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雨が降るたび幼馴染の屋敷に泊まる慣習、そろそろ理由を聞いてもいいでしょうか?

掲載日:2026/04/10

雨が降るたび幼馴染の屋敷に泊まる慣習、そろそろ理由を聞いてもいいでしょうか?



「今日も雨だね」


窓の外を見もせず、レイフェル様はそう言った。

フォルスハイム侯爵家の応接室には、まだ午後の白い光がたっぷりと射し込んでいて、中庭の薔薇には一滴の露もない。暖炉の火は落ちていて、春のやわらかな風が、開け放たれた窓から絹のカーテンを揺らしている。テーブルの上には、アンナが淹れてくれたばかりの紅茶が、湯気を細くまっすぐに立ち上らせていた。


「……まだ、降っていませんよ?」

「もうすぐ降る。だから、泊まっていって」

「予言ですか?」

「願望、かな」


静かに微笑む横顔が、妙に大人びて見えて、私は返す言葉を失くした。


レイフェル・クロイツフェルト侯爵家嫡男。今年で二十二になる幼馴染は、社交界では「静かな読書家」と呼ばれている。言葉少なで、感情の揺れをめったに顔に出さない、穏やかな人。夜会に出ても壁際で本を読んでいるような男だと、令嬢たちはため息混じりに噂する。氷のように整った横顔と、誰にでも等しく丁寧な物腰。誘いをかけても、誰の心にも届かないと、そんな評判の人。


そのはずなのに、私の前でだけ、ときどき子供のような顔をする。


今みたいに、「願望」なんて言葉を、さらりと口にしたりする。


「レイフェル様」

「うん?」

「最近、少しだけ、ずるくなりました?」

「どうだろうね」


彼は答えをはぐらかすように、手元のティーカップを持ち上げた。長い睫毛が伏せられて、その表情の奥にあるものが見えなくなる。いつものことだ。いつものことなのに、今日はなぜか、それが少しだけ気になった。


カップの縁に触れる彼の指は、ピアノを弾くひとの指だ。骨ばっていて、関節が綺麗で、紅茶の湯気が触れると、ほんの少しだけ赤みがさす。私はその指を見るのが、昔からひそかに好きだった。本人に言ったことは、一度もないけれど。


「エルナ」

カップを置きながら、レイフェル様が静かに私を呼んだ。

「はい」

「今日は、長く話す時間が欲しいな」

「……話?」

「うん。夜になってからで、いいんだけど」


穏やかな声の奥に、ほんの少しだけ、普段とは違う硬さがある気がした。けれど問い返すより先に、遠くで低い雷鳴のような音が響いて、窓硝子の向こうの空が、ふっと翳った。


私は窓の外に視線を移した。ついさっきまで青かった空の隅に、灰色の薄い膜がかかり始めている。

「……本当に、降りますね」

「言ったでしょう」

「予言ですか?」

「今度は観察、かな」


レイフェル様は冗談めかして肩をすくめた。こういうときの彼の表情は、社交界の令嬢たちが決して見たことのないものだ。目元のわずかな緩み、口元の柔らかさ、声に滲む子供っぽさ。そのすべてが、この応接室の、この時間のなかだけで許されている気がする。


「レイフェル様は、不思議ですね」

「何が?」

「雨が降るのを、いつも先に知っている。空を見もしないで」


ふと口をついて出た言葉に、彼は少しだけ目を見開いた。それから、何か大切なものを確かめるような、そんなゆっくりとした瞬きをひとつ落とした。


「……昔からの癖なんだ」

「癖?」

「うん。雨が降りそうになると、無意識に窓辺に立つ癖がある。自分でもいつ始まったのか、もう覚えていないくらい古い癖」

彼の指がティーカップの縁をなぞる。その動きが、ほんの少しだけ、懐かしいものを探すように見えた。


「……そうなんですね」


私は、それ以上は問わなかった。問うべきでない気がした。問えば、きっと今日の夜まで持ち越される何かが、先に崩れてしまう気がして。

代わりに、紅茶を一口だけ飲んだ。ほんのり甘くて、少しだけ渋くて、いつもの味がした。


レイフェル様が自家の馬車で先に帰ったあと、私も入れ替わるように支度を済ませた。フォルスハイム家の馬車に乗り込む頃には、本当に空が翳り始めていた。


灰色の雲が西の空から押し寄せて、最初のひと粒が窓硝子を叩いたとき、私は無意識に膝の上の鞄を抱きしめた。着替え、寝間着、愛用の本、お気に入りの髪留め。泊まりの支度は、朝から整えてあった。侍女のアンナが、空模様を見もせずに荷造りをしてくれたからだ。


