a motive for murder
私は一体の死体の前で立ち尽くしている。右手には血糊のついた折りたたみ式のナイフ。数分前までの興奮がまだ冷めやらず、動機がおさまらない。肩で息をする。
どうしてだろう。予感めいたものは確かにあった。しかし実際に現実のものとなると、私の頭の中は激しく混乱する。
私は愛する女性を殺した。
彼女との思い出が、まるで走馬灯のように駆け巡る…。
◇
彼女に初めて出会ったのは駅のホームだった。出会ったと言っても、私が一方的に彼女の姿を見つめていただけだ。当時まだ学生だった私は、通学のため毎日同じ電車に乗っていた。その年の春から駅でよく見かけるようになった女性がいることに気付いたのだ。
彼女はその他大勢の中で、ひときわ異彩を放っていた。背中まですらりと伸びた黒髪に、陶器のような白い肌。私と同じくらいの年齢にも見えるが、その落ち着いた雰囲気から実際はもっと年上なのかもしれない。
私は一瞬にして彼女に心を奪われてしまった。
それからというもの、彼女の姿を遠くから見つめることが私の日課となった。名前も年齢も知らないけれど、彼女と同じ空間にいれるというだけで幸せだった。なんとかして近づきたいと思ったが、奥手な私は彼女と同じ車両に乗ることさえできなかった。
そんな生活が半年ほど続いたある日、私はいつものように彼女を見届けた後、別の車両に乗り込んだ。その日は雨が降っていたこともあり、電車の中は身動きが取れないほど混雑していた。
電車から降りる際、私は手に持っていた携帯電話を誤って落としてしまった。拾おうとするも、電車から溢れ出る人の波にもみくちゃにされ、完全に見失ってしまう。
その時、背後から肩をたたかれた。振り返ると、彼女だった。
彼女の右手には私の携帯電話。こんなに近くで彼女を見るのは初めてだ。
「携帯、落としましたよ」と言って彼女は微笑む。天使のような澄んだ声だった。
翌日、私は思い切って彼女に声をかけてみた。「昨日はありがとうございました」と一言だけだったが、彼女は「いいえ」と言ってにっこり笑った。
それをきっかけに、私たちは毎朝会話をするようになった。最初は二言三言だったが、しだいにお互いの趣味の話や学校での出来事(彼女は私とは別の学校に通う学生だった)などを話すようになった。そんな関係が数ヶ月続き、私はいよいよ彼女に交際を申し込むことを決めた。
彼女との別れ際、前の晩に徹夜で書いた手紙を渡した。彼女に対する思いをすべて込めて一心不乱に書き綴った手紙だ。ダメならダメできっぱり諦めようと思った。
彼女の返事はOKだった。
今まで生きてきた中でこんなにも幸せな瞬間はなかった。自分の人生を賭けてでも彼女を守り抜こう。私はそう強く決心した。
その後、彼女と数年間交際した。年を重ねるごとに彼女は美しくなり、彼女に対する想いは縮小するどころか、どんどん燃え上がっていた。
人生を共に歩むパートナーは彼女以外には考えられない。私は彼女にプロポーズをすることにした。正直、彼女が断ることはないだろうと予想していた。
彼女を自宅に呼び、あらかじめ用意しておいた婚約指輪を渡した。
彼女は涙を流して喜んだ。指輪を受け取って、私の胸に抱きついてきた。
この時私は、経験したことのない充足感と幸福感を味わった。言葉では言い表せないほどの喜びに満ち溢れていた。それは彼女も同じだっただろう。
そして私はおもむろにポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し、彼女の胸を刺した。
◇
殺人の動機には様々なものがある。憤怒、怨恨、痴情のもつれ…。
そして常人には理解しがたい理由で人を殺めることもあるであろう。
ある人物は「本を置く場所がなくなったから妻子を殺した」と語った。またある人物は「太陽が眩しかったからアラブ人を殺害した」と証言した。
そこには傍から見れば不条理な死があった。しかし、当の殺人者からすれば不条理なことなど何もない。不整合さの欠片すらないのだ。考えてみれば世俗的な人間が、殺人者という尋常ならざる者の思考を推し量ることなど、到底無意味で不可能なことなのだ。
私の場合はどうだろう。
なぜ彼女を殺したのか、私には分からない。気づくと右手にナイフを握っていた。
憎しみの感情など一切なかった。膨れ上がるどうしようもない幸福が、私の情動を突き動かしたのだ。
実を言うと、彼女と交際を開始した時から、私のポケットには常にナイフが入っていた。いつ、どこで手に入れたのかは覚えていない。幸せの絶頂に達した時、私は彼女を刺殺してしまうのではないかと、心のどこかで危惧していたのは事実だ。
なぜ彼女を殺したのか、と今後何度も聞かれる場面があるだろう。その時にはこう答えるしかない。
「彼女を愛していたから」と。




