第37話 王を統べる手札
「これが、俺の答えだ」
卓上に並べられたアキトの手札を見て、その場にいた全員が、しばし言葉を失っていた。会場全体を包んでいた喧騒すら、一瞬にして消え去ったかのような、異様な静寂が卓を包み込む。
スペードのエース、キング、クイーン、ジャック、そして十。全て同じ柄で揃った、この世界でも滅多にお目にかかることのない、ロイヤルストレートフラッシュ。ポーカーという勝負における、最強にして最も出現し難い、まさに奇跡の役だった。数万回に一度あるかないかとも言われるその役が、よりによってこの重要な一戦で揃うとは、誰も予想し得なかったことだった。
「……嘘だろう」
ガレスが呆然と呟いた。長年の博打人生の中でも、実際にこの目でロイヤルストレートフラッシュを見るのは初めてのことだったのだろう。その顔には、驚愕と、どこか清々しいまでの敗北感が入り混じっていた。壮年の博徒として積み重ねてきた経験と誇りが、この一手によって、あっさりと打ち砕かれた瞬間だった。
「……参りました。これほどの手札には、さすがに手も足も出ません」
エリシアもまた、涼しげな表情を初めて崩し、目を見開いたまま卓上のカードを見つめていた。そう言うと、彼女は静かに手を叩いた。それは敗者としての、しかし確かな敬意を込めた拍手だった。
バロウは呆然としたまま、崩れ落ちるように椅子に座り込んでいた。彼の絶望的な表情の奥には、もはや何の感情も読み取れないほどの、深い虚脱感が滲んでいた。両手で顔を覆い、肩を小さく震わせるその姿は、勝負の結果というよりも、もっと根深い何かに打ちひしがれているようだった。
周囲を取り囲んでいた観客たちからも、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こる。
「見たか、あの手札! ロイヤルストレートフラッシュだぞ!」
「まさか本当に出るとはな……! 一生に一度、見られるかどうかって代物だぜ!」
この一夜の宴において、まさに伝説となるべき瞬間が、今この場に刻まれようとしていた。
だが、その歓喜の空気は、長くは続かなかった。
会場の入り口付近から響いていた騒がしい物音は、次第にその規模を増していく。何人もの怒声と、慌ただしい足音、そして時折混じる悲鳴のような声が、豪奢な会場の空気を一気に切り裂いていった。
「何事だ……!」
ガレスが驚いたように振り返る。アキトもまた、その異変に強い警戒心を抱きながら、入り口の方角へと視線を向けた。
やがて、会場に姿を現したのは、商会の護衛たちに取り押さえられながらも、必死に何かを訴えている数人の男女だった。彼らの身なりは決して裕福には見えず、その表情には、深い絶望と怒りが刻まれている。着古した服、痩せこけた頬、そして何より、その目に宿る、追い詰められた者特有の光。
「返せ! 俺の店を、俺の人生を返してくれ……!」
「あんたらのせいで、うちの娘は……!」
その悲痛な叫び声に、会場全体が水を打ったように静まり返った。豪華な衣装に身を包んだ招待客たちの間にも、明らかな動揺と困惑が広がっていく。中には、気まずそうに視線を逸らす者もいれば、興味深そうにこの騒動を見守る者もいた。
「……あれは」
リーゼロッテが息を呑む。
「商会の被害者たちでしょうか」
「みてえだな」
アキトの脳裏に、これまで街で聞き集めてきた数々の噂が蘇る。法外な利子による貸付、家屋敷を失った商人たち、そして違法な薬物の密売。それら全ての被害者たちが、ついに堪えきれず、この場に押し寄せてきたのだろう。長らく積み重なってきた怒りと絶望が、この華やかな宴の場で、一気に噴き出したかのようだった。
「な、なぜこんな場所に……!」
ゴードンが慌てた様子で壇上から降りてくる。その顔からは、これまでの余裕に満ちた笑みが、完全に消え去っていた。
「衛兵を呼べ! こんな騒ぎ、この催しに相応しくない!」
ゴードンの号令に応じ、護衛たちが次々と被害者たちを取り押さえにかかる。だが、押し寄せる人数はゴードンの想定を遥かに超えていたらしく、混乱は瞬く間に会場全体へと広がっていった。招待客たちの悲鳴と、被害者たちの怒声が入り混じり、豪奢だった会場は、瞬く間に修羅場と化していった。
シャンデリアの光の下、逃げ惑う招待客たちと、必死に訴えかける被害者たち、そして力ずくで彼らを排除しようとする護衛たちの姿が、入り乱れながら会場中を駆け巡る。中には、テーブルの下に隠れて震える者や、慌てて出口を求めて右往左往する者の姿もあった。
「放せ! 俺たちはただ、正当な訴えを――」
「うるさい、大人しくしろ!」
