11.生活の始まり「おはようございます」
「バイス、起きる。おはようございます」
閉じている目に光を感じ、バイスがゆっくり覚醒していくと、胸の辺りを叩かれる感触がした。牢では起きるのも寝るのも自由だったから、起こされることなどなかった。
ほとんど初めての体験に、バイスは驚いて目を開ける。
バイスのすぐ目の前に、光る白い髪に縁取られた美しい顔があった。
「う……わっ。ミ、ミコト様」
バイスがそれこそ飛び起きると、ミコトが嬉しそうににっこりと笑う。
「起きた。おはようございます」
「えっ、……おはようございます」
昨日とは違うミコトの丁寧な言葉に、バイスは酷く面食らって挨拶を返す。
これはどういう事だろう?
「ははっ、バイス様。やはり驚きましたね。昨日、言葉を教えると申し上げましたでしょう。お忘れですか」
バイスが振り返ると、ハデスが昨日と変わらず穏やかに微笑んでいる。
焚き火も昨日と同じように燃え続けている。
だから、火を見ていたハデスは一睡もしていないはずなのに、なんだか不思議な人物だった。
「ハデス、朝、挨拶、教える。おはようございます」
ミコトが得意げに朝の挨拶を繰り返した。
「まず、ミコトが単語毎に言葉をぶつ切りにしないよう、助詞から教えましょう。助詞を教えていく上で、簡単な単語からどんどん教えていきます」
ハデスが、石の中から相変わらず人を馬鹿にしたような視線を寄こした。
「バイス様も昨日から人ごとのような顔をしないで下さい。バイス様は、十七歳という歳にしては圧倒的に語彙が少なすぎます。知っている言葉が少ないという事です。二人とも私がみっちりと教えますからね」
「うん、分かった」
つい、バイスは二人のやりとりを客観的に眺めていた。ハデスから注意を受けて慌てて返事をする。
バイスは、自分が知っている言葉が少ないという事はなんとなく分かっていた。
自分はあまりにも何も知らない、と思っていた。
何も知らないまま死んでいくのかと思っていた。
それがどういうわけか、鬼に食べられなくても良くなったばかりか、ハデスと名乗る男に言葉やその他諸々を教えてもらえるというのである。
「よろしく、ハデス」
「こちらこそ。我が主、バイス様」
三人は三者三様の気持ちを抱えて、微笑みあうのだった。