「お嬢様。今日は降りますよ」


朝、朝食の席で、アンナはそう言った。窓の外は、これ以上ないほどの晴天だった。けれど私は「そう」とだけ答えて、湯気の立つスープを黙って口に運んだ。アンナが言うなら、降るのだ。我が家では、それが当たり前になっていた。


いつから、こうなったのだろう。

雨が降ると、私はクロイツフェルト侯爵家に泊まる。誰が最初に言い出したわけでもなく、気づけば十二年。理由も経緯も曖昧なまま、それは私たちの「当たり前」になっていた。


家族もアンナも、誰ひとり疑問を口にしない。むしろ、雨が降ると全員がごく自然に、「今夜はレイフェル様のところね」と頷く。父も母も、それどころか遠縁の叔母までもが、その話題になると同じ顔で微笑む。何か秘密を共有しているような、優しい顔で。


(聞きそびれたまま、ここまで来てしまった)


当たり前を問い直すのは、いつだって怖い。

聞いてしまったら、何かが終わる気がして。指の隙間からすり抜けてしまうものが、きっとあって。だから私は、問いを十二年間、喉の奥にしまい込んできた。

窓硝子を叩く雨音が、少しずつ密度を増していく。


私は鞄の持ち手をぎゅっと握り直して、膝の上で小さく息を吐いた。馬車の揺れに合わせて、外の景色が灰色に滲んでいく。



クロイツフェルト侯爵家の玄関先に馬車が着いたとき、侯爵夫人はすでにそこで待っていた。春用の薄手のショールを羽織って、いつもの穏やかな笑顔で。使用人に傘を差しかけてもらいながら、彼女は私の手を取るようにして迎え入れてくれた。


「エルナちゃん、いらっしゃい。今夜は冷えるから、生姜のお茶を用意してあるのよ」

「いつもありがとうございます、奥様」

「いいえ。あなたが来てくれる日は、この家が少しだけ明るくなるの」


穏やかな笑顔の奥に、何か、私の知らない感情が一瞬だけ揺れた気がしたが、瞬きの間に消えてしまった。気のせいかもしれない。私は軽く膝を折って礼をして、いつも通りに屋敷へと足を踏み入れた。


玄関ホールは、磨き抜かれた大理石と、古い木の手すりの匂いがする。私にとっては、実家の匂いと同じくらい馴染み深い匂いだ。壁に掛けられた風景画も、踊り場の燭台も、全部が懐かしい場所に懐かしいまま残っている。


案内されるまでもなく、足は三階の角部屋に向かう。

いつしか「エルナの部屋」と呼ばれるようになった、南向きの小さな客室。淡い黄色の壁紙、白い木の書き物机、そして窓辺には、私が子供の頃に置いていった兎の縫いぐるみが、今もちょこんと座っている。


耳の片方が少しだけ色褪せて、けれど綺麗に手入れされている。定期的に日に干しているのだろう、ふんわりと乾いた毛並みの感触が指先に伝わってきた。

誰かが、大切にしてくれていたのだ。十二年間ずっと。


私はそっと縫いぐるみの頭を撫でた。ふわりとした毛並みが、小さな日向の匂いを立てた。


机の引き出しをそっと開けてみる。中には、私が昔使っていた子供用の万年筆、リボン、押し花のしおり。その全部が、ほんの少しだけ位置を変えながら、変わらずそこにあった。誰かが定期的に開けて、整えて、また閉じている。そんな気配がした。


窓辺に歩み寄って、雨に濡れ始めた中庭を見下ろす。樫の木の枝が、雨粒に打たれてゆっくりと揺れていた。その向こうの東屋は、私が子供の頃、レイフェル様とよく二人でかくれんぼをした場所だ。いつも私が隠れて、いつも彼が見つけてくれた。


