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メトシェラ歴四千八百五十七年、四月十二日。
厳しい冬の間は深い氷と雪に閉ざされていたフィンノルド王国にも、ようやく雪解けの兆しが見え始めた春のある日に、ここ数ヶ月で急激に関係が悪化した国から一報が届いた。
『我が国に闘争の意思はない。しかし貴国の要求に応じることもできぬ。我々が望むのはイスティアの王族の身柄のみ。仮に逃れた王族を匿っているのであれば、即時引き渡しを要請する』
昨年末、突如として同盟国であり古くからの兄弟国であるイスティア王国を占領し、実効支配を宣言した大陸最南西の国、砂の大地ファイユーム王国からである。
「取り付く島もない、とはこのことね」
夫であるフィンノルド国王と共に報告を受けた王妃が嘆息した。王妃の名はエルセティア・イス・エスコ・リョ―ンロート。エルセティアは現イスティア国王の長子であり、王太子であるルーヴィルセムの姉だった。
「イフアメス王は、いったいどうされてしまったんだろう」
フィンノルド国王のミカ・エスコ・リョ―ンロートが物憂げな表情で親書を見つめる。
声明が出された直後、各国の王族のみならず一般市民までもが困惑した。悪い冗談としか捉えられなかったからである。
ファイユーム国王のイフアメス三世は、穏健派の人格者として知られ、内外問わずその治世に不和を生じさせたことのない名君だった。その温厚な性格から各国の王族との関係も良好で、慕われていた。
あのイフアメス王に限ってこのような愚策を取るはずがない。
突然の暴挙を、声明文ひとつで信じた王は一人もいなかった。ミカも当初は何かの間違いと取り合わなかったが、港や国境の町から「イスティア王国の様子がおかしい」と相次いで上奏があり状況が変わった。
フィンノルド王国とイスティア王国は、内海を挟んで向かい合う、地理的にも精神的にも最も近しい隣国だ。内海に海上の国境線があるにはあるが、殆ど共有している有様で、北東に唯一陸地の国境線があるのみ。国境線を挟んでイスティア王国の街と隣り合うトロハンメルの街では人々が自由に行き来し、祭りも合同で行われ、互いの領地の収穫物も当たり前のように流通する。冬場に内海が凍結すれば、互いの港を犬橇や馬橇で行き来するアイスロードも共同で開通させる。切っても切れない間柄の兄弟国だった。
両国間の交流は盛んで、顔見知りの国民同士は数知れない。事実確認の人出を割くまでもなく、実際にイスティアの国民と友好関係を築いている市民から詳細は知らされた。
国境近隣の市民の話では、異変はヨール祭の翌日から既に起きていたという。
まず港では、いつも通りに商売をしに訪れた商人が、見慣れない顔つきの軍人に追い返され、国境の街では城門が降ろされ街に入ることができなくなった。そうして様子を伺ううちに、明らかにイスティア軍ではない兵士たちが続々と増えていき、ただ事ではないと報告を上げたらしい。
声明文が各国に届けられる頃には、イスティア王国の国境をぐるりとなぞる様に、ファイユーム王国の兵士が等間隔に展開されていた。陸も海も警戒するためか、人気のない海岸線であろうが断崖絶壁であろうが、一分の隙もなく配置されていた。港町や国境を有する町は特に厳重で、急造の関所によってファイユーム軍以外の入国は例外なく退けられた。
さらに気がかりなのは、イスティア国民の生活が現在どのように営まれているのか不明なことだった。これは顔見知りが心配だと言って侵入を試みた市民の、「人っ子一人いないかのように町が静かで、誰もいなかった」という証言に端を発し、同様の証言はヨール祭の翌日に追い払われた商人たちからも得られている。偵察に出した兵の報告では、遠目に観察できる街や港に限られるが、ファイユーム兵以外の市民らしき人影が一切見当たらないとのことだった。
フィンノルド王国とイスティア王国は、地理的にも精神的にも最も近しい兄弟国だ。かつてはフィンノルド王国の領土も含めてひとつのイスティア王国だったが、ある時割譲されフィンノルド王国が樹立した。歴史も文化も共有する、名実ともに誰もが認める兄弟国だ。
——片割れを謂われなく害されたのなら、自国が攻撃されたも同然だった。
「抗議文も、説明責任を仄めかしても一蹴され、占領地返還を促してももちろん拒否。まるで進展しないわ」
挙句の果てに王族を匿っているなら差し出せと勧告される始末。
——フィンノルド王国にいるなら、もっと話は早いのよ‼
イスティアの王族が亡命したなら、その行先はこの最も親しい隣国、フィンノルド王国であるはずだった。しかしこの四ヶ月間で、エルセティアは一度も肉親の無事を確認できていない。