護衛の一人が、被害者の男を乱暴に殴り倒す。その光景に、アキトの表情が険しくなった。
(これが、この商会のやり口ってわけか)
弱者を踏みにじり、都合の悪い声を力で押さえつける。それはまさに、かつてバルザスが見せていた悪徳の構図と、寸分違わぬものだった。アキトの胸の奥で、静かな、しかし確かな怒りの炎が燃え始めていた。
「リーゼ、ちょっと待ってろ」
「アキト、何をするつもりですか」
「決まってんだろ。あの理不尽を、黙って見てるほど俺は薄情じゃねえ」
アキトが一歩踏み出そうとしたその時、卓の向こうにいたバロウが、震える声で呟いた。
「……申し訳、ありません」
その言葉に、アキトは足を止めた。
「あなたに、謝らなければならないことがあります。私は……。私自身も、商会に弱みを握られているのです。あの女性は、私の妹です。妹の治療費のために借りた金が、いつの間にか法外な利子で膨れ上がり……」
バロウの告白に、リーゼロッテとアキトは互いに顔を見合わせた。予想していた通り、この男もまた、商会の被害者の一人だったのだ。
「そうか……。お前も、被害者ってわけか」
「はい……。ですが、それでも、あの女性の契約書を賭けの道具にしてしまった罪は、消えません。私は、最低なことをしました」
バロウは深く頭を垂れながら、そう呟いた。その悔恨の念に満ちた声に、アキトはしばし黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「事情は分かった。だが、今はそんな懺悔してる場合じゃねえ。まずは、この状況を何とかしねえとな」
「アキト殿……」
「安心しな。あんたの妹の契約書も含めて、俺が全部きっちり取り返してやる。それが、この勝負に勝った俺の権利だ」
その力強い宣言に、バロウは驚いたように顔を上げた。その目には、僅かながらも希望の光が灯り始めていた。
その混乱の最中、アキトは静かに立ち上がると、卓上に置かれた自身の賭け金――ロイヤルストレートフラッシュによって勝ち取ったはずの、全ての"価値あるもの"に手を伸ばした。
「待て」
その手を、ゴードンの冷たい声が制した。
「勝負の結果は認めよう。だが、この状況で正式な受け渡しの手続きを行うことはできん。今夜のところは、日を改めるとしよう」
「おいおい、随分と都合のいい言い分だな」
アキトの目が、鋭く細まる。この土壇場での言い逃れに、彼は瞬時に何かしらの悪意を感じ取っていた。
「都合がいいも何も、これが規則というものだ」
ゴードンの口調には、これまでの愛想の良さが完全に消え失せ、代わりに冷たく突き放すような響きが宿っていた。その豹変ぶりに、リーゼロッテの表情が険しくなる。
「……最初から、負けを認めるつもりなど、なかったのですね」
「さて、何のことか」
ゴードンは白々しく肩を竦めると、護衛たちに向かって顎をしゃくった。その仕草に応じ、数名の護衛が、アキトたちを取り囲むように動き始める。
「本来であれば、この程度の騒ぎは想定内で処理できたはずだったのだがな。……忌々しい連中が、よりによってこのタイミングで押しかけてくるとは」
ゴードンは苛立たしげに、被害者たちが取り押さえられている方角を睨みつけた。その表情には、これまでの紳士的な仮面の下に隠されていた、本来の冷酷な素顔が、はっきりと浮かび上がっていた。
「あの被害者たちの叫び、聞こえてただろ。あんたらのやり口が、どれだけの人間を苦しめてきたか」
「弱者が弱者たる所以は、力もなく、知恵もなく、ただ搾取される定めにあるからだ。それを憐れむほど、私は甘くはない」
その冷酷な言葉に、リーゼロッテの表情が明確な怒りに染まった。
「よくも、そんな……」
「事実を述べているに過ぎん。この世は弱肉強食だ。搾取される側にも、それなりの理由があるというもの」
ゴードンは薄笑いを浮かべながら、悪びれる様子もなくそう言い放った。その言葉の一つ一つが、アキトの中に燻る怒りの炎に、さらなる油を注いでいく。
「その理屈、俺は大嫌いなんだよ」
アキトの声が、これまでにないほど低く、鋭いものへと変わった。
「金と力を持ってるからって、誰かの人生を弄んでいい理由にはならねえ。……お前らみたいなクズが、一番許せねえタイプの悪党だ」
「アキト、これは……」
「ああ。最初から、こういう展開を用意してたってわけだ」
アキトは冷静に状況を分析しながら、静かに身構えた。勝負に勝ったところで、正当に権利を受け取れる保証など、この商会には最初から存在しなかったのだろう。被害者たちの乱入もまた、ある意味では商会の日頃の悪行が招いた、必然の帰結だったのかもしれない。
(イカサマで人を騙すより、こういう真っ向からのちゃぶ台返しの方が、よっぽど質が悪いな)