本当は、私の居場所を一度もわからなかったことはないはずなのに、毎回「どこかなあ」と大袈裟に呟いてから、最後にそっと見つけてくれた。

……ああ。

この人はきっと、昔から変わらないのだ。

私が気づくまで、ゆっくり待って、気づかないふりをして、それでも決して迷子にはさせない。

胸の奥が、きゅうっと甘く痛んだ。

(十二年前、初めてここに泊まった夜のことを、私は半分しか覚えていない)


八歳の春だった。両親が揃って遠方の領地へ視察に出かけ、私は心細さに泣きじゃくって、クロイツフェルト家に預けられた。迎えてくれたのは、十歳のレイフェル様。生真面目な顔で、泣き止まない私の手を引いて、図書室に連れて行ってくれた。彼の手は、今より小さくて、でも今と同じくらい温かかった。


そこから先が、靄の中にある。

絵本を読んでくれたことは覚えている。彼の声が、外の雨音と溶け合って、不思議なくらい心地よかったことも。泣きながら、いつの間にか眠ってしまったことも。翌朝、見慣れない天井を見上げて、それでもなぜか不思議と安心していたことも。


けれど、肝心の何かを、私は忘れてしまっている。

思い出そうとすると、胸の奥がきゅうっと痛む。忘れていることへの罪悪感と、それでも思い出せない自分への苛立ちで。何か、とても大切な約束を、私は置き去りにしてしまっている気がする。



夕食の席は、いつも通りだった。

侯爵夫妻と私とレイフェル様。四人でとる食事は、実家よりも静かで、実家よりもずっと温かい。白いテーブルクロスの上で、銀の食器が控えめに光って、窓の外の雨音が、部屋全体を優しく包んでいる。蝋燭の炎が、空気のほんの小さな揺らぎで、ゆらゆらと影を踊らせていた。


「エルナ嬢は、最近は何を読んでいるのかな」

侯爵様が、パンを割りながら柔らかく尋ねてくださった。

「東方の紀行文を。お恥ずかしながら、地理にはとんと疎くて」

「おや、それはレイフェルの得意分野だ。あとで書庫の東方棚を案内させるといい」

「父上」

レイフェル様が、低く窘めるように言った。けれど、口の端がほんの少しだけ上がっているのを、私は見逃さなかった。侯爵様は「おや」と言いたげに眉を上げて、それから可笑しそうに肩を震わせた。侯爵夫人は、そんな父子のやりとりを、静かな笑みで見守っている。


「エルナちゃん、この家はね」

食後の果物が運ばれてきた頃、侯爵夫人がふと、独り言のように呟いた。

「あなたが来るたびに、少しずつ灯りが増えていくようなのよ」

「……灯り、ですか?」

「ええ。窓の向こうに灯りが増えていくみたいに、ね」

その言葉の意味を、私はうまく捉えきれなかった。けれど奥様は、それ以上何も言わず、ただ優しく微笑んだだけだった。


向かい側で、レイフェル様がフォークを置いて、小さく咳払いをした。耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっている気がした。気のせいだろうか。


「母上、エルナが困っています」

「あら、困らせるつもりはないのよ。ただ、事実を話しただけ」


侯爵夫人は、そう言って上品に笑った。侯爵様は知らん顔で果物を口に運んでいるが、その口元はやはり小さく綻んでいる。この家の人たちは、みんな優しくて、みんなほんの少しだけ意地悪だ。私はその意地悪の全部が、昔から好きだった。


食事が終わる頃、雨音は一段と強くなっていた。硝子窓に叩きつける雨粒の数が、ひとつひとつ数えられないほどに増えていく。


「エルナ」

レイフェル様が、低く私の名を呼んだ。敬称を省くのは、二人きりに近いときだけの癖だ。

「少しだけ、図書室に付き合ってくれる?」

「……はい」


返事は、考えるより先に口から出ていた。

侯爵夫人が、ちいさく微笑んだのが、視界の端に映った。まるで、ずっと待っていた合図が来たかのような、そんな微笑みだった。



図書室の窓を、雨が激しく打っていた。

天井まで届く本棚が部屋をぐるりと囲んでいて、古い紙と革の匂いが、しんと静かに漂っている。炉には小さな火が入っていて、部屋の隅から隅まで、オレンジ色のやわらかな明かりが満ちていた。床に敷かれた毛足の長い絨毯が、足音を全部吸い取ってしまう。