ヨール祭の日、イスティア王国内で、奇妙な発光現象が起きていた。それは常の神事の灯りとは明らかに異なるもので、エルセティアも目撃した。その直後にルーヴィルセムから弟妹を国外に逃がしたので世話を頼む、という趣旨の短い手紙が届いたきり、肉親とは一切連絡が取れていない状態だった。真ん中の弟と、唯一の妹はルーヴィルセムの手紙を信じるならば国外に出ているはずだ。一緒にいるのか、それとも別行動なのか、それすらも分からないが。では両親はどうなったのか。亡命できているのか、それとも……殺害されているのか、安否が危ぶまれる。そして唯一報せをくれた弟も、以降の音沙汰がない。
昨年末から気を揉み続けていたエルセティアは、この頃とうとう限界を迎えようとしていた。
——誰でもいいから、なんとかして連絡寄越せ。
消耗した精神で考えることなど、この一言に尽きる。
王族の誰かしらが保護できれば、少なくとも方針が決められた。フィンノルド王国で仲介しつつ、対話するなり講和を結ぶなり、何かしらの進展が望める。本格的に開戦するのであれば、イスティア王や王族の意向に沿い、共に戦うこともできる。しかし王族が揃って雲隠れしている現状では、フィンノルド王国としてはファイユーム王国を糾弾する以上のことができない。ただでさえ家族の行方が知れない状況で焦燥感は募るばかりのところを、己の立場としても国としても対応が宙に浮いた状態が続くのは、精神に多大な負荷がかかるものだった。
王族が捕らえられたという報告は未だない。ということは、すぐ下の弟を除いて年少の弟妹は無事に逃げおおせているのだ。拠点を築けず移動し続けているのか、あるいはどこかに潜んで機を窺っているのか。どれだけの護衛がついているか、たった一人で放り出されてはいまいか。憂慮に堪えなかった。
「うん、もう手詰まりだね。情報収集は継続しつつ、周辺国からもファイユームへ働きかけてもらうしかないかな」
再度溜息を吐いたエルセティアは、隣から聞こえたミカの声で、ハッと顔を上げた。
「でも、どこもあまり協力的ではなかったわ」
「王族がここまで潜伏すると考えていなかったんだろう。真冬だったからね。降伏か和平交渉か……、どちらにせよ長引かないと思われていたんだ」
ファイユーム王国から声明文が出された後、それが紛れもない事実だと知った各国は、相次いで非難した。イフアメス王なら各国の王が諭せば、考えを改めるだろうと。しかし予想に反してファイユーム王国の強硬姿勢が崩れることはなかった。すると次に起きたのは、示し合わせたかのような静観だった。火種を大きくしないために、各国は賢明な判断を下したと言えるだろう。そうして作り上げられた膠着状態は、すぐに解かれるはずだった。
「でももう季節は巡った。春になれば、活動範囲が広がる」
公共の移動手段は、当然ながら見張られているだろう。場所によっては罠が仕掛けられているかもしれない。自力での移動しかできないのであれば、冬はどうしても移動が困難になる。しかし気温が上がる春以降であれば、野宿も可能だ。普段人が踏み入らない森や山を抜け、ファイユーム王国が敷いた包囲網を突破することも可能になるだろう。
互いの動きが活発になる。それは必然と言えた。
「……確認だけど、フィンノルド王国に何もアクションが無いってことは、他に当てがあったってことでいいんだよね?」
一瞬の逡巡の後、エルセティアは大きく頷いた。
「ええ。国や王族クラスの後ろ盾というのはあまりないでしょうけど……、個々に伝手はあったはずよ」
それだけは確かなことだった。
頼る先として、フィンノルド王国がいの一番に上がっただろうことは間違いない。けれど昨年末からこれまで手紙のひとつもないということは、弟妹達は姉に迷惑を、他国を渦中に引きずり出す事を嫌ったということだろう。だから別の伝手を頼り、身を寄せた。その確信がエルセティアにはあった。そのまま連絡を取れない状態に陥ったか、はたまた一切関わらせない心積もりなのか。いずれにせよコンタクトを取らなければ話にならない。
「ならやはり、最優先は情報収集だ。ファイユームもそろそろ動き出すだろう。各国に情報連携をしてもらえるよう要請しよう。それから牽制も」
「どうせまた断られるわよ」
「牽制の方は断られるだろうけど、情報連携の協定なら動いてくれる可能性はある。ひとまずカナルには親書を、レベナンテには特使を派遣しよう」
さして期待はできなさそうだ。何もしないよりもまし、程度の気休めにしかならないだろう。そうエルセティアが鬱々しい考えに囚われかけたとき、天啓が舞い降りた。思い立ったら吉日とばかりに、エルセティアはそのひらめきをにっこり笑顔で夫に告げる。
「じゃあそれ、私が行くわ」
「え⁉」
突拍子もないエルセティアの言葉に、ミカが素っ頓狂な声を上げる。執務室にいた他の者たちも総じて色めき立った。
「城でじっとしてるから皆手を出しにくいのよ。私が出かければ、リルもラティアも会いに来てくれるか手紙も飛ばしやすいんじゃないかしら」
素晴らしいアイデアだ。久方ぶりに外出できることに加えて、弟妹も釣れるかもしれない。考えれば考えるほど名案だと思う。エルセティアの白磁の頬が、上機嫌に紅潮していく。