アキトの内側で、静かな、しかし確かな怒りが燃え上がっていく。正々堂々の勝負すら踏みにじろうとするこの商会のやり口は、彼が最も嫌悪する種類の卑劣さだった。
「面白えじゃねえか。……それなら、こっちも遠慮なくやらせてもらうぜ」
アキトの口元に、これまでとは違う種類の、獰猛な笑みが浮かぶ。懐に忍ばせていた僅かな魔力の残滓を、静かに練り上げていく。三日間の準備期間で、僅かながらも回復させておいた魔力――それを、この瞬間のために温存していたのだった。
その時、会場の窓の一つが、大きな音を立てて破られた。
「アキト殿! 遅くなりました!」
窓を突き破って現れたのは、剣を抜き放ったシルヴィアだった。その凛々しい姿に、周囲の招待客たちからどよめきが起こる。その背後から、小さな影が身軽に飛び込んでくる。
「ご主人様、危ないところに来てしまったのです! でも、ミミたちも一緒なのです!」
ミミが元気よく着地すると、鼻をひくつかせながら周囲を見回した。
「危ない匂いがいっぱいするのです! あっちの方から、たくさんの人が来る匂いがするのです!」
その報告に、シルヴィアが素早く反応した。
「恐らく、商会の追加の護衛でしょう。アキト殿、これは想定していたよりも大掛かりな騒動になりそうです」
「上等だ。派手にやろうぜ」
仲間たちの登場に、アキトは思わず不敵な笑みを深めた。三日間の準備を経て、こうして再び肩を並べる仲間たちの存在に、彼は改めて確かな心強さを感じていた。
リーゼロッテもまた、ドレスの裾を軽く払いながら、静かに戦闘態勢を整える。
「私も、微力ながらお手伝いします」
「頼りにしてるぜ、リーゼ」
混乱を極める会場の中で、新たな戦いの火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。護衛たちがじりじりと距離を詰めてくる中、四人は互いに背中を預け合うように、円陣を組んだ。
ゴードンの余裕に満ちた表情が、初めて明確な焦りへと変わっていく。
「た、たかが数人に、この私が……!」
「数の問題じゃねえよ、ゴードンさんよ。……こっちには、負けを認めない卑怯者を許さねえ、正義感の塊みてえな連中が揃ってるんでな」
アキトはニヤリと笑いながら、そう言い放った。会場全体を包む緊張感が、これまでとは異なる、新たな局面へと突入していくのだった。
ゴードンは護衛たちに向かって鋭く指示を飛ばした。
「かかれ! こいつらを、一人残らず叩きのめせ!」
その号令と共に、屈強な護衛たちが一斉に武器を構え、アキトたちを取り囲むように動き出す。会場の照明が、抜き放たれた剣の刃を鈍く反射していた。
「アキト殿、ここは私が」
シルヴィアが一歩前に出ると、聖剣を構え直した。その凛とした立ち姿には、これまでの旅で培われてきた、揺るぎない覚悟が滲んでいた。
「無理はするなよ、シルヴィア」
「承知しております。……ですが、こういう時のために、私はこの剣を握っているのですから」
リーゼロッテもまた、懐から小さなナイフを取り出し、静かに身構えた。かつてカジノの用心棒たちから身を守るために身につけた、護身術の心得があった。
「ミミも頑張るのです!」
ミミが小さな拳を握りしめ、勇ましく前へと進み出る。戦闘力こそないものの、その野生の勘は、この乱戦の中でも確かな役割を果たすはずだった。
四人はそれぞれの得意分野を活かしながら、静かに、しかし確実に、迫りくる護衛たちへの対抗策を練り上げていく。混乱を極める会場の中、これまでとは次元の異なる、本気の戦いが幕を開けようとしていた。
護衛たちの数は決して少なくなかったが、四人の間に流れる確かな信頼と連携が、この不利な状況をも覆す可能性を秘めていた。
誰もが、次の瞬間に何が起こるかを、固唾を呑んで見守っていた。
被害者たちの叫びと護衛たちの怒声が交錯する会場の中、アキトたちの新たな戦いが、今まさに始まろうとしていた。
ロイヤルストレートフラッシュという奇跡の勝利から一転、四人はまた新たな試練に立ち向かおうとしていた。
会場の熱気は、もはや娯楽の域を完全に超え、生死をかけた対峙の場へと様変わりしていた。
バロウもまた、震えながらも拳を握りしめ、この戦いの行方を静かに見守っていた。
ガレスとエリシアもまた、この異様な事態を前に、静かに成り行きを見守っていた。
この一夜が、どのような結末を迎えるのか、それはまだ誰にも分からなかった。
緊迫の一夜は、まだ終わっていなかった。
護衛たちの足音が、じりじりと近づいてきていた。
四人の視線が交錯し、無言のまま覚悟が固まっていく。
決着の時は、もう間近に迫っていた。