レイフェル様は高い棚の奥から、一冊の古い絵本を抜き出して、長椅子に腰を下ろした。革張りの長椅子が、ふかりと小さく沈む。


私もその隣に、そっと座る。膝と膝の間に、指一本ぶんの距離。いつも通りの、けれどいつもより少しだけ近い距離。レイフェル様の肩からは、かすかに雨に濡れた木の枝のような、清潔な香りがした。


「覚えてる?」


差し出された表紙を見て、胸の奥が小さく鳴った。

色褪せた水色の背景に、傘をさした二匹の兎。知っている。確かに知っている。ずっとずっと昔に、どこかで。指先が、ひとりでに表紙の絵をなぞった。冷たい紙の感触が、記憶のもっと奥にある何かをかすかに揺らす。


「……半分だけ」


正直に答えると、レイフェル様は少し笑った。叱るでも、がっかりするでもなく、ただ「そう」とだけ言って、ゆっくりとページをめくっていく。指先がページの角を丁寧になぞる様子が、とても大切なものを扱うように見えた。


二匹の兎の物語だった。雨の日に、はぐれてしまった妹兎。兄兎は傘を手に、ずぶ濡れになりながらも森じゅうを探し回って、ようやく木のうろで震えている妹兎を見つけ出す。二匹は抱き合って、そして兄兎は約束する。「もう二度と、きみをひとりにしない」と。

ページをめくる音。炉で薪が小さく爆ぜる音。窓硝子を打つ雨音。


それらが全部、記憶のどこかと重なっていく。胸の奥の靄が、ゆっくりと動き始めていた。


「この絵本ね」

ページをめくる指が、最後の一枚で止まった。

「八歳の君が、泣きながら僕に読めって言ったんだ」

「……私が?」

「うん。読み終わったあと、『この本と同じにしてほしい』って」


記憶の靄が、ゆっくりと薄くなっていく。

雨音。図書室の古い紙の匂い。震えていた自分の小さな声。そうだ、私はあの夜、両親がもう帰ってこないかもしれないと本気で怯えていた。馬車の事故とか、盗賊とか、八歳の頭に浮かぶ限りの最悪を全部並べて、怖くて怖くてたまらなくて。迷子になった妹兎みたいに、どこにも行けなくなる気がして。


「それで、僕は約束したんだよ」


レイフェル様が、絵本の最後のページをそっと開いた。

挟まっていたのは、小さく折り畳まれた一枚の紙だった。時間の色に変わった紙を、彼は傷つけないようにゆっくりと広げる。指の動きが、聖書の古い頁をめくる神官のように慎重だった。幼い字で、よれよれの線で、こう書いてあった。


おおきくなったら、レイフェルのおよめさんになる。ぜったい、まいごにならない。


紙の下には、もう一人分の字。こちらは少しだけ整っていて、けれどまだ子供の筆跡だ。

まってる。かならず、まってる。あめのひは、ずっとそばにいる。


奥歯の裏側が、痺れたように冷たくなった。

違う。違う、そうじゃない。私から。私から、言ったのに。それを、私だけが。忘れて。十二年も、ずっと。


靄が、一気に晴れた。

そうだ。私から言ったのだ。泣きながら、鼻水をすすりながら、「絶対に迷子にならないように、おおきくなったらお嫁さんになる」と。そして十歳のレイフェル様は、生真面目な顔で、深くうなずいた。雨の日は、ずっとそばにいるよ、と。


膝の上に置いた私の手が、かすかに震え始めた。視界が、じわりと歪んでいく。


「……私」


声が、情けなく掠れた。


「ずっと、忘れていて、ごめんなさい」

「いいんだよ」


レイフェル様の手が、ためらいがちに、私の手にそっと重なった。冷たい雨の夜なのに、彼の掌は驚くほど温かかった。指の長い、綺麗な手。私の指の一本一本を、確かめるみたいにそっと包んでくれる。


