05.1よりも小さくて0よりも大きい
(ついて行けないって・・・まだ新年度が始まって二週間しか経ってないのに・・)
ルーの目線が地面に落ち、制服のズボンから飛び出してしっぽもパタリと垂れ下がる。彼はすっかり自信を失くしているみたいだ。
「分からない所は先生に質問してる?」
「ううん。今の先生は質問させてくれないから・・」
「させてくれない?」
信じられない言葉にユンは眉をしかめた。
詳しく話を聞いてみれば、どうやら新担任は質問をしても授業をちゃんと聞いていれば分かる筈だ、と相手にしてくれないらしい。授業はまだ始まったばかりなのだからそれ程難しい内容ではないのだろうけど、基礎が分からなければこの先いくら授業が進んでも分かるようになる筈がない。
(質問させないなんて教育者失格だわ!!)
教師として教鞭を持つ限り、生徒達には真摯に向き合わなくてはならないのに。
内心憤慨していたが生徒の前でそんな顔は見せられない。ユンは気分を切り替え、下を向いてしまったルー顔を笑顔で覗きこんだ。
「ねぇ、ルーくん。それって何の授業?」
「数学。」
「今教科書ある?」
「うん!」
持っていたスクールバッグから二年生用の教科書が出てくる。ルーには既に卒業したお兄さんがいて、彼のお下がりらしい。お兄さんが几帳面な性格だったのか、それともあまり使用しなかったのか。差し出された教科書はお下がりにしては比較的綺麗だ。表紙を捲ってみると、最初に載っていたのは分数の計算だった。
「成る程・・。分数が始まったのね。」
「うん。」
応用ではなく基礎で躓いているという事は、そもそも分数自体がどんなものか理解していないのだろう。
「因みに担任の先生に質問したのはどんなこと?」
「足し算で、分子を足して分母を足さないのはどうして?って訊いたんだ。」
「うん。いい質問だね。ちょっとここで待ってて。」
「先生?」
ルーを残し、急いで近くの八百屋へ駆け込む。そこでオレンジを三つ買ってベンチへ戻った。
まず紙袋からオレンジを三つ全て取り出す。そして彼の前で一つだけ袋に戻して見せた。
「今紙袋の中にはオレンジがいくつ入ってる?」
「一つ!」
「正解!じゃあ、袋の中に入っているオレンジを合計三つにするには後オレンジがいくつ必要?」
「二つ。」
「そうね。じゃあ、二つ入れます。はい、これで袋の中身は三つになりました。」
そう言ってルーにも袋の中を見せる。そこでバッグからノートと鉛筆を出してもらった。
「じゃあ今私がやったことを数式に出来る?」
「うん!」
元気よく返事をして、ルーがすらすらとノートに書き込んでいく。
1+2=3
「そう!正解。これが一年生の時に習った整数の足し算ね。私が教えた時にこう言ったのを覚えてるかな?数学は紙の上だけに存在するものじゃなくて、こうして普段の生活の中にある物なんだって事。」
「うん。覚えてる。」
「それは勿論分数も同じよ。じゃあ、ルーくんはこのオレンジを使って分数を表すこと出来るかな?」
鮮やかなオレンジをルーに差し出す。先程まで自信満々に計算の答えを出していた彼は途端にオロオロして、両手で掴んだオレンジを持て余していた。
(やっぱり・・、分数の意味そのものが分からないんだわ・・)
いくらルールを丸暗記して試験問題を解けた所で、本質そのものを理解できなければ数学の意味がない。先程ルーが言った質問もそうだ。『分母は足さないもの』というルールを覚えれば、確かに分数の足し算の答えは出る。けれど『何故』の部分を理解しなければ、分数が存在する意味がない。
新担任も教科書の通りに分数の意味や役割は説明したのだろうけど、肝心なのはそれが生徒に伝わっているか。教える立場にいる者は当然教える内容を理解している。だから『この説明で理解できるだろう』という頭になりがちだ。生徒の中には数学が得意な生徒もいればそうではない生徒も当然いる。教師ではなく生徒目線に立って教えなくては、“全員”に理解させるのは難しい。
現にこうして生徒の一人が首を傾げている。
「ユン先生・・分かんない。」
「じゃあ先生がやってみましょうか。」
ルーからオレンジを受け取り、スルスルと皮を剥いていく。そして実だけになったオレンジを見せた。
「これを数字で書くといくつ?」
「・・1?」
「そう。オレンジが1個だから“1”ね。」
そして実の部分をパカッと二つに割った。
「じゃあこれは?」
「・・半分?」
「そうね。オレンジ1個の半分ね。1年生の時はこれを数字で表す事は出来なかったでしょう?計算できるのは0か1以上の数字だけで、1の半分はやってないものね。」
「うん。」
「分数だとね、この1よりも小さくて0よりも大きいオレンジを数字で表す事ができるのよ。」
そう言ってユンは半分に割った実の片方を掲げて見せた。