20.父が殺された
「……だから、私は鬼などではない。霧や風は、お前たちの所にもいる神が、私を守る為に作っていただけだ。バイスも生きている」
「いや、しかし、その赤い目に白い髪。でも、鬼ではない……? バイス様が生きている? 私が盗み聞いた話は本当だったのか?」
「お前が聞いた話は知らないが。何度言わせる。私は鬼ではない。人なんて、生まれてから一度も口にしたこともない。バイスはもうすぐ来るから待ってろ」
「何故、あなただけが来たんだ? 怪しいじゃないか」
「ハデスに呼び止められたんだ」
「ハデス? 誰です、それは」
「それを説明するのか。長くなるな」
バイスが、浜辺への木立を抜けると、そこでは男とミコトが言い合っていた。
そこにいる男は、確かにバイスを二年前に島へ置き去りにした漕ぎ手の一人だった。
バイスの記憶が正しければ、すまなさそうにバイスへ謝っていた方の漕ぎ手だ。屈強な体躯と実直そうな面立ちは、バイスと別れた時と何一つ変わっていない。
「バイス様!」
木立を抜け浜辺に現れたバイスを、漕ぎ手が見つける。急いで、息を切らせて駆け寄ってくる。
「本当に生きていらっしゃったのですね」
バイスに駆け寄ってきた漕ぎ手は、喜びに一瞬顔を輝かせた。
漕ぎ手は、近くで見ると腕や足に生々しい切り傷があった。傷からは致命傷では無いが、血が流れている。
「どうしたの、大丈夫?」
「私は平気です。バイス様、落ち着いて聞いてください。先日、族長が殺されました」
漕ぎ手の言葉に、バイスは足元が揺れたような衝撃を受けた。顔から一気に血の気が引くのが分かる。
「父さんが……嘘……」
「嘘ではありません」
「それで……誰に?」
重い衝撃にバイスは機械的に聞き返す。
「その時は、誰に殺されたのかは分かりませんでした。ですが、族長が亡くなられた後、しばらくして、嫌がるタイム様を無理やり神官が妻にして……」
タイム様というのは、つまり族長の妻であったバイスの母だった。
男の形はしているのに、全体的に線が細く儚げだった美しい母がバイスの頭に浮かぶ。バイスの幼い記憶の中では、ミコトのように勇ましい父と仲睦まじく暮らしていた。
バイスが鬼に捧げられて、皆は幸せに暮らしているはずだった。
それが……。
「神官は、族長が殺されたのは、鬼の仕業だと言いました。鬼の仕業であり、今こそ鬼を討つべきだと。そう、神から聞いたと言いました。ですが、バイス様が鬼に捧げられてから、まだ間もない。私は目の前でバイス様が鬼に襲われているのを見ました」
「鬼なんていない!」
ミコトが堪らないように、そう叫ぶ。
漕ぎ手は、まだ半信半疑のような表情だったが、ミコトを見て頷いた。
「……そのようですね。それで、それから神にどういう事なのか直接お聞きしようと、神殿に侵入した時に本当の事を知ったのです」
「よくそこまで神に近づけたな」
島のどこに居ても行動を見通し、自分を守るハデスを知っている為か、ミコトが口を挟む。
「あえて、疑いを持った私を神がすり抜けさせたのでしょうか。あの石の中にいる人が神だとすればですが。神と神官の会話を聞きました。神官は、自分に疑いを持ち始めていた族長を殺したのです」
「ど、して。疑いって」
漕ぎ手から告げられる言葉は、バイスにとってあまりに信じがたかった。皆を幸せにしようとしていた神官が、何故父さんを殺したんだ。
ミコトも無言で眉を顰める。
「神官は、以前から自分にとって邪魔な者を「鬼」がいると言われるこの島に、供物として流していたのです。自分に疑いを持ったものや豊かな者、族長の息子であるあなたを。そればかりか、神の言葉を自分の良いように曲げて、皆に伝えていたのです。みな、みんな、神官の言葉は嘘だった!」
漕ぎ手の目が絶望に彩られ、涙が溢れた。
バイスは目の前がゆらりと揺れ、倒れそうになる。
自分たちの信じていたものは嘘だったのだ。
ミコトがバイスを支えるように、強く肩を掴んだ。
「逃げてください。バイス様。神官の手の者に見つかったら、殺されてしまいます。私の乗ってきた舟で逃げてください」
そう叫ぶ漕ぎ手の後ろに見える海に、舟に乗った幾つもの人影が見え始めた。
海へ動くバイスの視線に、漕ぎ手が振り返って、
「私が少しの間なら食い止められます。早く行ってください」
と焦ったように叫ぶ。
「お前も一緒に行くんだ。島の奥に私たちが作った船がある」
ミコトが、浜辺に留まろうとする漕ぎ手の手を引っ張った。漕ぎ手が浜辺に留まれば、今度は漕ぎ手が殺されてしまうだろう事は明白だった。
確かに立派な帆のついた帆船ならば、早く逃げられるだろう。
「しかし……」
「大丈夫だよ。僕たちの町で交易に使っていたような丈夫な船だ」
躊躇う漕ぎ手を、バイスが説得する。
漕ぎ手が、バイスの真剣な顔を見て心得たように頷いた。