「忘れられても、隣にいる権利だけは、手放したくなかった。だから、雨の日は必ず君をここに呼んだ。ずるい方法だって、分かってたけど」

「ずるくなんて、ないです」

「ずるいよ。十二年、ずっとずるかった」

彼は少しだけ眉を下げて笑った。いつもの穏やかな人の顔の下に、ずっと隠してきた、少年のような顔が覗いていた。傷つくのが怖くて、けれど諦めることもできなかった、十歳のままの顔が。


「君が思い出さないなら、思い出さないままでもいいと思ってた。ただ、雨の日に隣にいられるならそれで十分だって、自分に言い聞かせてた。……嘘だけどね」

「……嘘?」

「本当はずっと、君にもう一度、あの日の約束を思い出してほしかった。でも、『思い出して』って言ったら、それは君に頼んだ約束になってしまう。僕は、君が自分から思い出してくれるのを待ちたかった」


レイフェル様は、自嘲するように小さく息を吐いた。

「だから十二年、待った。今年に入って、君が二十歳になって、気づいたら、足りなくなっていたんだ。雨の日だけじゃ、全然、足りない」


窓を打つ雨音が、ふと遠くなった。

炉の火だけが、ぱちり、と優しく爆ぜた。

「ねえ、エルナ」

彼の声が、一段低くなる。

「そろそろ、あの日の約束の続きをしてもいい?」


私は、何も言えなかった。

言葉は全部、胸の奥でほどけて、涙に変わってしまっていた。耳の後ろが、じわりと冷たくなった。瞬きをしたら、一滴だけ頬を伝い落ちた。レイフェル様の手が、慌てたようにその涙を拭う。その指の動きの優しさに、また一粒こぼれた。


言えないまま、ただ一度だけ、こくんと深く頷いた。

それで、十分だった。

レイフェル様の手が、私の手をそっと包み直した。指先がほんの少しだけ震えていて、この人も十二年間ずっと、怖かったのだと分かった。忘れられるのが。聞かれるのが。続きを、拒まれるのが。


ずっと穏やかな顔の下で、ずっと震えていたのだ。十歳のままの少年が、二十二歳の青年の奥で、ずっとずっと待っていた。


私はもう片方の手を、彼の手の上にそっと重ねた。

「……雨の日だけじゃ、もう足りません」

ようやく絞り出した私の声に、レイフェル様は今度こそ、子供のように笑った。目元がくしゃりと崩れて、それから少しだけ、泣きそうな顔になった。


「うん」

「毎日、そばにいさせてください」

「うん。……うん」


二度繰り返した声が、少しだけ湿っていた。

彼は私の手を引き寄せて、自分の額にそっと押し当てた。長い指が、祈るように私の手を握りしめている。雨音が、再びゆっくりと戻ってきて、私たちをやわらかく包んだ。薪が一本、ぱちりと優しい音を立てて崩れた。


絵本の最後のページでは、二匹の兎が雨の中、一本の小さな傘を分け合っていた。

——もう、迷子にはならない。


しばらく、私たちは何も話さなかった。

炉の火が小さく揺れる音と、窓を打つ雨音と、二人分の静かな呼吸だけが、図書室に満ちていた。レイフェル様の肩に、自然と頭を預けた。彼は、少しだけ驚いたように身を固くして、それからゆっくりと、空いている手で私の肩を引き寄せた。


