて!」
バイスは、自分を阻む水柱にぶつかって荒れる海に身を投げた。
「バイスっ!」
「バイス様!」
ミコトと漕ぎ手が、伸ばした手は届かなかった。
バイスは波に揺さぶられている舟までたどり着き、懸命に櫂を操って沖へと向かう。目が痛くなる程の塩水を何度も被ったが、そんな事は何でもなかった。
「バイス、待て」
ミコトが、バイスに続いて海に飛び込んだ。バイスよりは慣れた様子で泳ぐ。舟まで辿り着くと、同じくずぶぬれのまま舟に乗り込んだ。
「馬鹿、私を置いていくんじゃない」
ミコトは、その赤い目を閃かせ口の端で笑う。バイスの頬を軽く叩いた。
「ミコト……」
そのミコトの心強さに、バイスは目を潤ませた。
「私たちはいつまでも一緒だ」
「そうだね、ミコト。ずっと一緒にいよう」
つかの間、二人は微笑みあう。
お互い、相手はもうかけがえのない人になっていた。もう離れることはできないのだった。
それから、二人で櫂を漕ぐ。沖の舟が沈んだ辺りに行って懸命に目を凝らした。
「あっ」
先にバイスが、揺れる波の間で伸ばされる人の手を見つけた。
「どうした、居たか?」
「うん、ミコト。引き上げるから手伝って」
荒れる波のせいで安定しない舟を、どうにか重心で支える。助けを求めるように伸ばされる手に手を伸ばした。
「た……すけっ……」
波の揺れで、浮き上がって見えた顔は苦しみに歪んでいたが、確かに神官の傍仕えの一人だった。
「バイス様っ! 左から大きな波が!」
浜辺のほうから、漕ぎ手が大声で叫ぶ。
見ると、浮かび上がろうとしている者を呑み込むように、高い波が押し寄せていた。
「だめっ」
バイスは、とっさに溺れている者に向かって、海へ飛び込んだ。
苦しい……っ!
体が、足のつま先から頭まで全て冷たい水に包み込まれる。
しかし、水中で確かに人の温もりを掴んだ。
手を離さないように、しっかり掴んだが空が見当たらない。上がどこだか見当たらなかった。
焦って海面を探すバイスの頭に、強い衝撃が走った。
流木にでも当たった?
バイスは、次第に薄くなっていく意識の中で、せめて掴んだ人だけでも助けようとする。
掴んだ手を上に差し出しながら、黒い虚無に意識を呑まれていった。