「いや、待ってルティア落ち着いて。ミラはどうするの、というかまだ安静にしていて欲しいな切実に」
気色ばんでやる気を募らせていく妻に、ミカはこれ以上ないほど狼狽えた。先ほどまでの冷静な王の姿は剥がれ落ち、見る影もない。
「ミラのことは……乳母とアウラに任せるわ。オルガはレベナンテ出身だから連れていく」
「出かけるならアウラも連れてって! というかミラは生まれたばかりでしょ! もう少し大きくなるまでは長期の外遊はいいから‼」
王妃自ら特使になるって何⁉
ミカの悲痛なツッコミみが執務室に木霊する。
「城に引きこもっているのも飽きたし、鈍っちゃうもの。オルガがいれば大抵のことは問題ないし、いざとなったら私も闘うわ」
「それ本当の最終手段だって分かってる? というかダメです。却下。王様権限行使します」
「どうして⁉ たぶんリルは釣れるわよ⁉」
「そうかもしれないけど絶対ダメ! 軽率‼」
臆面もなく弟を釣ると発言するエルセティアに、ミカは猛反発した。もはや威厳もへったくれもない。もっとも、今この執務室には身内かそれに等しい人間しかいないため、体裁を繕う必要もないのだが。
「ルティア、流石に姫がかわいそうだ。特使は他に譲ってやれ」
「ルティア様、今回のところはお控えください」
延々続きそうだった夫婦の言い争いに割って入ったのは、ソファに座るエルセティアの背後に控えていた二人の侍女だった。やり玉に挙がっていたエルセティアの親友、オルガ・バーレと、エルセティアにとっては姉のような存在のアウラ・トロムスラーグだ。三人はエルセティアが「レベナンテ王国王立フリーン養成学院」に「留学」していた頃からの付き合いで、学院生活も実習も、そして就職してからも共に過ごした仲だった。エルセティアが王妃となった現在では、二人ともエルセティア付きのフリーンとして側にいてくれている。
フリーンとは、レベナンテ王国に存在する侍女の役職のことだ。
侍女の中でもあらゆる技能や知識に精通し、貴族に匹敵する教養を備えている。実際に貴族の出身者も多いが、一般の侍女とはひとつだけ違う業務内容があった。
それは、仕える主人の護衛も担うことである。
外出先で、あるいは私室や寝所で不測の事態に見舞われた時、主人の最も近くで警護し、最後の砦となりえる者だけが就ける、侍女の最上位に位置する役職だった。日々の職務は侍女と変わらないが、卓越した技能は一般の侍女とは一線を画す。まさにスペシャリストと言える存在だ。現状ではレベナンテ王国王立フリーン養成学院を卒業し、資格を得た者だけが名乗ることが許される、レベナンテ王国では女性たちの憧れの職業だ。
「まだ本調子じゃないだろう。外出するなら、勘を取り戻してからにしてくれ」
「訓練ならいつでもお申し付けください」
「僕としてはもう闘って欲しくないんだけど……」
オルガとアウラの言葉は的を射ていた。エルセティアの体は妊娠前の健康な体に戻ったとは言い難く、体重の増減と運動禁止令によって長らく続いた運動不足により、以前のように立ち回ることはできなそうだった。そう思い至り、エルセティアは渋々特使を諦めることにした。本当に、渋々だ。零れ落ちたミカの本音は黙殺した。
「……分かった」
「ではそのお役目、僕にお任せください」
苦笑交じりに特使を買って出たのは、ここまで無言を貫いた強者、セリム・エスコ・リョーンロートだった。ミカの実弟であり、エルセティアの義弟にあたるフィンノルド王国の第二王子だ。ルーブリルムとは同じ年で第二王子という同様の立場から、エルセティアが輿入れする前からの親しい友人でもあった。
「王妃殿下の名代ならば、王弟である僕が適任かと」
「ああ、頼んだセリム」
「はい。ついでに例の目撃情報も調査してきます」
占領から四ヶ月が経とうとしているが、家族の目撃情報は殆どなかった。その中で唯一とされた目撃情報が、「上質な布で拵えられた衣装を着た三人の少年が服を売りに来た」というハシャの商人から出回った噂によるものだった。
ルーブリルムと従者のロキ、リィフィムのことだと直感的に悟ったが、確証がない。他にデマらしいデマもなく、目ぼしい目撃情報がないのではなんとも怪しく思える。そのため冬季でハシャまで遠征できなかったという事情も手伝い、未だ真偽を確かめられていなかったのだ。
デマならそれはそれで問題ない。別に何も変わらないからだ。だがそれが真実であったなら、状況は一気に好転するだろう。
「今、外で自由に動けるのは僕だけです。だから、もし噂が真実だったなら……引きずってでも連れて帰ってきます」
「ファイユームの動向には気をつけるんだぞ」
「もちろん。特使としてもしっかり勤めを果たしてきます」
噂が真実であればいい。
「セリム、リルのこと……お願いね」
そう、願わずにはいられなかった。
「承りました」
力強く頷いたセリムは、オルガ始め十数人の使節団を率い、この三日後にレベナンテ王国へと出立した。