「……レイフェル様」

「うん」

「ひとつだけ、聞いてもいいですか」

「なんでも」

「どうして、待っていてくれたんですか」


十歳の少年に課すには、あまりにも長すぎる十二年だったはずだ。他に想う人ができてもおかしくなかった。忘れてしまってもおかしくなかった。それなのに。


レイフェル様は、少しだけ考えるように黙り込んだ。それから、独り言のように呟いた。

「待つ以外の選択肢が、思いつかなかったから、かな」

「……それだけ?」

「それだけ。君じゃない人を好きになる自分が、どうしても想像できなかった。だから待つしかなかった。それは待ったというより、ただ、そこにいただけだと思う」


穏やかな声だった。けれどその言葉のひとつひとつが、十二年分の重みで、私の胸にゆっくりと落ちていった。

「……ずるいです」

「なにが?」

「そんなふうに言われたら、私、もう一生、あなたから離れられません」

「うん。それが目的」


彼がくすりと笑って、私の頭のてっぺんに、そっと額を押し当てた。雨音が優しく私たちを包んでいた。この雨音だけは、きっと一生忘れないだろうと思った。



翌朝、雨は嘘みたいに上がっていた。

澄んだ朝陽が中庭の薔薇をきらきらと輝かせて、昨夜の雨が嘘のような青空が広がっている。濡れた石畳が、磨き抜かれた鏡のように空を映していた。玄関まで見送りに出てきた侍女のアンナが、私の顔を一目見て、ふっと小さく息を吐いた。


「……やっとですか、お嬢様」

「アンナ、あなた、知っていたの?」

「存じ上げないとでも?」


アンナは、澄まし顔で答えた。

「十二年前からずっと、侯爵家の皆様と、お嬢様のお父様とお母様と、そして私で、ずっと待っておりました。お嬢様がご自分で気づかれる日を」

「……みんな?」

「みんなです」

「……ひどい」

「ひどいのは、十二年お待たせしたレイフェル様のほうですわ」


呆れ半分、祝福半分の笑顔に、私は耳まで赤くなった。十二年間、私ひとりだけが、靄の中にいたらしい。それでも誰も急かさなかったのは、きっとレイフェル様が「待つ」と決めていたからだ。そしてみんなが、彼の決意を尊重していたからだ。


振り返ると、朝陽の射す玄関ホールに、レイフェル様が立っていた。いつもの穏やかな顔。けれど今朝だけは、隠しきれない喜びが、目元にじわりと滲んでいる。彼の後ろでは、侯爵夫人がハンカチでそっと目元を押さえていて、侯爵様がその肩を優しく叩いていた。


「エルナ嬢」


侯爵様が、一歩前に出た。いつもの穏やかな声が、今朝は少しだけ掠れている。


「これからは、この家の娘として迎えたい。正式な申し入れは、近いうちに改めて、君のご両親にさせてもらうよ」

「……はい」

私は、深く膝を折った。涙が、また一滴だけこぼれて、磨き抜かれた大理石の床に小さな跡を残した。

侯爵夫人が、静かに歩み寄ってきて、私の頬をそっと両手で包んだ。


「ずっと娘が欲しかったの」

その囁きは、私にだけ届くほどの小さな声だった。

「遠慮しないでね、エルナちゃん。この家を、もうひとつの実家だと思ってちょうだい」

「……奥様」

私はそれしか言えなかった。ふふ、と小さく笑う夫人の目元は、確かに濡れていた。私は頷くことしかできなかった。何度も、何度も、頷いた。


「また来てね、エルナ」


一歩下がったレイフェル様が、静かにそう言った。

「はい。晴れの日も」

「うん。晴れの日も」

彼はそう言って、ほんの少しだけ、はにかんだ。二十二歳の大人の顔の奥で、十歳の少年が、ようやくほっとしたように笑っていた。


馬車に乗り込むとき、最後にもう一度振り返った。

侯爵家の玄関先で、レイフェル様が手を振っていた。穏やかな人の、めったに見せない、無防備な手の振り方だった。私も手を振り返して、そして馬車の扉が静かに閉まった。


アンナが隣の席で、そっとハンカチを差し出してくれた。


「お嬢様」

「……なに、アンナ」

「おめでとうございます」

澄まし顔のアンナの声が、ほんの少しだけ湿っていた。十二年、この人もずっと、静かに見守ってくれていたのだ。


「ありがとう」

窓の外の景色が、朝陽にきらめきながら流れていく。昨夜の雨を吸った石畳も、葉っぱの一枚一枚も、全部が金色に光って見えた。こんなに綺麗な朝を、私は十二年ぶりに見た気がした。


膝の上でそっと両手を重ねる。右手の甲に、昨夜のレイフェル様の指の感触が、まだ微かに残っていた。


雨の日はあなたの屋敷に泊まる、という慣習は、今日かぎりで終わる。

明日からは、ただ「帰る」というのだ。

迷子になることは、もう、絶対にない。

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